第1話
空野誉は愕然とした。
握った祖母の手は枯れ枝のように脆く、かつて誉を殴りつけたあの岩のような手と同じとは、到底思えなかった。下に敷き詰められている花が透けて見えるのではないかと思うほどに、その肌は青白い。筋張った喉は誉の二の腕ほどに細いのではないかと、そんなくだらないことがふと頭に浮かんだ。
母はそっと誉の手から祖母の手を抜き取り、献花を終えて離れていく。そのあとを追いながら、ぐわんぐわんと、根底から揺るぎかねない震えの中で誉は考えた。
祖母は汚かった。
もともと祖母の、あの『老人』を彷彿とさせる臭いも、崩れた歯も、ミイラのように皺が寄った手も、すべてが嫌いだった。けれど、感じたのはそういった生理的な嫌悪ではない。
発達している青年特有の、他者に向ける言葉にしがたい負の感情なんて生易しい。癇癪やヒステリーとは違う。
周囲の人から向けられる、祖母への悪意。
参列して初めて感じるその重圧に、背中が泡立つのを感じた。
まるで、そう。彼らが祖母に向ける目は、道路で潰された猫に向けられる目のような、虐げる存在への目だった。
決してそれは、人に向けられていいものではないだろう。少なくとも、祖母の財産に救われてきた人間が向けるべき目ではない。
誉は自分の感情を棚に上げて考えた。
もしや、死とは見捨てられることなのか?
小学四年生の冬、ふとその考えに至った誉は、その場で嘔吐した。
空野誉が、誇色満に出会ったのはそれから三年後のことである。
◇◆◆◆
黎明高等学校の教室で、数人の男子生徒が三つの机を取り囲んでいた。
隙間なくつけられた机の中央には乱雑に数枚のトランプが置かれ、それを取り囲む男子生徒たちは一様に真剣な表情を浮かべている。
外からは部活に勤しむ生徒の掛け声が響くが、教室の中にいる生徒たちは物音すら立てない。その視線は、一人の男子生徒に向けられていた。
その視線を一身に受ける男子生徒、誇色満は手に持っていた四枚のカードのうち、三枚のカードを机に放り投げた。ジョーカーが二枚と、二のスペードが一枚。
その手札に、彼の隣に座っていた鳳はギョッと目を見開いた。
「お、まえが持ってたのかよ!」
「いやー、はは」
満はざわめきだす男性生徒たちをしり目に、最後の一枚――ダイヤの七のカードをそっと机に置いた。これで彼が持っていた手札はゼロになる。
目を閉じ仰ぐ鳳は、体を弛緩させて持っていた手札を机にばらまいた。その枚数は三枚、満が持っていた枚数を同じである。満を挟んで、鳳の反対にいた男子生徒は、ホッとした表情で二のカードを置き、一度流したうえで十二のカードを二枚置いた。
ここで手札を持っている生徒は鳳以外にはいなくなったため、鳳の負けが決まってしまった。
「相変わらず運がいいな、誇色」
「まあ、それでも三番抜けだからな。弱いカードが中心だったし、負けるかと思った」
「その誇色に俺は負けたんですけどねー?」
威圧するように頭を傾けつつ近づいてくる鳳を押し返しながら、満は壁に掛けられた時計を見て慌てたように口を開いた。
「っと、そろそろ帰らなきゃ」
「勝ち逃げか!!」
「うえあっ?」
立ち上がったことで離れていく腕をとり、さながら妖怪のように引っ付いた鳳の重さに耐えかねたのか、満は妙な声を出しながら踏ん張った。
しかし体制を崩した満の足もとに、携帯電話が派手に音をたてて落ちた。
慌てて携帯電話を隠そうとするが、それよりも早く鳳が奪い去り、下面に表示されたチャット履歴に片眉をあげた。
「誇色ィ、お前、空野に指示してもらってんじゃねぇか!」
「え、あ、いやー」
へへ、と後頭部に手を当てておろおろする満は、にじり寄ってくる鳳に掌を見せた。
卑怯だぞー、と後ろからヤジを飛ばしてくる他のクラスメイトにも、苦笑いを見せながら弁解しようとするがなかなか口から言葉が出てこなかった。
満自身も、正直に言えば携帯電話で指示を出してもらうことが卑怯だとは思っていたからだ。
無意識のうちに、助けを求めるように満は視線を動かした。
視線の先――空野誉は本に目を落としたままこちらを気にした様子もない。
「ほ、誉」
なんとか助けを求めて絞り出した声に、おそらく初めから事態に気付いたうえで無視したのだろう誉は深い息を吐いた。
面倒くさそうに持ち上げられた目は泥沼のように淀んでいて、こちらに顔を向ける動作もどこか遅い。
空野誉は、逃げ腰の満と、彼ににじり寄る鳳と、机に乗り出しつつも静観の姿勢を保ったクラスメイトを見回し、一度だけ、深く頷いた。
「よし、トランプは終わったな。帰るぞ」
