1話 「十歳の誕生日に、世界が燃える」
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こちらは改稿・再構築を重ねた新バージョンとなります。
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その夜、父が言った。
「月がない」
それだけだった。短い言葉だったが、食卓の空気が一瞬、凍りついたのをアイクは感じた。
暖炉の火が不規則に揺れ、橙の光が影を長く壁に伸ばす。
母エレオノーラが、父の言葉を遮るように静かに口を開いた。
「余計なことは言わないで。……今日は、この子たちのお祝いなのだから」
声は穏やかだったが、その奥には棘ではなく、拭いきれない「恐れ」が混じっていた。
アイクとヤマトは明日で十歳になる。
ゼラントス伯爵家の双子。兄アイクは銀白の短髪に切れ長の淡青の瞳、弟ヤマトは黒髪に感情がすぐに表れる大きな瞳。並べば対照的な二人だが、今夜は同じ表情をしていた。笑顔の下に、名前のつかない不穏な予感を飼っている、そんな顔だ。
「ねえ、明日教会でスキルのこと教えてもらえるんだろ?」
ヤマトがケーキに蝋燭を立てながら、努めて明るい声を出す。
「ああ。十年の稽古が、ようやく形になるな」
アイクは短く答えた。声は抑えているが、その奥には確かな熱が宿っていた。
テーブルの端では、末妹のカレンが眠そうに目を細めていた。五歳。深い紅茶色の長髪が腰まで落ちる小さな少女。可愛らしく、そして――家族以外には決して明かしてはならない秘密を背負っている子。
カレンの背中には、龍の形をした痣がある。
布をめくれば黒い線が背骨に沿って走り、光の下で脈打つように波打つ。数百年に一度現れる「変異の印」。世界の法則たる律を裂き、理を歪める者の証とされるその痣が、五歳の少女の小さな背中に刻まれている。
だからゼラントス家は隠した。それがこの子を守る、唯一の道だと信じて。
カレンが蝋燭の火を見てふわりと笑う。
「お兄ちゃん、吹き消して」
アイクとヤマトが顔を見合わせ、同時に息を吸い込んだ、そのとき――。
扉が、爆ぜた。
それは静かな破砕音だった。石造りの分厚い扉が、まるで紙のように内側へ崩れ落ちる。爆発でも衝撃でもない。ただ圧倒的な「力」がそこに君臨し、扉はその前に存在することを許されなかった、そんな音だ。
一瞬の静寂。次に、屋敷の奥から悲鳴が響いた。
「ヤマト、カレンを連れて裏へ行け!」
父セオドールの怒号が部屋を切り裂く。アイクは食卓の脇に置いてあった練習用の剣を掴んだ。指先が震えていたが、握りだけは緩めなかった。
廊下の向こうに、影が立っていた。
黒いフードで顔は見えないが、そこにいるだけで空気の密度が変わり、肌が焦げるような圧力を感じる。
《断罪の十環》序列一位、グラヴィス・レーン。皇帝の命のみで動き、世界の敵を葬る「帝国最強の裁き手」だ。
「アイク、今夜だけは俺の言う通りにしろ」
ヤマトが隣で囁いた。
その瞳には、子供のそれではない、冷徹な何かが宿り始めていた。ヤマトはカレンを抱き上げると、振り返らずに裏口へと走り出した。
アイクは代わりに、木剣を両手で構え、父の前に立った。
父は強かった。だが、グラヴィスの前では赤子に等しかった。鋼のような腕が一閃しただけで、父の剣は粉々に砕け散り、その身体は壁へと叩きつけられた。
「あなた――!」
母が飛び出し、掌から祈りのような光を放つ。
「この子たちに、指一本触れさせない……!」
それが、母の最期の言葉だった。
「無駄だ」
グラヴィスの手刀が閃き、母の身体は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「母さん……!!」
返り血がアイクの頬を濡らした瞬間、内側で何かが弾けた。
悲しみでも怒りでもない。目の前の理不尽な法則を、世界の仕組みそのものを拒絶する、絶対的な否定。
空間が震え、アイクの淡青の瞳が黄金へと燃え上がった。
「リーーーン……」
脳幹を揺さぶるような鐘の音が、炎の中に響き渡る。それは、かつて龍が支配した「第三階層(深律)」への扉が開かれた音だった。
――《至高の法典》――
アイクの規格外の星幽容量が奔流となって解き放たれ、周囲の空間が「アイクの法」に上書きされる。
「……なんだ? スキルが発動しない?」
初めて、グラヴィスの声に動揺が混じった。
彼が絶対として振るっていた重力操作が、アイクによって「違法」と裁定され、無へと還されていたのだ。
アイクは落ちていた父の剣を拾い、真っ直ぐに踏み込んだ。十歳の少年が振るう一閃が、帝国最強の男のフードを鮮やかに切り裂いた。
「……面白い」
グラヴィスは剣を引いた。その言葉が賞賛なのか嘲笑なのか、アイクにはわからない。
「アイク・ゼラントス。お前はいずれ、断罪の十環に名を連ねることになるだろう。……今は見逃してやる」
影は夜の闇に溶け、アイクの瞳から黄金の輝きが消えていく。
「……父さん。母さん」
炎の匂いが鼻を突き、膝がゆっくりと折れた。
同じころ、川辺でヤマトはカレンを小舟に乗せていた。
脳裏には、この世界の住人が持ち得ない、赤い数字が激しく点滅している。
――《記憶階梯》――
前世の知性と現在の状況が結合し、血の通わない計算結果を網膜に映し出す。
「カレンを連れて逃げた場合の全滅確率、99.8%。……川を使えば生存確率15%。……これ以外の解はない」
数値は冷徹だった。震えるヤマトの手とは正反対に、脳内の演算だけが静かに、そして確実に「生存への最短経路」を刻んでいく。
「カレン、すぐに迎えに行くから」
「いやっ! 一緒がいい……お兄ちゃん!」
カレンの小さな手が、必死に兄の服を掴んで離さない。
ヤマトはその手をそっと、ほどいた。
「大丈夫だ。絶対に行く。だから――信じて」
舟を強く押し出す。カレンの悲鳴のような叫び声は、夜の濁流の中に吸い込まれていった。
ヤマトはその場に立ち尽くし、血が滲むほど拳を握りしめた。振り返れば、我が家が赤く燃え盛っていた。
焼け落ちた屋敷の前で、ヤマトは意識を失って倒れているアイクを見つけた。
脈はある。生きている。
だが、ここから先、三人の歩む道はもう一つではない。
ヤマトは兄を抱きかかえ、一度だけ空を見上げた。
「もう誰も……俺の目の前で傷つけさせない」
その誓いは、誰に届くこともなく夜風に溶けた。
誰もまだ知らない。龍の痣が露見し、三人の道が分かたれたこの夜が、数百年ぶりの「律の変化」の始まりであることを。
次回より、物語が本格的に動き出します。
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