第一章 第一次世界大戦での余韻
1914年、オーストリア=ハンガリー二重帝国南部サラエボで皇太子が暗殺される事件が発生した。犯人はセルビア人でありこれに激怒したオーストリア政府はセルビアに最後通牒を突き付けた。これに対しセルビアは拒否し、これにロシアも支援を表明していた。結果としてオーストリアとセルビア間で戦争が発生した。しかし、当初ロシアもドイツもこれに対し支援するものの軍事介入はしないままでいた。しかし、その静寂を打ち破るさらなる事件が発生した。それはハンガリー東部にて新ロシア派の青年がハンガリーに滞在していた政治家を銃撃したのだ。これを受けオーストリア政府はセルビアの事件に便乗してロシア政府が軍事介入を図ったと表明しロシアに対して最後通牒を突き付けた。もちろん、ロシアは今回の件にかかわりがないため最後通牒を拒否。これを受けロシアでは総動員令が発令され、国際秩序の安定を望むドイツもともに総動員令を発令した。さらにフランスは対ドイツ政策としてロシアと軍事同盟を結んでいたためドイツ参戦時には我々もロシア側で戦うと宣言し総動員令一歩手前まで進めていた。これに対し当初イギリスでも静観の姿勢を向けていたがのちに参戦することとなる。
そして1915年3月、オーストリアがロシアに宣戦布告しついに世界大戦が勃発した。ロシア、フランス、セルビアは協商陣営を結成しドイツ、オーストリアは中央同盟陣営を結成した。この戦争は世界中に衝撃を与え、日本、アメリカ、イタリアもこの行方を眺めていた。その中で同年5月、ドイツ主導の元、シュリーフェンプランが実行され、ベルギー、ルクセンブルクに宣戦布告し侵攻を開始した。ドイツ軍はこの計画の成功に向けて特殊部隊を結成し電撃的に進行。結果として同年6月にはベルギー首都のブリュッセルの制圧を成功しこのままドイツ軍はフランスに向けて南進を開始した。一方このドイツの進撃を受け、ベルギーに独立保障をしていたイギリスは国内で一気に対独戦争の声が広がり7月のベルギー降伏後に参戦していた。しかし国内では総動員令が出ておらず当初計画されていたフランス防衛線では想定の半分程度の戦力しか用意できなかった。これによりフランス戦線は膠着に持ち込めるもののじりじりと押されることになった。
一方の東部戦線、対ロシア戦線ではシュリーフェンプランに続くように各地で前進に成功していた。ロシア軍は近代化に失敗しており軍は多かれど近代化したドイツ軍を抑えるすべがなかった。各地で交代を繰り返し、1915年8月時点でバルト西部、ポーランドを失陥し、南部戦線も徐々に後退していた。ロシア軍はこの状況を打開するために各地の軍に攻勢準備を指示していたがこの計画すらもドイツ軍には筒抜けで1916年、ロシアの歴史を変えるある人物がスイスから移動を開始した。
そして9月、秋季大攻勢として東部戦線、西部戦線で巨大な攻撃が行われロシアはサンペクトブルクまで数キロの範囲にまで進軍を受けフランスもイギリス軍と防衛するも南部戦線が瓦解。主要都市の失陥がなかったものの将軍が数名戦死し被害も一日で30万人に昇った。しかしドイツ側も被害が少なかったわけではなくこの攻撃で両戦線合わせて55万人の死傷に昇った。これによりしばらく両軍の大規模な攻勢に行われず局地的な戦いが続いた。
