2.借金の形に
翌日。羅刹はティナと共に娼館の主・ボーインの店を訪ねていた。
新たな住居から南にしばらく、大きな十字交差点に差し掛かる。縦に走る通りを〈カロ通り〉、横に走る通りを〈ポーカン通り〉と呼び、ミズーラ域の者たちはこの十字路をへそとして、北西の区画を“1番”、北東を“2番”、南西を“3番”、南東を“4番”と区分けされている。
ボーインの娼館は北東の“2番”に、通りからやや奥まった場所にあった。
古めかしい貴族の大邸宅を改装したような建物で、ささくれの目立つ扉の上には、看板と思わしきボロ板が掲げられている。
ドアベルを鳴らす。ロビーを掃除していた若い奉公人は、ぬっと現れた異形の存在に足下のバケツをひっくり返してしまう。
ここの主人を呼ぶように指示すると、店の奥からでっぷりした身体を揺らし、いそいそとその者が駆けつけてきた。
「これはこれは、早速の訪問ありがとうございます!」
破顔するボーインの前に、羅刹は鋭く尖った赤い指を三本立てた。
「資金が必要だ。金板を三枚」
これには横に控えていたティナまでも、ぎょっと目を瞠った。
「き、金板三枚だと!? い、言っている額を分かっているのか!?」
「分かっているから言ってるんだよ」
金を知れば世界が分かる。街を散策し、羅刹は既にこの世界の貨幣について理解していた。
この世界の通貨は、金銀銅・大中小の共通の硬貨で取引される。
大判の金貨一枚あれば、庶民ならば三か月間、不自由を感じることなく暮らすことができる。
そしてその大判金貨十枚に相当するのが、羅刹が要求した紙幣サイズの“金板”なのである。
ボーインは羅刹を見上げながら、金は用意出来ますが、とおずおずと言う。
「ほ、報酬とは別ですよね……?」
「勿論だ」
「では、無償で、とはいきませんが」
ボーインは顔を引き締め、ティナをチラリと見た。人買いの分野、値踏みするような目だ。
羅刹も彼女に目を向けながら、当然だ、と昂然と答える。
「担保として、この女をここで働かせよう」
「何だと!?」
思わぬ言葉にティナは飛び上がった。
「や、やらんぞ! 私はやらんぞ!」
腰に据えた短刀に手をやり、二歩、三歩後ずさりするティナ。
惑乱する主人を無視し、羅刹はボーインの垂れ目を正視した。
「ただし、下女として奉公させてやってくれ」
「は、はい。ですが返済が不可能になれば、その時は――」
「御座敷に上げても構わん。ああそれと、金と別に若い衆を一人用意しておいてくれ。運動ができる奴がいい」
「かしこまりました。ではそのように」
勝手に決めるな、と憤るティナの下に奉公人らしき男が近づいてゆく。
羅刹の脅かしが効いているのか、短刀の柄を握るだけで抜くことはしない。
「は、離せっ、触るな――や、やめろっ、やめろおぉぉっ!?」
悲鳴をあげて店の奥に連れてゆかれるティナを、羅刹は手を振り見送っていた。
◇
鬼の一口。そこから羅刹は迅速に動いた。
ティナを人質として残した娼館を背に、まずは真っ直ぐ南・“4番”の裏通りへ足を向ける。
昼間にも拘わらず濃い陰が落ちる場所だ。鬼の姿は目立つので人に化け、こざっぱりした小金持ちのような格好で通りを歩く。
身なりの整った者は、彼らの格好の獲物である。そこかしこに立ち構える立ちんぼの女や醜悪な面構えの男たちは、さっそくハイエナの如き目で闖入者を眺めた。
「よう、おっさん――」
一人の男がニヤつきながら近づいてくる。
警告も兼ねた三下だろう。羅刹はいかにも大物になれないチンピラ風の男を一瞥しただけに留めた。
男は無視されたことに顔を歪めたが、羅刹がもう一度目を向けると、男の怒りはたちまち恐怖へと変わった。
(小物ばかりか)
鬼の目には、仕事を任せそうにない小心者ばかりが映る。
