2.登下校デート
「ねえシュンくん、今日は一緒に学校行ってもいい?」
「はい?」
「だからシュンくんと一緒に登校したいの。」
朝ごはんを食べ終えて、スーツに着替えている僕の背中にしなだれかかりながら、ユイカは甘えた声で言った。首だけ彼女の方を見ると、既に僕の勤める高校の女子制服に身を包んでいて、準備は万端のようだ。
「一緒にったって、まだ生徒たちが登校するような時間じゃないだろ。」
僕の部屋の壁にかかっている時計は、現在時刻が7時少し前であることを示している。今から学校に向かうと、到着はのんびり歩いても7時半。8時半が生徒の登校時間なので、あまりにも早く学校に着いてしまうのだ。僕はネクタイをぎゅっと締めながらそう言って諦めさせようとする。
「私は大丈夫!一人で勉強して待っていられるから。」
「わー、ユイカはエラいなぁ。こんないい子に育ってくれて俺は嬉しいぞ。」
僕は適当に相槌を打って、娘の頭を撫でた。彼女はえへへへ、と蕩けたような顔になって僕の手を受け入れている。こうしていると娘はまだ、ただの子供で、偶に見せてくる大人びた顔や、僕を包み込もうとする女性らしさは幻なんじゃないかと思えた。
「でも駄目だ。」
「わーい、…え?」
「父親とは言え生徒が教師と登校なんて、いろいろと問題だろ?ほら、最近教師と生徒が不適切な関係に、とかそんなニュースが多いし」
「関係ないよ!私とシュンくんはどっかの恋人気取りの人たちと違って、本当の夫婦なんだから!」
「その方がもっと危ないからな!?どちらにしても女子高生と40近いおっさんが一緒に歩いてるなんておかしいから。」
「登校時間ずらすから誰にも会わないよ」
「残念。朝練やってる人がいるだろ。そういうことだから、お前は後から時間通りに来いよ?」
ネクタイをようやく満足に結び終えた僕はスーツを着て、机の脇に置いてあったバッグを掴んだ。パソコンと問題集が入っただけのそれは、娘の背負っているリュックサックよりもずっと軽い。僕がドアに手を掛けて開けようとした時、後ろからぼそりとつぶやく声が聞こえて来た。
「私、遅刻するから…。」
「え?」
「シュンくんと一緒に行けないなら、私遅刻しちゃうかも。なんだか急にお腹痛くなってきた気がするし。」
「おい、ユイカ。」
「シュンくんが一緒に学校行ってくれるなら、私も頑張れるんだけどなぁ。」
「あのなぁ、お前、」
「うう、本当にお腹痛い。学校休もうかな…」
「…」
「…もうだめだ。シュンくん…私…。」
「…」
「いっしょに…行こ?」
「…」
午前7時5分。家の前にはやけに元気な女子高生とやけに疲れた顔をした教師が立っていた。
「わーい。お父さんと一緒に登校できるって分かったら、いつの間にかお腹痛いの治っちゃった。」
「…そうかい。そりゃ良かったよ。」
僕の腕を抱きしめている娘にため息をつきながら、僕は彼女と家の前の通りを歩きだした。
「あれ、お父さん。車では行かないの?」
「一緒に登校するのは、まあ百歩譲って許されたとして、教師が車で娘連れて行くとか流石にイタすぎるだろ!」
「そういうものかなぁ。えへへ、まあいいけど。」
娘のおねだりに負けた父親は、今度こそは、と精一杯の厳格さを持って娘のおねだりを退けた。僕と登校できれば電車でも車でも、どちらでも構わない娘はあっさりと納得してしまったので、おねだりを退けたような気はしなかったが。
「あらユイカちゃん、おはよう。今日は彼氏のお兄さんと登校?お熱いわねー!」
「おはようございます、田中さん。えへへ、そうなんですよ。」
歩いていると通りを掃除している女性に声をかけられた。ユイカが親し気に話しているから、ご近所さんなのだろう。あまり近所付き合いのない僕は、勘違いしているその女性に律儀に挨拶した後にはっきりと訂正した。
「おはようございます。ユイカの父親です。」
「あ、ちょっと…」
「あらそうだったの、ごめんなさいねー。はじめまして田中です。ユイカちゃん、お父さんかっこいいのね。それじゃ気を付けてね」
「はい、行ってきます!」
にこやかに手を振って田中さんと別れると、彼女は僕に、怒ったように頬を膨らませて言った。
「もう、なんで否定するの!せっかく彼氏って言ってくれたのにさ」
「当たり前じゃないか。俺とユイカは…」
「そっか、夫婦だからなのね!彼氏彼女よりも深い仲だもんね、私たち。」
「いや、そうじゃなくて…」
「えへへ、そうだったそうだった。お父さんも偶には積極的なのね。今日は私と学校までデートしてくれてるし。」
「いや、それはお前が」
「それにお父さんのこと、かっこいいって言われちゃった。きゃ」
