7話 「シアリーの影」
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朝の光は変わらず温かかった。
なのに空気だけが、昨日と違う密度を持っていた。
「……《司法局》の役人の方が見えているそうです」
給仕の一人が、アイクに耳打ちした。
アイクは頷くだけで何も言わなかった。ヤマトも口を閉ざした。
言葉より先に、気配が来ていた。
廊下の空気が変わっていた。律式で整えられた温度が、わずかに下がっている。
温度計が変わったわけではない。ただ——そういう気配だった。
記録に従って命を裁く者が、この屋敷の中にいる。
それだけで、空気の質が変わる。
応接間の扉は閉じたまま、開かなかった。
ヤマトは廊下の壁に背をつけ、目を閉じた。
多重演算が静かに走り始める。
役人が来た時刻。伯爵の表情の変化。給仕が耳打ちするときの声の震え。
(情報を持っている。カレンのことを)
ヤマトは拳を握った。
アイクは隣に立ったまま、微動だにしなかった。
剣の柄に手をかけているわけでもない。ただそこに立って、扉を見ていた。
二人の間に言葉はなかった。必要がなかった。
昼前、扉が開いた。
役人は何も言わず、馬車に乗って去っていった。
二人はその背中を、並んで見送った。
「……強い」とヤマトは静かに言った。
「父上並み、いや——それ以上かもしれない」
「ああ」
アイクの声は短かった。だがその一言に、ヤマトは全てを聞いた。
(あいつも感じていた。同じものを)
言葉にしなくても、伝わっていた。あの背中が持っていた冷たさを。
記録に従って命を運ぶだけの、感情のない強さを。
「俺たちが戦わなければならない相手が、ああいう者たちだ」
「わかってる」
また沈黙。
だがその沈黙は、昨日までとは少し違う重さを持っていた。
二人が同じ景色を見て、同じものを感じたという——確認のような沈黙だった。
伯爵夫妻への挨拶を終えた後、リュミナがひょっこりと応接室に顔を出した。
まだ顔色は優れない。
だがその小さな手に、丁寧に包まれた一輪の白い花を持っていた。
「ありがとう……お兄ちゃんたち。これで、お礼」
言葉はそれだけだった。
昨日の衝撃がまだ残っているのか、声は小さく、震えていた。
だが瞳は真っ直ぐだった。
アイクは一瞬、戸惑った。
その花を見た瞬間——カレンの顔が、浮かんだ。
五歳の妹が、兄たちに笑いかける顔。
「お兄ちゃん」と呼ぶ声。
あの夜、舟の上で泣きながら手を伸ばしていた小さな指。
アイクはゆっくりと膝をついた。
リュミナの目線に合わせて、花をそっと受け取った。
「ありがとう直。大事にする」
声が、わずかに掠れた。
ヤマトはその光景を見ていた。胸の奥が、静かに熱くなった。
(アイクにも、見えているんだな。カレンが)
二人とも、同じものを重ねていた。言わなくても、わかった。
グラシア伯爵家を後にした。
夫妻が、二人の姿が見えなくなるまで見送っていた。
夫人が白い花の香りを吸い込みながら、そっと口を開いた。
「……あの礼儀や作法、やけにしっかりしていましたね。まだあんなに幼いのに」
伯爵は静かにコーヒーカップを手に取り、窓の外を眺めた。
「古き名門の教育だろう。おそらくな」
夫人はしばらく黙っていた。
「……この世界は、あの子たちに優しくないのでしょうね」
「優しくない。だからこそ、恩は返さねばならん」
伯爵の声に、静かな決意があった。
「あの少年たちは、我らが娘の命の恩人だ。いつかその恩を返す機会が来たなら——必ず返す」
二人の間に、重く固い沈黙が流れた。
夕方、南下の途中で小さな宿に入った。
質素だが清潔な部屋。
律式で保温されているが、グラシア家の豪奢さとは違う、地に足のついた温かさがあった。
アイクはベッドに腰を下ろした。
剣の柄には、リュミナからもらった白い花が結び付けられている。
ヤマトは窓辺に立ち、外の掲示板を見ていた。
バウンティハンター向けの依頼が、数枚貼り出されている。
その中の二枚に、目を留めた。
「……アイク。今夜、話がある」
アイクが顔を上げる。
ヤマトは振り返り、二枚の依頼書をテーブルに置いた。
「これを見ろ。一つは——追跡者を混乱させ、同じ行動を繰り返させる異能者の討伐依頼」
「もう一つは——南東の山岳地帯で、制御を失った律式が暴走している。物理的な鎮圧を求めている」
「それぞれ、俺たちどちらかにしか対応できない依頼だ」
アイクは二枚の紙を交互に見た。
「別行動、ということか」
「ああ」
沈黙。
ヤマトは続けた。
「繰り返しの異能者は、記憶のスキルで攻略するしかない。俺がやる」
「暴走した律式は——お前の《至高の法典》で断つのが最も確実だ」
「カレンを救うためには、俺たちがそれぞれの力を極める必要がある。一緒にいれば安心だが、それだけでは強くなれない」
アイクはしばらく黙っていた。
依頼書を見ているのか、見ていないのか、わからない目をしていた。
「……お前は怖くないのか」
ヤマトは少し、驚いた。
「怖い、とは」
「一人で行くのが」アイクは真っ直ぐにヤマトを見た。
「俺は——お前が一人でいるのが、怖い」
その言葉に、ヤマトは言葉を失った。
アイクらしくない言葉だった。
いつも前を向いていて、迷いを見せないアイクが——そんなことを言うとは思っていなかった。
「……俺こそ、お前が心配だ」とヤマトはようやく言った。
「暴走した律式が相手だぞ。制御できない力というのは——」
「俺は大丈夫だ」
「お前はいつもそう言う」
二人の間に、静かな緊張が流れた。
ヤマトは目を逸らさなかった。アイクも逸らさなかった。
それから——二人同時に、少しだけ笑った。
「……やるしかない、か」とアイクが言った。
「ああ。これくらい一人でこなせなければ、カレンを助けられない」
アイクは立ち上がり、剣を背負った。
それから、ヤマトの肩を一度だけ、強く叩いた。
言葉はなかった。それだけで充分だった。
「必ず生きて戻れ」
「お前もな」
部屋の灯りが、二人の影を壁に伸ばしていた。
明日、二人は初めて別々の方向へ歩き出す。
怖くないわけがない。
だが——互いを信頼しているから、手を離せる。
それが今の二人に、できることの全てだった。
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