局地的な攻撃が続く中で1917年協商陣営ではわずかに変化が発生した。それを真っ先に感じ取ったのはロシア帝国だった。理由はドイツ軍の動きが全面攻勢から逐次突破に移行していたからだ。当時のロシアにとってこれは想定外の動きになっておりあと数キロで首都陥落の危機を脱出するにはこの上ない状況だからだ。これを受けロシア軍は北部で反転攻勢を決行しエストニアの奪還に成功する。これによりロシア皇帝は喜びをあらわにし、さらに協商陣営の初の反転攻勢の成功になった。しかし、その喜びを崩すように同年8月、ロシア最大の事件が起こった。それはサンペクトブルクに到着した一両の列車から始まった。そこから降りた人物は労働者第一の経済にするべきであると宣言し暴力革命を推進した。彼らは自分たちの組織を「ソヴィエト」をいい、武器を持って各地の都市に攻撃を開始し、多くの政治家や将校を逮捕した。これを受けロシア帝国は崩壊し国内は完全な内戦状態になった。ロシア臨時政府では継続戦争派と講和派で争いが絶えずその後1918年6月、ドイツ軍がサンペクトブルクのソヴィエト政府に合流したこと、ロシアの重要都市のキエフを制圧したことでロシア臨時政府は講和を申し出た。これを受け中央同盟陣営はロシアに対し多額の賠償金を請求した。一方でポーランド、バルト諸国のみの解放を要求し史実のようにウクライナやベラルーシは請求しなかった。というのもこの時期では西部戦線でも大きな変化があった。
少し時間をさかのぼって1917年9月、フランス、イギリスのもとにロシアの降伏という情報が届き、対ドイツ前線司令部では混乱が巻き起こった。多くのフランス、イギリス軍が唖然とし中には講和を結ぶべきなのではという声すら広がり始めた。これに対しフランス、イギリス両軍はドイツを完全に撃破することはできないと判断を下し、大きく損害を出すことで有利な状態での講和を結ぶ方針に移動した。そして英仏軍は来年の春季を最後の大攻勢にすることを取り決め、最後の準備を始めた。
そのように戦局が混乱を始めていく中でバルカン、イタリアでも大きな動きがあった。それはイタリアがヴェネチア領の回収を名目に協商国側として参戦し、ブルガリア、オスマン帝国がドイツ軍の扇動とロシア降伏の報を聞き中央同盟国側で参戦した。そして戦局はヨーロッパだけにとどまらず、中東やアフリカにまで広がった。これにより協商国はさらなる前線の広がりを受けより苦戦を強いられる結果となった。しかし、それは中央同盟国にとっても厳しい選択を迫られることとなった。それは協商国が始めた春季大攻勢が招いた火種からである。
1918年、フランスの中央部から始まった英仏連合軍の大攻勢はドイツ、オーストリア軍を押し返すことができたがそれでもフランス領、ベルギー領全域を取り戻すことはできなかった。しかし、この攻勢が巻き起こした火種は中東やイタリアにて大きな火として燃え広がった。中東ではサウジアラビア王家のサウード家や民族がオスマン帝国に反旗を翻し、さらにバルカン半島ではオーストリア=ハンガリーの統治に反対するセルビア系民族やヴェネチア民族が反乱を始めたのである。これを受け、オスマン、ブルガリアが維持していた中東前線が崩壊し、さらにイタリア前線でも少しずつ押され始めたのだ。これによってドイツは各地の反乱や崩壊した戦線の再構築に兵を割かざるおえない状況に陥り西部戦線でも少しずつ協商国が押し返すこととなった。そして1918年10月、ついにフランス領の全地域奪還に成功した。しかし、ここで協商国が以前より懸念していた問題が表面化することになる。それは前線基地から広がり始め、総司令部が把握した時にはすでに手遅れになりつつあった。それはドイツ軍にとって朗報ともいえる内容ともいえ、旧ロシア領ウクライナでの穀物地帯で豊作になったということであった。当時イギリス、フランス両国によって海上封鎖を受けていたドイツにとってこれまでにないうれしい話はないだろう。その結果、ここまで続けてきた海上封鎖は意味をなさず、さらにドイツ軍はもし今攻勢をかけてこれば英仏軍は瞬く間に崩壊するということは総司令部は認知していた。その結果、英仏連合総司令部でも講和派の声が少しずつ大きくなり始めた。しかし、一方でドイツが大攻勢をかけるのは一年後になるだろうという見通しも総司令部はしていた。その理由として、ドイツ軍は西部戦線だけに集中しているわけではないということがあるためだ。ドイツは今西部戦線、バルカン半島の反乱鎮圧、中東戦線を抱えている。そのためオーストリアがイタリア、反乱軍で手一杯になっている今で戦力を減らした状態で大攻勢はしてこないという視点もあった。