まるで聞いちゃいない。両方の頬に手を当てて嬉しそうに顔を振る彼女は自分の世界に入って、完全に僕の言葉は聞こえていないようだ。僕は何度目かのため息をついた。
でも…、歩きながらこっそり彼女の方を見る。真面目な彼女のことだ。僕がもしあのまま一人で行ってしまっても、いつも通り遅刻などせずにちゃんと学校に行くだろう。一人で電車に揺られ、途中で友達と会って一緒に学校に行っていたはずだ。家ではいくら言っても聞いてくれないが、外ではちゃんと「お父さん」と呼んでくれている。本当に僕を困らせようとはしない優しい子なのだ。そんな娘に実は僕の方が依存しているのではないかと、二人で歩いていることに強い満足感を覚えていることを自覚しながら、思った。
「お父さん?どうかしたの?」
「え?あ、いや何でもないよ。今日の授業の考え事。」
僕たちは最寄りの駅について、学校へ向かう電車に乗り込んだ。通勤ラッシュのこの時間は電車が非常に込み合う。必然的に僕たちはお互い身を寄せ合って電車に乗り込んだ。
「ん、お父さん。」
「大丈夫か、我慢できなきゃ…」
「大丈夫。大丈夫だよ。」
そう言って彼女は僕の方に寄り掛かって来た。腕に感じる柔らかい彼女の肌と、甘酸っぱい匂いにくらくらとする。たった数駅、十数分の乗車中、僕の心臓は笑えるくらいに高鳴っていた。
駅から学校までは歩いて5分程度だが、少し急な坂を上らなくてはならない。僕たちは通行人や登校する学生の姿がまばらな坂道を二人で並んで歩いて行った。やがて大きな校舎が姿を見せる。
県内でも有数のマンモス校と呼ばれるこの私立高校に、僕はもう十年以上勤めている。そんな高校に娘はこの春入学して来た。彼女の学力ならばもっと上が狙えると、中学の先生も僕も口を酸っぱくして言っていたのだが、彼女は最後までここがいいからと譲らなかった。入学式の日にころころと笑って、今日から一緒の学校だね、と言った娘に今思えば初めてドキッとしたのかもしれない。
僕たちは校門をくぐってグラウンドの横の道を通り、最初の建物に突き当たったところで別れる。職員室のある建物と一二年生の教室のある建物は離れているのだ。
「それじゃ、また後でな。」
「うん。一緒に登校してくれてありがとう。お父さん大好き!」
ばいばいと僕が職員玄関に入って見えなくなるまで手を振り続ける彼女が可愛らしい。僕はよし頑張ろうと気合を入れて靴を履き替えた。
「ふふふ、桜井さんは相変わらず先生のことが大好きですね。」
「わっ、向井先生。見てたんですか!?」
肩を震わせるほどびっくりした僕を笑っているのは、僕と同じ数学担当の向井先生だ。僕より一つ年上の先輩でいつもお世話になっているが、いたずらや噂話が好きで、こうやってカモを見つけると今浮かべているような笑顔で首を突っ込んでくるのだ。
「はい。私も今日は早く学校に来る用事がありましたので。」
「へえ、そうですか。それじゃ僕はこの辺で…ひっ」
そそくさと三年職員室に避難しようとする僕の肩を、向井先生はがしっと掴んで離さない。彼女の記者な体には想像もできないほどの力が僕の動きを無理やり止めた。
「待ってくださいよ。桜井さんにはいつもお父さんについての赤裸々な話を聞いているんですよ。」
「へー、って赤裸々!?向井先生、あいつ何かおかしなこと言ってませんでしたか!?」
向井先生は一年生の数学の担当の一人で、ユイカたちのクラスの担任なのだ。生徒に人気のある彼女は放課後生徒たちと話している中で面白い噂話を収集しているそうだ。
「いえ、特には。」
「はー、よかった。結構家では甘えん坊で…」
「あー、一緒に寝てるんですよね?」
「ゴホゴホゴホ。た、偶に布団に潜り込んでくるんですよ。あっはっは、まったく困ったものですよー」
「誰々ちゃんは誰が好きとか、実はこの部活には勢力図があってとか、生徒たちの話は大体そんなものが多いのですが、桜井さんは面白いですよ。面白いくらいに先生の話しか出てきませんから。」
「はぁ。」
「二人を見ているととても面白いです。でも、少し心配でもあります。」
「え?」
「まぁ私には関係ないことです。それではまた。」
そう言って彼女は一年職員室へと入って行った。僕は首を傾げながら彼女を見送り、思い出したようにその後ろ姿に叫んだ。
「向井先生!さっきのこと、くれぐれも内密でお願いしますからね!」
彼女は任せないさいとばかりに親指を上に上げて、グッドのハンドサインをした。でも僕は知っている。こういう時の向井先生の口は風船のように軽いのだ。すぐに職員室中で話題になるのだろう。憂鬱になりそうな頭を振って、僕も職員室へと走って向かった。