14話 「剛と柔」
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到着後、港の路地に出た瞬間だった。
「「きゃあっ!」」
甲高い悲鳴が、静かな空気を裂いた。
黒装束の男が、少女の手から巾着をひったくり、路地の奥へ走り込んでいく。
少女は追おうとして——その場に膝をついた。
巾着を奪われた瞬間、彼女の右手に何かが走ったようだった。
痺れのような、反発のような——一瞬だが、確かに身体が止まった。
(なんだ、今の)
ヤマトはその光景を見逃さなかった。
あの巾着の中に——何か、普通ではないものがある。
アイクは反射的に右手を上げた——スキルを発動しようとして、何もないことに気づいた。
(律がない)
一瞬の空白。だが身体は止まらなかった。
「スキルが使えなくても、やることは変わらない」
走り出した。
犯人は身軽だった。路地の障害物を巧みに使い、曲がり角で距離を稼ぐ。
ヤマトはスキルなしの思考で経路を予測し、加速した。
最短経路を割り出す。あの角を曲がれば——
次の瞬間、アイクが横を通り過ぎた。
通り過ぎた、というより——消えた。
(——っ)
ヤマトは目を見開いた。
アイクはヤマトが計算した最短経路を無視していた。
路地の壁を蹴り、障害物を飛び越え、犯人との距離を一瞬で詰めていく。
計算ではない。思考でもない。身体が、最適解を直接なぞっている。
(スキルがない。律もない。なのに——)
ドン、という鈍い音がした。
路地の突き当たりで、犯人がアイクのタックルを受けて転がっていた。
関節を極められ、全身の自由を奪われている。
「な、なんだこの速さ……!人間技じゃねえ……!」
アイクは犯人から巾着を取り上げ、悲鳴を上げた少女に差し出した。
ヤマトはその光景を見ながら、静かに思った。
(あいつの本質は——律でもスキルでもない。身体そのものが、最短距離を知っている)
スキルに頼らなくても。律がなくても。アイクはアイクだった。
それが——少し、悔しかった。
少女はミヅキと名乗った。
艶やかな黒髪。凛とした立ち居振る舞い。
深く頭を下げて礼を述べながら、その目は真っ直ぐだった。
帝都の貴族のような、力に裏打ちされた気品ではない。
もっと古い、別の何かに裏打ちされた気品だった。
「この巾着の中にあるのは、父が師範を務める水月流道場の家宝——開祖が残した銘刀です。ひったくられたとき、道場へ向かう途中でした」
「水月流」とヤマトは繰り返した。
「はい。この律の世が定まる以前から、一度も途絶えることなく続く剣術の流派です。律に頼らない——この国で最も古い、武の理です」
ヤマトの胸の奥で、何かが動いた。
律に頼らない剣術。律が存在しないこの土地で、千年以上続いてきた技。
それはつまり——律に干渉されても機能する、本物の力だ。
(カレンの力が発動したとき、周囲の律が変異するかもしれない。そのとき律に頼った戦い方は全て崩れる。だが——)
「もし、この国の剣術にご興味がおありでしたら」とミヅキは言った。
「父に相談して、修行を受けていただけるようお願いしてみます」
アイクとヤマトは顔を見合わせた。
「ぜひ」と、二人同時に言った。
案内するミヅキの背中を見ながら、ヤマトは改めて彼女を観察する。
(……やはり、俺たちと同じくらいか)
見かけの年齢は、自分たちと同じ十歳、あるいは十一歳程度だろう。
だが、その足運びには一切の迷いがない。
帝都の貴族のような虚飾の気品ではなく、洗練された足運び。
同年代でありながら、この島で千年以上続く「武の理」を背負って立つ少女の佇まいに、ヤマトは底知れない厚みを感じていた。
「こちらになります」
ミヅキが案内してくれた水月流道場は、巨木に囲まれた静かな場所にあった。
師範カゲツは、がっしりとした体躯を持つ男だった。
年齢は読めない。だがその眼差しは——帝都でアイクが見てきた誰の目とも違った。
強さを持つ者の目ではなく、強さの「向こう側」を見た者の目だった。
礼を述べた後、カゲツは二人を庭の稽古場へ導いた。
「言葉で語るよりも、その身が何を識っているか、見せてくれ」