そして1919年2月、西部戦線にて大きな動きがあった。とうとうドイツ軍が大攻勢を始めたのである。しかし英仏軍はその敵軍を見て驚きの声を上げた。「...!あれはドイツ人じゃないぞ!」英仏軍が各地から銃を構えながらも指をさしている。この大攻勢に出ているのはほとんどがドイツ軍ではなく、ロシア軍だったのだ。これに対し英仏連合司令部では完全な想定外となっており瞬く間に前線は崩壊し、ロシア軍が一気に進軍した。「馬鹿な...ロシア軍は同じ同盟国だったはずじゃないのか...」思わず多くの将軍が頭を抱え完全に戦意が消失していた。この攻勢が始まる4か月前ドイツ国内ではとある人物が動いていた。彼らはソヴィエトからの防衛するロシア人に対して人権の保障と引き換えにともにドイツ軍として戦うことを強要していた、それに反発したものは反乱分子として処刑され、多くのロシア人はドイツ軍に抵抗する意思をなくし、ドイツ軍として戦争に参加していた。そしてそのように扇動し、大攻勢を始めるまでの戦力を増大させたのは元ドイツ東部方面軍南部担当将軍「ラーガ・ヴァルター」であった。この攻勢を受けフランス、イギリス軍は完全に戦争の継続への意思を失い、さらに前線軍からは各地で降伏や反乱がおきていることから宣戦の維持は不可能だという声が上がった。
そして1919年7月、ドイツ軍がフランス東部都市「ランス」を征服した時点でフランスはドイツとの和平協定を申し出た。それに続くように8月にはイギリス、イタリアも和平協定を申し入れ、世界的な大戦争が終結した。結果としてまず東部ではポーランド、バルト三国が独立しそのほかの領地は旧ロシアであるソヴィエト連邦に編入されることとなった。なお、バクー油田やキエフ近郊の穀倉地帯はドイツ権益をして99年管理することが認められたほか大幅な軍縮も行われた。そして中東戦線は領土変化はなしと定めたもののドイツはこの戦争での損害が多かったことからイギリスへの譲歩を行い、ドイツは崩壊寸前のオスマン帝国への継続的な支援を条件にシリアより南部をフランス、イギリス領へ譲渡した。そしてバルカン戦線ではあまり大きな変化はないもののセルビアを南部と北部でブルガリアとオーストリアで分割する形となった。そしてイタリア戦線ではオーストリア軍が敗走を続けていたことからイタリアの要求通りにヴェネチアの譲渡を認めた。そして西部戦線ではベルギー、ルクセンブルクを親ドイツ派の国家元首をおくことや、フランス、イギリスに対しては中央アフリカ植民地の譲渡、さらに多額の賠償金を支払うことで和平を結んだ。なお、アジアでも日本が日英同盟を条件に参戦していたが、ドイツ植民地軍が大敗しわずか一年でほとんどの地域が占領されたことで白紙講和を結ぶことになった。
これによって1914年から始まった「大戦争」は中央同盟国側が勝利することとなった。しかし、中央同盟国側の方でも被害は大きく、オスマン、オーストリアでは反乱が絶えず発生しておりどの国から見ても崩壊は時間の問題となっていたうえ、オーストリアとブルガリアではセルビア地域で領土問題が発生し亀裂が広がっていた。
to be continued...




