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7.壁ドン

 最近生徒との年齢が開いてきたためか、若い頃よりも彼らが何を考えているのかが分からなくなった。新任の頃は年も近く彼らとの距離が先生というよりも友達に近いものだったが、親子ほど離れた年齢差になるとそういうわけにもいかず、必然的に以前よりも生徒と距離感を感じるようになっていた。

 その距離感は娘のユイカにも感じていて…。


「桜井先生。ここが分からないのですが。」

 授業が終わって教室を出ようとしている時に、一人の女子生徒が僕に声をかけて来た。振り返ると僕と同じくらいで他の生徒に比べても背の高い少女が、問題集のとあるページを開いて僕を見ていた。

「ん、どこどこ?」

 その女子生徒、一ノ瀬加奈と共に二人で問題集を囲む。見れば今日の時間にやったものより少し先のページの物だった。

 他の生徒は一人、また一人と教室から出ていっていた。このクラスの次の時間は理科。授業は理科室で行われるので移動しなければならない。一ノ瀬は他の生徒が教室を出ていくのを脇目に特に焦った様子はないが、なるべく早く切り上げた方が良さそうだ。

「ここの最後の問題なんですけど、解答を確認しても分からなくて。」

「ああ、ここはね…。」

 解き方の道筋を整理しながら説明すると、彼女の表情からどこが難しいのかが分かってくる。そこでその部分を重点的に教えてみると、僕の説明を聞いている内にある瞬間彼女の顔が納得したような顔に変わった。

 子供に物を教える仕事をしている人は誰しも思っていることだと思うが、僕は生徒の分からなかった問題が解けた時に自然と出てくる嬉しそうな表情がとても好きだ。

 美人で大人びているため、よく男子生徒の話題にも上がる目の前の一ノ瀬であるが、こうして顔を突き合わせて問題を解き、顔をほころばせているのを見ると、こういう顔もできるのかと驚かされる。

「わぁ、分かりました!ありがとうございます。一人で解いていてどうしても詰まってしまって…。先生のお陰です。」

「うん、分からないことがあればまたいつでも聞いてきて。というか一ノ瀬はもうこんなに問題集進めているんだね。もしかして他の人もこんなに先の勉強までしてるの?」

 僕は気になったことを聞いてみた。もし仮にみんなが彼女のように先へ先へと進んでいるのなら五月以降の授業の進行は改めて考え直さなければならない。

「いえ、他の人は授業の通りに進んでいます。ただ私は誉めて欲しかったから…。」

「ん?」

「あ、いえ。あの数学が好きなので、勉強しているうちに止まらなくなって。受験で必須だからやらなきゃいけない勉強なんですけど、そういうことは別に考えて無くて、なんていうか…。」

 彼女は何故か慌てたような上ずった声で言い訳のように先に進めている理由を話してくれた。そのことが面白くて僕は思わず吹き出してしまった。

「ふふっ、」

「先生?」

「普段冷静な一ノ瀬もこんな風に慌てることもあるんだなぁ、って思ってさ。」

「私、別に冷静なんじゃないです。ただ自分の気持ちを表に出すのが苦手なだけです。」

「そっか。でも俺はそういう性格も一ノ瀬らしくていいと思うよ。」

「っ!も、もう行きます。」

「わ、しまった。もうこんな時間か。長引かせちゃってごめんね。」

「いえ、こちらこそありがとうございました。」

 そう言って彼女は自分を待っていた生徒たちと共に理科室へと走っていった。その後ろ姿を見送ってから僕は教室の電気を消して、廊下へと出た。

「さてと、僕も一度職員室に戻らないと」


「桜井せんせ。」

 先ほどの一ノ瀬の声色とは違う、少し高い声と共に、廊下に出て階段に向かっていた僕は、小さな手に引っ張られた。その声の主は階段の横の廊下からは死角になっている壁に僕を押し付けて、胸に自分の顔を押し付けた。

「びっくりした。学校ではあんまり甘えるなって言ってるよね、ユイカ?」

 僕の娘であるユイカは顔を上げて怒ったように僕を見上げていた。親子とはいえさすがに今の状態を他の生徒に見られるとまずいので小声で囁いた。

「だってしょうがないでしょ。」

ユイカも僕の真似をしてなのか同様に耳元に口を近づけて囁く。彼女の息が耳にかかってゾクゾクしたが、努めて冷静に僕は囁き返した。

「いやしょうがなくないよ。大体なんでユイカが三年生の教室にいるんだよ!」

 一年生は一階に教室があるため、ユイカが三階にいることはおかしい。しかし彼女は僕の追及を気にすることなく、ずいっと僕に顔を寄せるとやけにとげとげとした口調で囁いた。彼女の怒っている時の声だ。