「なんでだよ! この状況を見ろ、っていうか聞いてただろうお前も! なんで指示なんか出すんだよお前」
もはや聞く気もないのか、立ち上がり、ビニール袋から鞄を取り出し帰る準備を始めた誉に、鳳の声は次第に小さくなっていく。
それは鳳にしてみればいつものことではあるのだが、それでもここまで綺麗に無視されると空しい気持ちが溢れてくる。
「まぁ、トランプをやりたかった誉の代わりに、俺がやってたって思ってよ」
「お前、過保護すぎるぞ」
「やっぱそう思うよな……俺も思ってるよ」
鳳の言葉に深く賛成しながら、満も鞄を持ち上げた。彼の鞄はぺしゃんこでほとんどものが入っていないことが見て取れた。携帯電話を操作して、チャット画面を閉じる。
いまだに慣れよりも呆れが強い鳳は不満そうだが、すでに誉の様子をいつものことと捉えたクラスメイトたちは、次の勝負を始めようとトランプをシャッフルしている。鳳の手札まできちんと配分されているが、勝ち逃げしようとしている満に手札は配られていない。
「あ、ねぇねぇ、ちょっと聞きたいんだけど、空野」
さて帰ろうかと並んだ満と誉――正しくは、それまではめていた手袋を、眉を寄せながら外し、それどころか満に渡した誉に向かって、一人の男子生徒が話しかけた。
先ほどまで、周りがヤジを飛ばしても椅子に座りにこにこと静観していた八良は配られた手札を引き寄せた。
扇状にトランプを広げて、二枚のカードを机に放る。
「誇色がジョーカー二枚を持っていたわけだけど、どうして初めのほうに使わなかったの? 二枚もあるなら、三番じゃなくて二番手くらいで上がれたと思うけど」
もっともな意見に、周囲の生徒ではなく満も頷く。
なんとなくそれは勝負中も感じていた。携帯電話で指示を出され素直に従っていたが、初めから自分の手札は見えていたのだ。自分の手札にはまだ出せるカードがあるのに、わざとパスしたこともある。
向けられた十の目に、誉は嫌そうに顔の半面を歪めた。
「なんで説明なんか……」
「いいじゃん、勝ち逃げするんだからそれくらい」
そう言われて、誉は口をつぐんだ。
別に悪いことではないが、確かにコンビニのアイスをかけた勝負から途中で抜けるのだ。それくらいの痛みは必要かもしれない。
とは思いつつ、わざとらしく誉はため息をついた。
「理由は二つ。一つは最初の手札がクソみたいに弱かったこと。ジョーカーを出すことでパスしなくてもいい場面はいくつかあったが、あそこで出しては『こちらの手札にはこれ以上強いカードがない』と教えるのと同義だ」
「ま、確かにね」
「二つ目、最後までジョーカーは二枚とも出ていない……そのうえでパスを連発する満は勝ちを狙う二人から対象として外れ、おそらく相手がジョーカーを持っている、と二人ともが考えていた。切り札は、最後まで使わないことにも意味があるんだよ」
なるほどー、と満はクラスメイトとともに頷いた。
とにかく手札を減らすという作戦とも言い難い考えしか持っていなかったことに、少しだけ気恥ずかしさもあったが、何より騙されていた自分たちに反省する。
その様子に、誉は顔全体を歪めた。
そのなんだか不機嫌そうな様子に、満だけが顔を引きつらせる。
「えっと、誉?」
「お前、それくらいはわかれ」
ぐうの音も出ない正論に、満は背筋を伸ばした。誉に叱られると、いつも先生や親に叱られているような、どうしようもないほどに申し訳ないと思ってしまう。
もはや用事はないと言わんばかりに背を向けた誉に、満は駆け足でついていく。
教室から出る前に後ろを振り返れば、鳳はいまだにふて腐れたように眉を寄せていたし、八良はにこにこと笑いながら手を振っている。他のクラスメイトに至ってはこちらに見向きもせず大富豪を始めていた。
すでに大量の手札が捨てられており、鳳だけが不利な状況だがそれでいいのだろうか。
彼はもう三敗していたはずで、あとはないのだけれど。
まあそれは言わないほうが身のためか。
満は何食わない顔で手を振り返し、廊下を曲がりそうな誉を追って教室を出た。
後ろから何やら「なんで始めちゃってんのお前ら!?」という声が聞こえたが、それは満のせいではないので聞かなかったことにした。
小走りにあとを追い、満は誉の隣に並んだ。
階段を足早に降りていく誉に、満はゆっくりと、階段を二段飛ばしで降りていく。
「そういえば、放火魔の話、聞いたか?」
「愚問だな。僕の母親がそういった話題に飛びつかないとでも?」
「千秋さん、相変わらずだな……」
表情を変えないまま淡々と答える誉だが、満にはどうも困っているように見えた。