熟練した門弟二人が木刀を構えて進み出た。
「ただし」とカゲツは静かに言った。
「ここではそなたらの"スキル"は通用しない。律やスキルに頼らぬ、そなたらの持つ全てを見せてくれ」
「まずは俺から」
アイクは一歩前に出た。
木刀を手に取る。律なしで握る木刀は、重い。
だが——知っている重さだ。ゼラントス家の訓練で、散々握ってきた重さだ。
門弟が構えた。熟練の気配がある。
律なしでここまで鍛えた者の、本物の構えだ。
「開始!」
カゲツの号令が落ちた瞬間、門弟が踏み込んだ。
速い。
だがアイクの身体は、それより早く動いていた。
一撃を受け流す。そのまま体勢を崩さず、爆発的な踏み込みへと移行する。
思考よりも先に、身体が動いている。
どこへ踏み込めばいいか、どの角度で打てばいいか——考えていない。わかっている。
木刀が、門弟の脇腹に正確に打ち込まれた。
門弟が崩れ落ちた。
「くっ……重い!なんという力だ……!」
カゲツは微動だにしなかった。ただ見ていた。
次にヤマトが木刀を取った。
門弟が構えた。先ほどとは違う。
アイクの動きを見て、警戒を上げている。
(剛の力では、アイクには追いつけない)
幼い頃から、それはわかっていた。
父が同じ訓練を課しても、アイクとの差は縮まらなかった。
身体能力が違いすぎた。
(だからといって、同じ戦い方をする必要はない)
ヤマトは構えた。スキルなしの、純粋な思考だけで——相手を読む。
門弟が上段から振り下ろした。渾身の一撃。
速度、重さ、軌道——全てが瞬時に計算される。
ヤマトは木刀をわずかに引いた。
キン。
乾いた音がした。門弟の一撃が、ピタリと止まった。
勢いが、完全に相殺されている。
「どういうことだ……!」
ヤマトは相殺した位置から、そのまま木刀を押し込んだ。
体勢を立て直す隙を与えない。
門弟の鎖骨に、木刀の先端が正確に打ち据えられた。
門弟が、困惑したまま崩れた。
カゲツはしばらく黙っていた。
それから、深く息を吐いた。
「見事」
その一言だった。
「一人は剛の才。もう一人は柔の才。大陸出身者の中で、律に頼らずこれほど動ける者を見たのは——初めてだ」
アイクとヤマトは顔を見合わせた。
「我が道場に住み込み、好きなだけ修行なさい。スキルに頼らない剣の理を——みっちりと身体に叩き込んでやろう」
二人は深く頭を下げた。
夜、寝静まった離れで、二人は向かい合った。
道着に着替えていた。
律の繊維が一切ない、純粋な布の重みを、ヤマトはまだ少し意識していた。
「カゲツ師範は、俺たちを異能者だと見抜いている」とヤマトは言った。
「修行という名目で、監視下に置くつもりかもしれない」
「かまわない」とアイクは即座に言った。
「……かまわないのか」
「ここで強くなれるなら、見られても問題ない」
ヤマトは少し間を置いた。
「今日、お前が走るの見た」
「ああ」
「律なし。スキルなし。それでも——俺の計算より速かった」
アイクは何も言わなかった。
「お前はいつも、俺の計算の外を走る」とヤマトは続けた。
「《記憶階梯》があるときも。今日みたいなときも」
「俺は——あんまり考えないからな」
ヤマトは少し間を置いた。
「……自覚はあったのか」
「なんとなく」
「なんとなく、か」
「でも、お前が隣にいれば考えなくても大体なんとかなる」
ヤマトは呆れたように——だが少しだけ笑った。
「それは褒めてるのか」
「褒めてる」
しばらく沈黙が続いた。
ヤマトは窓の外を見た。律のない夜は、虫の声だけが聞こえる。
帝都では聞こえなかった音だった。
「俺も」とヤマトは言った。
「何が」
「お前がいるから走れる。計算が外れても、お前がいるから怖くない。それだけは——確かだ」
アイクは少し、目を細めた。それから、あっさりと言った。
「そりゃそうだろ」
「……もう少し感動的な返しはないのか」
「俺はあんまり考えないからな」
ヤマトは天井を仰いだ。
だがその夜——久しぶりに、計算をやめて眠ることができた。
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