夏の始まりと揺れる距離
六月も終わりに差し掛かり、季節はすっかり夏の気配を帯びてきた。
朝は歩くだけでも汗をかく。
クラスメイトの夏服姿も、もう見慣れていた。
「もうすぐプールの時期だね」
「そうだな」
「ほんと、あっという間だよね」
「もう七月だしな」
季節の話題が一段落したところで、ふと思い出す。
「俺らの今年初プールっていつだ?」
「明日だよ」
「明日か。水着出しとかないとな」
「そうだね」
そのとき、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「お兄ちゃ~ん」
この呼び方をするのは、一人しかいない。
「お、可織か」
「お兄ちゃんたち、プールいつ?」
「明日らしいけど?」
「ってことは、私のクラスが一番かも」
得意げに言う可織に、思わず声が大きくなる。
「な、可織のクラスが一番だと!」
「そんなこと言われても、私が決めるんじゃないんだから」
「俺らのクラスが一番じゃないのはいいとして、可織のクラスが一番なのは納得いかねぇ!」
「光ちゃん、落ち着いて」
「落ち着いてるけど!なんで可織のクラスなんだよ!」
明らかに落ち着いていない俺に、呆れた声がかかる。
「朝から騒ぐなよ」
振り向くと、信夫が立っていた。
「な、なんだと信夫」
「周り見てみろよ」
言われて周囲を見渡すと、いつの間にか視線が集まっている。
「お兄ちゃんはよくても、私まで変な目で見られるんだから」
「……ごめん」
可織は小さくため息をついた。
「もう、私先に行くから」
そう言い残して、駆けていく。
「おい、可織!」
呼び止める声は届かなかった。
「怒らせちゃったね」
「……ああ」
そこへ、慌ただしい足音。
「お二人さん、遅刻するよ」
振り向くと、息を切らした麻衣子。
「私より遅かったらアウトだからね」
「それはヤバい。直美、急ぐぞ」
「遅くなったのは光ちゃんのせいでしょ」
「……すみません」
走り出しながらふと麻衣子を見ると、どこか考え込んでいるようだった。
「今日は疲れた」
「特に何もなかったでしょ?」
「寝不足で疲れた」
「自業自得でしょ、それ」
そのとき、空気を切るように可織が現れた。
「兄に向かって失礼な」
「私、先に帰るから」
明らかに機嫌が悪い。
「またね、可織ちゃん」
「はい、さようなら」
「バイバイ」
最低限の挨拶だけを残して、可織は足早に去っていった。
「……朝のままだね」
「え?」
「可織ちゃんの機嫌」
「あ、ああ……」
分かってはいたが、改めて言われると少し胸に刺さる。
「ちゃんと謝らなきゃダメだよ」
「なんでだよ」
「可織ちゃん、お昼大変だったらしいから」
足が止まる。
「……どういうことだ?」
「“変な兄貴の妹”ってからかわれてた」
「……つまり、光ちゃんが悪いってことだよ」
「……そうだな」
言い返す余地はなかった。
「直美、この後時間あるか?」
「いいよ。可織ちゃんが喜びそうなの、一緒に見てあげる」
言葉にする前に、意図を汲まれる。
「さすが幼馴染だね」
「一応ね」
「“一応”ってなんだよ」
「フフ、冗談」
からかうように笑う直美。
「じゃ、私こっちだから」
「ああ」
「明日には仲直りしててね」
「ああ。頑張るよ」
麻衣子と別れて直美と二人になる。
さっきまで笑ってた直美が、ふっと表情を変える。
「でもね、それより大事なのはちゃんと謝ること」
「……分かってる」
「物でごまかそうとしちゃダメだよ」
「……分かってるって」
少しだけ、図星だった。
「じゃあ、帰ってちゃんと謝るんだよ」
「……分かったよ」
直美と別れて家路につく。
――可織は昔からそうだ。
強がりで、あまり人に頼らない。
全部自分で抱え込んで、勝手に解決しようとする。
だからこそ、今日のことは余計に悪かった。
「……ただいま」
返事はない。
可織の部屋の前で、少しだけ迷ってから口を開く。
「今日は悪かった」
沈黙。
「昼、いろいろ言われたんだろ。……全部、俺のせいだ」
少し間を置いて――
「……いいよ、もう」
声が帰ってきた。
「お兄ちゃんのそういうとこ、私が一番分かってるし」
ドア越しでも分かる。少しだけ、いつもの調子に戻っている。
「……そっか」
「通学路とか学校では、気をつけてよね」