“4番”のちょうど真ん中近くまで来ると、鬼の目はようやく品定めするものへと変わった。
物見遊山でくることなどもっての外。じわりじわりと取り囲みに来る悪漢を、壮年の男・羅刹はぐるりと見渡した。
「おっ。お前がいいな」
その輪から外れている一人、長い黒髪の痩せた男を指差した。
男はじろりと睨もうとしたその時、
「がッ――!?」
羅刹の右手は目にも見えない早さで、近くにいたハゲ頭の首を掴んでいた。
高く宙に浮かされもがき苦しむが、すぐに四肢がだらんと垂れ、大人しくなる。
ニヤリと鬼の笑みを向けられ、黒髪の男は上半身を反らせた。従うべきものは何か、それを解した表情を浮かべている。
「一つ仕事を頼みたい」
「……俺のことを知った上でか?」
「お前が誰で、何であろうが知ったことか。血の匂いがする、それだけだ」
言うと、ボーインから受け取った金板二枚を足下へ投げる。
高く澄んだ金の双音は、下野な男たちすら聞き入るほど美しい調べであった。
◇
日は大きく傾き始めていたが、羅刹は人の姿のままライコーンの街に向かっていた。
しばらく帰るつもりはない。ティナに今の立場を知らしめ、受け入れるまでは顔を合わさぬ方がいいだろう、と踏んだためだ。
数日前まで彼女が住んでいた部屋、その扉には大量の張り紙がされてあった。
この世界の文字は読めないが、感情を剥き出しにした字面からしておおよそ察しがつく。
『酷いもんだろう――』
振り返るとそこに小太りの男の姿があった。
それがティナがよく利用していたパン屋の店主と気付くまで、しばらくの時間を要した。
鬼が化けているとはつゆ知らず、初対面の者に対する口ぶりで話し続ける。
「字は読めるのかい?」
「いや、読めん」
首を振ると、店主は横に立って紙を眺めた。
「冷血、淫乱女、恥さらし……他にももっと酷い罵詈雑言が綴られている」
「そんなことだろうと思っていた」
「だけど鵜呑みにしちゃいけない。彼女はこんな言葉とは真逆の、純朴ないい子なんだよ。ちょっとばかし悪い男を引いちまっただけさ」
その悪い男が目の前にいると知らず、パン屋の店主は一枚の張り紙を指差した。
それは怒りに歪む字ではなく、丸みのある楽しげな字だった。
「こっちは『アンタ最高だよ! 俺が求めていたのはあれだよ!』――あまり大きな声で言えないが、俺もそう思うんだ。あの純粋そうな子の頭を鷲掴みに、羞恥と絶望に歪む顔を大衆に晒させたところなんて、もう堪らなくてさ」
「ほう。そんなにか?」
「ああ! その夜は居ても立ってもいられず、店の金持って娼婦を買いに出たぐらいさ」
だが同じことを考える者が多く、若い娼婦の数が足りないほどだった。
ありつけなかった者は年のいった娼婦で妥協するか、飲み屋で我慢するかの二択。
店主はどちらも諦め、その日の夜は無料の古女房で我慢した、と笑い話に語った。
「今年十二になる息子がいるんだが、もしかしたら十離れた弟か妹が出来るかもしれん」
「はっはっ! 随分とまぐわったようだな」
店主は照れ、肩をすくめた。
「女オークってこう言うのかってぐらいさ。女は口々に文句言うが、内心は自身も興奮していた。表に出せないもどかしさを、ティナちゃんへの文句にして発散しているのかもしれないな」
「ふむ」
「戦うのはお行儀のいい連中ばかりだ。一つや二つ、あれくらいのパフォーマンスがあってもいいと思うね」
だから気にするな、店主はそう言いたげに肩を叩いて去ってゆく。
自身も立ち去ろうとした時、扉の下に白い封筒が一通、挟まっていることに羅刹は気付いた。
差出人は書いていない。
相変わらず文字は分からないが、少年の字のようだ。
中に硬貨が一枚入っているのに気付いた羅刹は、ニヤリと口を歪めた。