6.桜前線追跡隊
「そういえば今年は花見してないなぁ。」
僕がそう呟いたのはテレビに映った桜の色に心が惹かれたからだろうか、それとも元気のない娘を元気づけたかったからだろうか。どちらにしても僕は口に出してすぐに、向かいの席に座っている娘の目が光ったことを感じた。
今日は金曜日。僕が顧問を務めているサッカー部の、平日唯一の休みの日だった。だからと言うわけではないけれどユイカと僕は久しぶりに一緒に帰ってきた。普段なら一生徒たる彼女に帰ろうなんて、絶対に言わない。でも今日は校舎裏で一人寂しそうに佇んでいるの彼女を見かけて、思わず一緒に帰らないかと誘ったのだった。
人の少ない校舎裏でぽつんと立っているユイカを見つけた時はとても驚いた。いじめか何かがあったんじゃないかとも心配したが、誰かに何かされたような跡はなかった。だからこそなぜ彼女がそんな表情をしているのかが分からなかった。
金曜日はいつも妙にテンションの高いユイカであるが今日は家に帰ってからも落ち込んだ表情のままだった。こうしてテーブルに向かい合わせで座ってご飯を食べていると、いつもなら途切れる間もなく話しかけてくるのに、今は食卓に会話をできないような空気が漂っている。静かな空気が気まずくて、僕は何か話すことはないかと思案していた。
『東北地方では遅めの桜の見頃を迎えています。』
別に見たいわけではないけれど、何となく点けていた7時のニュース番組では春色の明るい服を着た女性の気象予報士がコロコロと鈴のなるような声で春の訪れを告げていた。画面に写っているのは満開の桜。少し薄い桃色は自分を主張しすぎないでいて美しい。奥に見えるお城の天守を桜が包み込んでいるようで、画面越しに春が来たと感じられる。僕たちの住んでいる場所もほんの一週間前までは桜の花びらがひらひらと舞っていたはずなのに、すっかり葉桜に変わっていた。遠くに見える山の方はまだちらりと桃色に染まっている場所はあったが、もうすぐにでも無くなりそうなほどだった。
僕は重苦しい空気が嫌でテレビの画面を見ながら、向かいで同じく箸を咥えたままテレビを見つめていたユイカに話しかけた。
「そういえばユイカの週末の予定は?どこか遊びにいくの?」
「え?…ううん。土日は家で宿題してるつもり。」
「そうか。」
「どうしたの?もしかしてシュンくんどっちも仕事なの…?」
「いや、そういうわけじゃないんだけれど。」
「??」
「桜がきれいだなーって。そういえば今年は花見もしなかったよね。」
「え?あ、お花見ね。うん。私は高校入学で忙しかったから。シュンくんもしなかったの?」
「ああ。俺もなんだかんだで忙しくて、気がついたらすっかり時期を逃してた。」
「ふふ、シュンくんらしいね。」
少し笑ってから、ユイカはまたテレビ画面の方を向いた。ニュースでは桜の話題は終わり、政治家の不祥事のニュースへと移っていた。
妙に大人びた顔でテレビ画面を眺めている彼女には、僕から離れるといつも泣いていた幼いころの面影はもうほとんど残っていない。そういえば幼馴染だった妻を僕が友達以外の目で見るようになったのも、ちょうど今のユイカくらいの年だった気がする。
昔を思い出しながら娘のことを見ていると彼女が急にこちらに顔を向けて来たので思わずビックリしてしまった。その目は何かを思いついた時のように輝いている。
「ねえ、明日お花見に行こうよ!」
「え?」
僕が見とれていたことには気付いていなかったのか、ユイカは先ほどまでの悲しげな雰囲気とは違う、いたずらっぽい笑顔で僕を上目遣いに見ていた。
「お花見だよ。二人とも行ってなかったし、明日行ってみようよ。」
「いやいや。お花見ったって、もうここら辺じゃどこにも桜なんて咲いてないだろ。」
「シュンくんったら。テレビ見てた?桜あったでしょ?」
「ま、まさかお前。」
「そそ。テレビでやってたところにドライブしに行こうよ。ダメ?」
「東北だよ、あそこ。かなり遠いと思うんだけど…。」
「ねえお願い。明日忙しい?」
「う、まあ明日は暇だけど…。」
「やったぁ!それじゃあ明日着ていく服決めとかないと。精一杯おしゃれしていくんだから♪」
そう言って器を水をためた流しに入れて、ユイカは僕の返事も聞く前に自分の部屋へと戻って行ってしまった。娘のコロコロと変わる表情に少々面食らいながらも、彼女がいつも通りの様子に戻ってくれて嬉しいと思った。
「…ところでほんとに東北行くの?」
僕の言葉に答えてくれる人は当然いなかった。