「ああ」
一拍おいて、今度はこっちから。
「可織もさ」
「え?」
「あんまり無理すんなよ。強がるのも、ほどほどに」
少しの沈黙。
「……悪かったわね」
「悪いって言ってないだろ」
思わず苦笑がこぼれる。
「相談くらい、いつでも乗るから」
「……うん。ありがと」
ぎこちないけど、ちゃんと届いた感じがした。
「今日の晩飯、可織が作るのか?」
「そうだけど」
「たまには俺が作るよ」
「え?」
少し驚いた声。
「何食べたい?」
「……じゃあ、パスタ」
即答だった。
「了解」
――数少ない、俺の作れる料理だ。
「できたら呼びに行く」
「分かった」
キッチンに立ちながら、さっきの会話を思い出す。
ちゃんと、伝えられただろうか。
――いや、多分大丈夫だ。
⸻
「可織、できたぞ」
返事がない。
部屋のドアを開けると、
「……寝てるのか」
漫画を手にしたまま、静かに寝息を立てていた。
「まったく……」
小さく息をついて、布団をかける。
「……無理すんなよ」
聞こえていないと分かっていても、そう呟いた。
パスタは少し冷めるだろう。
でも――まあ、それでもいいか。
「昨日はどうだった?」
次の日の朝。顔を合わせるなり、直美が聞いてきた。
分かってて、あえてとぼける。
「どうだったって、何がだよ」
「ちゃんと仲直りできたの?」
「あ、ああ……まあな」
「そう。なら大丈夫だね」
ちょうどそのとき――
「追いついた!」
息を切らしながら可織が駆けてきた。
「おはよう、可織ちゃん」
「あ、直美さん。おはようございます」
そこまでは普通だったが、
「で、なんで走ってきたんだ?」
「お兄ちゃんより遅かったら遅刻するから」
「な、失礼な!」
朝から容赦がない。
「朝から楽しそうだね」
振り向くと、麻衣子が手を振っていた。
「あ、麻衣子。おはよう」
「おはよう」
「おはようございます」
麻衣子がニヤッと笑う。
「仲直り、できたみたいだね」
「……まあな」
「一応」
少し照れくさい。
「あ、お兄ちゃん」
「ん?」
「昨日はありがと」
一瞬、何のことか分からなかったが――すぐに思い出す。
「布団、かけてくれたでしょ?」
「あ、ああ……別に大したことじゃないし」
少しだけ照れる。
「なになに? なんの話?」
興味津々に麻衣子が割り込んでくる。
「わっ!」
「な、なんでもないよ!」
「怪しいな~。白状しろ~!」
「わー」
可織と麻衣子が追いかけっこのように走っていく。
「……大変だね、光ちゃん」
横で直美がくすっと笑う。
「まあ、可織は元気なのが一番だよ」
「そうだね」
そう言いながらも、直美はじっとこっちを見る。
「で、何言われてたの?」
「え? べ、別に……」
「まあいいけど。だいたい分かるから」
からかうように笑う直美。
「……さすが幼馴染」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
軽口を叩きながら、ふと思い出す。
「そういえば、今日からプールだよな?」
「そうだよ」
「何時間目?」
「二時間目」
――なんだかんだで、ちょっと楽しみだった。
「よし、気合い入れていくか」
「しかし、まさか三組と四組の合同とはな」
二時間目の体育はプール。三組と四組の合同授業。
「まあ、二クラスならその組み合わせになるよな」
「だな」
信夫と着替えを終えて、プールへ行こうとしたところで――
「あれ?」
ふと手元を見る。
「どうした?」
「……ゴーグル、教室に置いてきたっぽい」
「なんだそれ」
「まだ誰かいるかな」
「もういないだろ。みんなプール行ってるって」
「……だよな。ちょっと取ってくる」
「ああ。俺は先行ってるぞ」
「悪い、すぐ行く」
教室へ向かいながら、頭の中で確認する。
――この時間なら、もう女子もいないはず。
そう思って、ドアを開けた瞬間。
「きゃっ!」
「あっ――」
空気が止まる。
そこにいたのは、麻衣子と――
その着替えを待っていた直美と沙樹。
「……」
「……」
数秒の沈黙。
「ご、ごめん!」
反射的に視線を逸らす。
「何してるの、光ちゃん!」
直美の声は、いつもより一段低い。
「い、いや……ゴーグル忘れてて……」
言い訳がましいのは分かってる。でも他に言いようがない。