「シュンくんの浮気調査に来ただけだもん。」

「いや浮気調査って。」

「シュンくん、さっきあの先輩にデレデレしてたでしょ。鼻の下伸ばしちゃってさぁ!」

「それはお前の勘違いだって。一ノ瀬は俺のクラスの生徒だから、」

「大人しく反省してくれるなら今日だけは見逃してあげます。しらばっくれるならもっと怒ります。」

「だからな…。」

 ユイカは僕が三年の女子生徒と話していることがそんなに気にくわなかったのか、静かに僕を追い詰める。…というか滅多に使わない丁寧語がすごく怖い。

「たしかに一ノ瀬先輩は美人でモデルみたいで素敵な人だけど、私という人がいるのに平気で浮気できるなんて信じられないよ。ばか!天然女たらし!」

「俺もお前に対して突っ込みたいことが多すぎるけど、とりあえず浮気なんてしてないしたらしでもないから!」

「…だってシュンくん、先輩と仲良さそうだったし。二人の顔すごく近かった…!」

「いや、あれは一緒に数学の問題を解いていただけだから!もしかしてユイカ、嫉妬…してるの?」

「!!…べ、別に。私がシュンくんの一番なんだから嫉妬なんてするわけないもん。」

「じゃあなんでそんな風に怒ってるんだよ。」

「怒ってないもん!ただシュンくんが私以外の女の子と話してるからっ!」

「だって俺教師なんだから、女子生徒と話すことがあるのは当たり前だろう?」

「そうだけど…、それは分かってるけどさ!私はシュンくんが…、」


「はぁ、しょうがないなぁ。ちょっと動かないで。」

「ふぇ!?しゅ、シュンくん?」

 このままでは埒が明かないと、僕は階段を確認して人がいないことを確認してから、壁に僕を押さえつけている彼女の両の頬を、両手で抑えて僕の顔へと近づけた。彼女は僕の突然の愚行に目を白黒させて、ひどく狼狽している。

「俺はこれっぽちも一ノ瀬に恋愛的な感情は持っていないって誓うから。それにほら、顔なら今のユイカの方がずっと近いだろ?」

そのままこつんと額を当てる。どう考えても人前では見せられない恥ずかしいことをしていたが、ここ三階は今はひっそりとしていて、娘と二人きりだったので僕は自分で思っていた以上に大胆な行動をしていた。誰かに見られたらどうしようとは思わなかった。

「…うん。」

「これで安心?」

「…ごめんなさい。」

 しばらく僕たちはそのまま額を合わせていた。彼女は目を瞑って僕の体温を測る様に体を預けている。至近距離にある彼女の顔が徐々に赤くなっていくのが分かった。父親が実の娘にこんな顔をさせてはいけない、そう思いながら一途に想ってくれる彼女が愛おしいとも思う。

「よし、それじゃ甘えんぼタイム終了。俺はそろそろ職員室に戻るから、ユイカもチャイム鳴る前にちゃんと教室に戻りなさいね?」

 しばらくして僕がユイカの頬から手を離して再び二人の身長差ができると、名残惜しい切なそうな顔をしながら彼女は僕を見上げてきた。

「ま、待ってシュンくん!」

「ん、どうしたの?」

「その…、さっきは取り乱しちゃってごめんなさい。シュンくんはかっこいいから誰かに取られちゃうんじゃないかって心配で心配で。折角おんなじ学校に入れたのに、私とシュンくんが一緒に入れる時間ってすごく少なくて、そこには知らないシュンくんがいるんだって考えるとすごく不安だったの。」

「そっか。でもとりあえずユイカが言ってるようなことは起きていないから大丈夫。」

「ん…。」

「心配しなくても俺はユイカが一番大事だよ。」

 ぽんと彼女の頭を撫でて、僕は歩き出す。彼女はボーッとしたような顔で僕が撫でた所を手で押さえていた。

 僕のことをこんなに想ってくれるのは嬉しいが、僕は教師で他の生徒とも関わらなければならず、必然的に娘のことは後回しにしてしまうことも多い。そういう不満が溜まり、僕からの愛情に飢えて、盲目的に僕を愛してしまっているんじゃないか、そうであったのなら僕だけじゃなくてあの子がすごく不憫だ。自分の父親としての不甲斐なさがすごくやるせなかった。


「ユイカ、今日の部活なんだけど…、」

「え?」

 去り際に僕は振り返って彼女へと声をかけた。彼女は不思議そうに僕を見ている。

「ヒマだったらさ、良かったら見においでよ。」

「いいの!?いつもあんなに来るなって言うのに。」

「サッカー…つまんないかもしれないけどね。」

「ううん、つまんなくないよ。嬉しい。」

「そっか…それじゃまた放課後に。」

「うん。分かったよ…桜井先生。」

彼女は嬉しそうに自分の教室へと戻って行く。僕はその後ろ姿を立ち止まってずっと見つめていた。遠くでチャイムの音が聞こえた。

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