翌日、僕とユイカは少し早めの朝ごはんを食べて車に乗り込んだ。まさか東北までドライブすることになるとは思っていなかったし、いくらなんでも急すぎると口では文句を言ったものの、やはり娘と一緒に休日に出かけるのは楽しみなのが父親というもの。いつもよりかなり早い、娘が起きてもいない時間に起きて、僕はピクニック用のお弁当を作った。
「ユイカ、忘れ物は無い?」
「うん、ばっちり。よろしくねシュンくん!」
おしゃれしていくといった彼女はかなり気合を入れたようで、朝ごはんを食べているとき、僕に何度も「どうかな、似合うかな?」と聞いてきた。おしゃれと言うものにまったく無頓着な僕は、どういう服をどう組み合わせればいいというのは分からなかったけれど、肩に掛けるように羽織っていた青色のカーディガンが彼女のスタイルのよさを際立たせていて、純粋に彼女に似合っていると思った。
でもあまのじゃくな僕は、いつもの制服とは違う見慣れぬ姿にどぎまぎして、ただ一言「似合ってるよ」と言いたかったのに余計な一言を加えてしまう。
「服すごく似合ってるけど、やっぱりちょっとその半ズボンは短すぎないか?向こうは寒いかもしれないよ。」
彼女の健康的な脚は惜し気もなく曝け出されていて、見てるこちらが恥ずかしくなる。
「ハーフパンツって言ってよもう。それに気温はこっちとあんまり変わらないって今日の朝刊で見たから大丈夫だよ。そんなことより、やっと似合ってるって言ってくれた!私、シュンくんに褒められて嬉しいよ。」
「…そっか。それじゃ出発な。」
僕は嬉しそうな彼女の横顔にそう言って車を発進させた。休日の朝8時はもうすっかり日が昇っており、春の穏やかな青空が広がっていた。
昨日ちらりと聞いた桜の名所の名前を検索すると家からは車で三時間半ほどの距離だった。出発してすぐは見慣れた街中を走っていたが、やがて有料道路の入り口に入るころにはビルよりも一軒家の住宅が目立つようになり、周りの景色もあまり変化の無いものになってきた。
「シュンくんシュンくん、はいアーン。」
途中、ユイカは僕が疲れないように絶妙なタイミングでチョコレートを食べさせてくれた。運転中はなかなか食べ物を口にできないので、恥ずかしいけれどありがたい。
「サンキューユイカ。…うん甘い。」
「えへへ、だって私が舐めておいたから…。」
横を向くことはできないが何やら恥じらっているらしい声が聞こえてきた。
「うお!?な、何だって?」
「じょーだん。ふふ、やっぱり動揺してるシュンくんって面白い。」
「ユイカさん、大人をからかうのは止めてくれよ…。」
二人を乗せた小さな密室は高速道路を進んでいく。先ほどのように彼女が僕に近づくたびにふわっと娘の甘い匂いがきて、思わずクラっとしたのは内緒だ。
しばらくは助手席に座っていたユイカは流していたFMラジオの音楽を口ずさんだり、持ってきたお菓子を僕に食べさせたりしていたが、飽きて来たのかいつの間にか無言になった。そのタイミングで僕はふと彼女に声をかける。
「そういえばユイカ、昨日は校舎裏に一人でいたけど何してたんだ?」
なるべく自然に、僕は気になっていたことを隣に座っている娘に訊いてみた。
「別に言いたくなければいいんだけど、お父さんちょっと気になってさ…」
「……」
「ユイカ?」
「…すぅ、」
穏やかな寝息が助手席から聞こえてきて、ユイカの方を目だけ動かして見ると彼女はぐっすり眠っていた。どうやらだいぶ前から眠っていたらしく、運転しながらちらりと彼女はすっかり椅子に体を預けていた。
「なんだ、眠っているのか。」
「すぅ、すぅ…」
しばらくは一人ラジオから流れる音楽を聴きながら車を走らせる。県境を一つ二つと超えていくたびに人工の色が減り、代わりに緑や黄色など自然の色が増えてきた。走っている道路の名前もいつの間にか東北自動車道に変わっている。周りには山や高原が広がっていて、その頂上付近はまだ白く雪が残っていた。春と冬の境目だ。僕はそんな景色を見ながら、どこか懐かしさを感じていた。
『続いての曲は…』
高速道路もあと少しで降りるというところで、MCの人がとある歌のタイトルをアナウンスした、その瞬間僕の中で電気が流れたような気がした。二十年近く前に流行った懐かしいメロディ、僕と妻が車で出かけた時によく流していた音楽だった。この道路もそういえば以前一度通ったことがあったと思い出す。
「うわぁ…懐かしいなぁ。」
