第一章 ―7―
「あ、妖だ……! 城下に妖が出た!」
叫びながら入ってきた男の言葉が言い終わると同時に、店の不穏で張り詰めた空気が一瞬で爆発した。皆一斉に悲鳴をあげたり、我先に逃げようと怒鳴り声をあげたりして騒がしくなる。
私は何が怒ったのか理解できず、唖然としていたが、周りの異様な雰囲気が怖くて体が震える。常和がすぐに立ち上がり、煉華は腰に差していた刀に手を掛けた。
「俺が様子を見てくる。煉華はここで夕澄を守れ」
「分かった。夕澄、大丈夫だよ。私がいるから」
煉華が私を安心させるように笑った。でもその目はすぐに真剣になる。
常和はすぐに外に出てしまった。店の中の人間も、私と煉華と、お店の人を除いて他に誰もいなくなった。
「妖浄士がいるんだから、下手に逃げるよりここにいたほうがずっと安心ですよ。だから大丈夫です」
そういって店の人は私に微笑んだ。本当に安心しきっているような顔をしていた。
だが私は何が安心なのか分からず混乱していた。妖が出るということがどういうことなのかわからなかったが、少なくともとても恐ろしいものだということはわかる。そうでなければここまで、街がパニック状態になったりしない。
急に恐ろしくなってきて、手をぎゅっと握り締める。煉華がその手に自分の手を重ねてくる。
「私がいるから大丈夫だよ。妖浄士は優秀なんだから」
ぎゅっと手を握られてそう言われると、泣きそうな気持ちになる。ぐっとこらえて深呼吸をする。せめて煉華の集中を邪魔しないように、平常心でいなければならないと思った。暫くすると、常和が戻ってきてため息をついた。
「どうやら街の外に逃げたようだ」
すたすたと歩いてきて椅子に座った常和は重いため息をつく。
妖浄士という仕事柄なのか、雰囲気がとても刺々しい。悔しそうに前髪をかきあげては、ため息をつくという作業を繰り返す彼を見ていると、今までの彼とは随分と違って見えて、異常事態だということを尚更実感してしまう。
「常和、あんまりイライラしないで。夕澄が怖がる」
「……ああ、悪い」
常和は、深い息を一度吐くと、真剣な顔つきになる。刺々しい雰囲気は消えても視線はまだ鋭いままで、何かを考えるように空中を見ていた。そしてもう一度ため息をつく。
「とにかく城に戻って報告をしたほうがいいな。この間のことといい、様子がおかしい」
煉華は常和の言葉に頷いて、申し訳なさそうにこちらを見た。
「ごめんね夕澄。折角、城下を見にきたのに」
「いいよ、城下はまた今度でもいいけど、今はそっちのほうが重要なんでしょう?」
そういって微笑むと、煉華も微笑んでくれた。
そうはいってみたものの、街の騒ぎの異常さと煉華と常和を見ていてそう思っただけであって、妖というものがどういうものなのかわからない以上、何が起きているのかははっきりわからない。妖というものが怖いものだという認識しか持てていない。何も知らないから、雰囲気に取り残されているような気がして、店の人と話している煉華と常和をじっと見ていた。
この世界は私の知っている世界じゃない。そんなことは今更すぎるのに、もう一度強く実感させられていた。何もわからない所に一人放り出されたのだ、そんなことが頭に浮かんで、振り払おうとしても出来ずにいた。そして思う。
――本当に、この世界にきたのは私一人なのか。
もしも夕月が一緒にこの世界に来ていて、違う場所に飛ばされていたとして、そこが妖がいる場所だとしたら。そこに常和と煉華のような人がいなかったとしたら。
不安はぶくぶくと膨れ上がって思考を支配する。体が冷えていくような心地がした。
もしも、夕月を失うことになってしまったら、どうすればいいというのだろうと、唇をかみ締めると、肩を叩かれた。
ばっと顔を上げると、眼を見開いた常和がいた。
「どうした、怖いのか? お前には俺達がついてるから、大丈夫だ」
「……違うの」
心配そうにみてくる常和に、その一言をいうと、泣きそうになって口を閉じる。
嫌な想像ばかりをしてしまう。
煉華も来てどうしたの、と声を掛けてくれた。
でも、口を開いたら泣いてしまいそうで何も言うことが出来なかった。
「夕澄?」
煉華が心配そうに名前を呼んでいるのに、と思ってもどうすることもできずにいると、ぽん、と常和に肩を叩かれた。
「泣きたかったら、泣いたほうがいい。何を怖がっているのかはわからないが、溜め込んでいるといつまででも嫌な感情がついてまわるぞ。見られるのが嫌なら、席をはずすから――」
そういって立とうとする常和の服を掴んで首を振ると、常和は一度浮かせた腰をもう一度おろした。
「怖いの」
口に出すと、押し込めていた感情がせりあがってきて目の前が滲んだ。
常和も煉華も何も言わずに只じっと待っていてくれる。
「夕月が……この世界に来ていて、妖か何かに襲われてたとしたらって、」
「夕月っていうのは、前に言ってた双子の弟君?」
煉華の問いに頷いて答える。
そっか、という煉華は言って、先程と同じように、手を重ねてきた。
「私、よくわからなくて……ここがどんな場所なのか。だから今まで不安だけど大丈夫だろうって簡単に考えてた。でも、ここの人にとっての妖っていうのはとても怖いものみたいだって今更思って。夕月が襲われてたとしたら……妖じゃなくても、人に襲われるかもしれないし、それにこっちにきてなかったとしても、階段から落ちたのに、怪我をしてないなんてことあるわけないのに」
常和も煉華も、どうしていいのかわからないという顔をしていた。
でも、一度吐き出してしまった感情を落ち着かせることは出来なかった。
「大丈夫だなんて安易にいうことは出来ない」
常和の言葉にびくっと体が震えた。
「でも、大丈夫だという希望がないわけじゃない」
「……どういうこと」
「お前の弟が無事だって、そう信じることは出来る、ってことだ」
常和、と煉華が常和を呼ぶと、常和は煉華に首を振った。
そして私の瞳を覗き込む。
「俺が、陛下と燈樺様にお前の弟のことを探してくれるよう頼んでみるから。辛いかもしれないけど、可能性がある以上、希望は捨てるな」
常和は言い聞かせるように強く言う。その瞳は真剣で、こくりと頷くと、彼は笑った。
ぽんぽん、と背中を優しく叩かれる。
信じることしかできない。その事実はとても辛いものだった。でも、せめて大丈夫だと信じていなければいけないように、常和の言葉を聞いて感じる。不安はそう簡単には消えてくれないけど、信じるしかない。それしか、私にできることはないのだ。
だから、不安な気持ちを抑えてもう大丈夫だと笑ってみせた。無理に笑顔を作っているのはわかるだろうけど、常和も煉華も何も言わずに微笑んでくれた。