大方、夕食時にでも永遠と話しを聞かされたのだろう。
なんだかんだ母親の話しを聞いてしまうあたり優しいと思うのだが、そんな息子にこれ幸いとマシンガントークを繰り広げる母親にも呆れるものだ。
しかし彼女の話しを聞いているならば都合がいいのも事実である。
満は思い出すように目線を上に向けた。
「十日前の夕方六時、公園の一角で一件目の放火が発生。四日前の夕方五時半ごろには、駅前のごみ箱で放火が発生。どっちも人通りはそれなりにあるほうだけど、有力な目撃証言はまだ寄せられていないのか、捜査は難航しているみたいだな。小規模で、煙に気付いた人に発見されているらしいけど」
指を折りながら数え、首をかしげる。
話題にはしてみたが、とっても小さな町の事件だ。家の一軒が燃えたわけでもない。
「知っている。母親は十日前、公園にいたらしい」
「うわ、まじかよ……じゃあその場にいたのか?」
「知り合いに会って立ち話をしてすぐ、煙に気付いたらしい。通報したのは僕の母親だ」
「嬉しそうに話してた?」
「今までにないほどにな」
くわっと顔を歪めた誉は、玄関に向けて歩き出す。
玄関に並べられた靴箱の周りには、異様なにおいが漂っている。まだ晴れの日だから威力は弱いが、雨の日に靴箱の近くにいると、うっかり胃の中身を戻しそうになる破壊力を持つ。
なるべく息をしないようにしながら、満は自分の靴箱から外靴を取り出して入れ替えた。
隣では誉が、持っていた靴袋からビニールに入れられた外靴を取り出し、代わりに中靴を入れている。荷物が多くなる程度のことは彼には障害にならないのだ。
踵を半分ほど踏みつけた満は、だらだらと外へ出る。
時刻は夕方の五時半。
二件目の放火は今頃の時間に起きた。
まだ肌寒い日もあるが、今は夏に入りかけた五月。
夕方の五時には電気をつけなければならないほど暗くなる冬とは違う。人通りの多い時間帯といい、見つかる可能性が多いのだ。
「にしても、なんで放火なのかね……規模も小さいし、ただの憂さ晴らしなのかな」
「可能性は大きいだろうな。基本的に、放火魔は目立ちたがり屋が多いとも言われるし」
「そうなのか?」
部活動が行われているグラウンドは学校の裏側にあり、二人が歩く学校の正面には煉瓦道がまっすぐに通っている。
部活動に勤しむ生徒以外はすでに帰っていることもあり、昼食時には外で食べる生徒で賑わっているこの道も、今は人影も見えない。
ただ学校の裏側から、部活生の掛け声が響くだけだ。
その声も、学校から離れるほど小さくなる。
黎明高校があるこの町は、広いとは言えない。三時間もあれば見て回れるくらいには何もないのだ。
町の東には大きな山がそびえ、西には大きな川を挟んで隣町が広がっている。南には東から続く山がそびえており、西には鉄道が走っている。鉄道の線路の先は隣町だ。
放火は二件。
一軒目は西側に位置するアパート群近くに作られた公園の一角。
二件目は、西に線引きするように作られた鉄道の駅前。
この小さな町で起きたとはいえ、放火となれば無視もできない。
が、やはり所詮は小さな規模だ。
放火といえば家などが燃やされる大規模なものを想像するが、今回の事件はどちらも規模が小さい。時間も人通りが多い時間で、正直、犯行に向いているとは思えない。
そのことを『目立ちたがり』という誉に、満は眉をあげた。
ミステリ好きでもない満は、犯罪ごとの犯人の特徴など考えたこともない。
「……何を期待しているか知らないが、こんなものはプロファイリングとは全く異なるからな」
「いやいや、かなり絞れるじゃん」
「バカ。こんなもの、血液型占いみたいなものだ」
感心する満とは反対に、誉は肩を落とした。
「野次馬っているだろう。放火魔は消火活動の際には近くに姿を見せる場合があるとも言われているが、それは『放火された家に群がる野次馬を見るため』だ。自己顕示欲が強いというか……言い換えれば、それは目立ちたがりともいえるだろう」
「……確かに」
「今回の放火魔はどちらも規模が小さい。ただし、そのどちらともが『夕方』という時間帯だ。学生の帰宅時間だから人通りも多い。場所もそうだ。公園、駅前……どちらも人が多く通る。目撃者が多く、『野次馬根性』のない一市民でも騒ぎ立てるからな……それに放火が続けば住民たちの不安も高まるし……その様子を見ている可能性も否定できない」
それだけではない気がするが。
と呟く様子は、満には考え付かないようなことまで思考を巡らせているようだ。
先を促そうと、満が口を開いた瞬間――二人の耳に、空気を引き裂くような悲鳴が届いた。