イントロが流れてきて、僕は妻のユカと二人でドライブデートした懐かしい日を思い出した。そういえば妻もユイカと同じように、出発してすぐははしゃいでいるのにいつも途中で疲れて眠ってしまうのだった。目的地について起こしてあげるのが僕の役目。今は亡きユカの寝顔を思い出して、僕の胸には熱いものがこみあげてきた。そんな気持ちを振り払って、僕はアクセルを踏む。到着までラストスパートだとでも言うように。
「ユイカ、起きな。着いたよ。」
僕は駐車場に車を止めてユイカの肩を揺さぶる。椅子とシートベルトが締まって彼女の少し大きな胸を強調する。父親だから気にするなんておかしいはずなのに、体を揺らすたびに娘のそれが上下にぷるんと揺れ、いつかの風呂場に侵入して来た時のことを思い出して、なんだか無性に気まずくなった。僕は顔を逸らしながら辛抱強く肩を揺さぶっていると、ようやく彼女は目を覚ました。
「んん、シュンくん…。おはよ。」
「お、おはよう。ぐっすり寝ている間に着いたよ。」
「着いたの?」
「ほら、見てみなよ。凄くきれいだよ。」
「…わぁ、桜だー!」
外を見て開口一番、ユイカは歓声を上げた。僕たちの周りには満開の桜、桜、桜…。この公園内には1000本の桜が植えられているそうで、お城はもちろん春は桜の名所として観光客に有名らしい。公園内は桜の花びらが雨のようにひらひらと降っていて、昔の偉い人が桃源郷と表現したのも分かる気がした。
「シュンくん、あそこ空いてる!」
僕の斜め前を桜の妖精のように可憐に歩いていたユイカは座れる場所を見つけて指を指した。二人ともお城の中に入るつもりはなかったので、城の周りの公園をしばらく歩いて、空いているスペースにブルーシートを引いた。
休日と言うこともありそこそこ花見客もいたが、僕たち二人が花見をするには十分なスペースがあった。時刻はお昼過ぎなので、ブルーシートに腰を下ろしてさっそく僕たちは花を見ながらお弁当を広げた。
「わぁ、すごいお弁当。」
「朝作ったんだ。ちょっと気合入れすぎたかな?」
僕は大きな保冷バッグから三段の重箱を取り出した。そこにはお弁当には定番のタコさんウィンナーや唐揚げ、卵焼きの他に巻き寿司が並んでいた。
「すごい!シュンくん大好き!」
「はいはいありがとう。それじゃいただこっか」
二人で頂きますと手を合わせる。桜を見ながら二人で食べるご飯は場所が違うだけだというのにいつもよりずっと美味しい。たまにユイカが「はい、あーん」と僕に食べさせてくる。いつもは人の目を気にして絶対に拒んでいたが、ここには絶対に知り合いもいないのですんなりと受け入れた。
「シュンくん、美味しい?」
「当然。俺の作った料理だからね。」
「むぅ、私も早起きして作ればよかった。」
穏やかな時間が過ぎていく。僕たちは他の人を気にすることなく、親子二人のピクニックを楽しんだ。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさま。」
食べ終わって重箱を片付けていると、ユイカの髪に桜の花びらが付いていることに気付いた。
「ふふ、ユイカってば。」
「え?何なに?私がどうかした?」
「いや、何でもないよ。」
「ええ、ずるい。私にも教えてよ!」
「本当に。教えるほどのことじゃないって。」
「むぅ、シュンくんそうやって意地悪するならいいもん!今度っから学校では大声でお父さんって呼ぶんだから!」
「おいおい、そういうのはズルいだろ。」
「シュンくんの方がズルいからいいんだよ!」
「分かった分かった。別に大したことじゃないんだけどね。」
そう言って僕はユイカの髪を手ぐしで梳いて花びらを取ってあげた。
「あ…、桜…。」
「そ、ユイカにこれが付いていて、桜の妖精みたいで可愛いなってね。…ユイカ?」
彼女は僕の手の桜の花を見ていたが急に後ろを向いてしまった。いい大人が桜の妖精なんて恥ずかしすぎるだろうか。言ってから僕も恥ずかしくなってきた。
「ごめん、ユイカ忘れてくれ!今めちゃくちゃ恥ずかしいこと言った!その…、ダサいならダサいって言ってくれた方が俺は…」
「ち、違くて!」
「え?」
「違うの。シュンくんがこんなに近くで私のこと可愛いって言ってくれて。私今すごく恥ずかしい顔してるから。ごめん、ちょっと落ち着くまでこのままで…」
僕の心臓は跳ね上がった。いつもはストレートな愛情を示してくれるユイカ、そんなユイカの恥じらう姿が愛おしくて、僕は彼女の背中を抱きしめた。
「ユイカ、びっくりさせてごめんね…。」
「も、もう!シュンくんはズルいよ。…バカ。」
僕たち二人を他人から隠すように、桜の花びらはいつまでも優しく舞い落ちていた。