未開の地への出立
朝の会議室。
長い黒檀の机の上に、羊皮紙の地図が広げられていた。
「――次の行き先は、未開の地ゼルフィオルです」
クラウスが指先で示したのは、世界の端に近い荒野地帯だった。
「ゼルフィオル……?」
私は地図を覗き込み、小さく首をかしげる。
「古代神話では“はじまりの森”とも呼ばれました。ですが今は虚無の侵食がもっとも激しく、誰も近づこうとしません」
クラウスの声は淡々としている。
「にもかかわらず、ここから各地へと異変が広がっている。救世の書記官であるマシロ様が最初に手を入れるべきは、ここでしょう」
胃がきゅっと縮んだ。
出発――つまり、とうとう魔王城の外に出るということ。
「よっしゃあ!」
ガルドが豪快に立ち上がった。
「護衛は俺に任せとけ! 虚無がなんぼのもんだ!」
「姉御のことは俺が全力で守る! ……って、ゼノ、お前も来るんだろ?」
「任務だ」
短く答えるゼノの声は、いつも通り冷たい。
それでも、その言葉に奇妙な安心を覚えてしまう自分がいた。
「もちろん、わたしも!」
リリィが勢いよく手を挙げる。
「でもドレスじゃなくて、ちゃんと動きやすい服を用意しますね! かわいい冒険服、考えておきますから!」
「え、かわいい……?」
背筋に嫌な予感が走る。
コルセットの悪夢がまだ抜けきっていないのに……。
クラウスは咳払いをして場を締めた。
「ともかく、準備は整えねばなりません。ゼルフィオルは未開の地――常識が通じない場所です」
⸻
会議が終わり、私は廊下を歩いていた。
ほんの数日前まで、普通のOLとしてPCに向かっていた自分が、今は「世界を救う救世の書記官」として旅立とうとしている。
……まだ一週間も経っていない。
なんなら三日前まで、同僚と愚痴を言い合っていたのだ。
(こんなことって、本当にあるんだ……)
役目の終わりはどこなのだろう。
街を直したら? 人を救い切ったら?
それとも、この旅そのものが終わるまで?
わからない。
でも立ち止まっている余裕もない。
⸻
出立前。
魔王の部屋に呼ばれた私は、重厚な扉を押して入った。
「来たか、マシロ」
金の瞳がじっとこちらを見据える。
「……あの、私、本当に……大丈夫なんでしょうか」
気づけば、弱音のような言葉がこぼれていた。
魔王はゆっくりと立ち上がり、ただ一言。
「お前の筆が、この世界を救う」
その声音は揺るぎなく、疑いの影すらなかった。
胸の奥に、熱が生まれる。
まだ答えは見つからない。
けれど――少なくとも、誰かが信じてくれている。
「……はい」
私は小さく頷いた。
こうして、未開の地ゼルフィオルへの旅が始まった。