ナナハンバーガー
その声は、いつも通りだった。
『ナナハン新作バーガー、本日より発売です』
店内に流れる、短いナレーション。低く、落ち着いた声。聞き慣れているはずなのに、なぜか、ほんのわずかに引っかかる。
「ねえ、今のさ、この店のCMの声、黒崎恒一じゃない?」
女子高生の一人が顔を上げる。
「またそれ?公式は違うって言ってるじゃん」
もう一人が笑う。
「でも似てるよね。あの低いとこから上がる感じ」
「似てるけどさ、ナナハン好きだからやってる説でしょ」
「なにそれ(笑)都市伝説じゃん」
軽い笑いが広がる。それで終わる話だった。誰も本気では考えない。ただの噂。ただの声。ただの、日常。
「てかさ、あの新作アニメ観た?」
「観た観た。黒崎恒一のやつでしょ」
「わかる。あの上がり方、他にいないって」
ポテトをつまみながら、また笑う。
「イケボって言葉、黒崎が最初らしいよ」
「え、マジ?」
「知らないの?結構有名じゃん」
軽い会話のまま流れていく。特別な話ではない。ただの知識。誰も深くは考えない。
店内には揚げ物の匂いと、人の声と、軽い音楽が混ざっている。昼と夕方の間の、少しだけ緩んだ時間。誰も急いでいない。何も起きていない。
そのすぐ隣で、カタン、と音がした。
「あ……」
グラスが揺れ、飲み物が少しこぼれる。
「大丈夫ですか?」
反射的に声がかかる。年配の女性が顔を上げ、穏やかに微笑む。
「ええ、大丈夫。少しこぼしただけだから」
どこにでもあるやり取り。店員が来て、布巾で拭く。すぐに終わる。何も残らない。——はずだった。
女性は、もう一度グラスに手を伸ばす。指先が触れる。持ち上げる。口元へ運ぶ。
その動きは、自然だった。ぎこちなさはない。迷いもない。
だが、ほんのわずかに、何かがずれている。
速さか、間か、角度か。
説明すれば消えてしまう程度の違い。気にするほどではない。気づかない人の方が多い。
女子高生たちは気づかない。会話を続けている。
テレビでは、映画の予告が流れている。
低く、安定した声。
さっきと同じ声。
変わらない声。
「やっぱすごいよね」
「ね。全然ブレない」
「ずっと同じって、逆に怖いくらいだよね」
軽い言い方だった。ただの感想。それ以上ではない。誰も深く考えない。
声は、そこにあるだけだ。
女性は、その声を聞いている。
視線はテレビに向いている。
表情は変わらない。
笑いもしないし、眉も動かない。
ただ静かに、聞いている。
グラスを持つ手だけが、わずかに止まっている。
店内の音が重なる。
人の声、食器の音、油のはじける音。
その中に、ナレーションが溶けていく。
誰もそれを切り分けない。
気にしない。
日常の一部として流れていく。
女性は、グラスをゆっくりとテーブルに戻す。
音はほとんどしない。
水滴が一つ、縁から落ちる。
テーブルの上で小さく広がる。
それもすぐに乾く。
誰も見ていない。
誰も覚えていない。
店内には、また音楽が流れる。
続いて、短いナレーション。
『ナナハン新作バーガー、本日より発売です』
同じ声。
同じ言い方。
同じ間。
さっきと変わらない。
変わらないはずだ。
変わる理由がない。
女性は、その声をもう一度聞く。
目を閉じることはない。
ただ、聞いている。
聞き慣れているはずの声を、初めて聞くみたいに。
何も起きていない。
事件も、事故も、騒ぎもない。
いつも通りの時間が流れている。
ただ——
その声だけが、確かにそこにある。
そして、その声は、どこにも触れていない。
なのに、なぜか、残る。