「ゴーグル?」
少し離れたところにいた沙樹が、俺の席のあたりを見て――
「あ、これじゃない?」
ひょい、と持ち上げる。
「あ、ああ……それ」
差し出されたゴーグルを、ぎこちなく受け取る。
「……ありがとう」
「光ちゃん、早く行かないと遅れるよ」
直美はため息混じりに言う。
「……ああ」
まだ少し顔を上げづらい。
「私たちも急がないとね」
「お待たせ。ごめんね、二人とも」
麻衣子も着替え終わったらしく、いつもの調子に戻りつつある。
「ほら、行くよ」
「光ちゃんも、早くね」
「あ、ああ……!」
夏の熱気がこもった廊下を早足で歩く。
教室を出たあとも、しばらく心臓の音がうるさかった。
――誰もいないと思ってたんだ。
そう自分に言い訳しながら俺はプールに向かった。
「今日は大変だったね」
放課後の帰り道。
いつもならどうでもいい雑談で盛り上がる時間なのに、今日は少しだけ空気がぎこちない。
「あ、ああ……ごめんな、麻衣子」
「う、ううん。いいよ。直美と沙樹がいたから大丈夫だったし」
少し照れたように笑う麻衣子に、余計に申し訳なさが募る。
「……麻衣子だけだったら、ちょっと大変だったかもね」
「……だな」
言い返せない。完全に俺が悪い。
「光ちゃんも気をつけないとダメだよ。プールの授業なんだから」
「ああ……ほんとに、ごめん」
そのとき――
「何の話してるの?」
一番来てほしくないタイミングで、後ろから声が飛んできた。
「……可織か」
「“可織か”じゃなくて、何の話?」
鋭い。こういうときの可織はやけに勘がいい。
「い、いや……大した話じゃないって」
「だったら話せるよね?」
逃げ道を塞がれる。
「え、いや、その……」
言葉に詰まる。
――どうする。
「今日の授業の話だよ」
直美が自然に割って入った。
「ああ、そうなんですか」
可織の視線が少し緩む。
「そう。光ちゃんが授業中寝てて、先生に見つかりそうになってさ」
「お兄ちゃん、授業中寝てたの?」
「え? あ、まあ……」
実際は寝てないが、今はそれどころじゃない。
「はぁ……」
呆れたため息。
「光司くん、夜更かしでもしてるの?」
今度は麻衣子が食いつく。
「いや、たまにテレビ見てるくらいだけど」
「何見てるの?」
「適当。眠くなるまで流してるだけ」
「それなら本とか読めばいいのに」
直美らしい意見が飛ぶ。
「面白いのあるのか?」
「最近話題のやつならいくつかあるよ」
「じゃあ今度見てみるか」
「あ、それなら私も行きたいな」
麻衣子が少し前のめりになる。
「じゃあ一緒に行くか?」
「うん」
――そのやり取りを、直美は黙って見ていた。
直美、最近あんな顔すること増えた気がする。
「じゃあ、私こっちだから」
「ああ、じゃあな」
「また明日ね」
「うん。またね」
「失礼します」
「バイバイ」
麻衣子と別れて、三人で歩き出す。
「お兄ちゃんのクラス、今日プールだったんだね」
「ああ」
「男女一緒だったの?」
「いや、レーン分けされてたよ」
少し探るような聞き方。
「ふーん」
納得したような、していないような声。
「そういえば、怒られてなかった?」
直美がイタズラっぽく笑う。
「え? ああ、あれは信夫と話してたところを先生に見つかって……」
「もう……ちゃんと授業受けないとダメだよ」
ため息をつく可織。
「ああ、分かってるって」
「……ほんとに?」
小さく刺される。
「光ちゃん、もうちょっと真面目にやったほうがいいと思うよ」
直美からも鋭い指摘が入る。
「来年は受験生なんだから」
「……まだ先だろ?」
「一年なんてすぐだよ」
直美の言葉は、妙に現実的だった。
「ああ……まあ、できる範囲で頑張るよ」
そう答えるしか出来なかった。
「はい、直美さんの家到着」
可織の一言で、直美の家の前に着いたことに気づく。
「あ、ほんとだ。じゃあな」
「また明日ね」
軽く手を振って別れる。
しばらく無言で歩く。
「……毎日楽しそうだね」
ぽつり、と可織が言った。
「まあな。直美は幼馴染だし、麻衣子は同じクラスで席も近いし」
「……そう」
それ以上は何も言わず、可織は少し歩く速度を速めた。
俺は慌てて可織の後を追う。
――なんでか“そう”が、妙に頭に残った。




