3.初めての労働(堕ちる覚悟)
思いもよらず娼館で働くことになったティナは、下働きの女の恰好に――頭に白い三角巾、ボロの茶色のワンピースにボディスと呼ばれる前開きの胴着に着替え、その日から下女として働かされていた。
「う、ぐぅ……!?」
最初は女たちがコトを終えた部屋の掃除から。
部屋には窓がないため、常にムッと蒸されたオスとメスの臭気に満ち満ちている。
複数の男の汗と精と、女の古い脂のような臭いは頭が眩みそうだ。ティナは息を止め、息継ぎ少なく汚れたシーツを張り替える。
枕元には使用済みの手ぬぐいがあり、手早く手箱の中に放り込む。
これが厄介な代物である。口内で受けた精をそこに吐き出したりするものなのだが、全部屋のシーツを交換し終えると、次はこの手ぬぐいを洗わねばならない。
「くっ、どうして私がこのようなこと……」
店の裏にある水路。布に残った男の精は、白い藻となって水流を泳いでゆく。
ヌメリはなかなか取れず、力任せにじゃぶじゃぶ洗っていたその時、娼館に耳つんざく金切り声が響き渡った。
『ティナッ! ティナはどこだいッ!』
「う……ま、またか……」
それは古株娼婦の一人・キャトリンの声であった。
年は四十路。ほっそりとした体型で、眉間やほうれい線に深いシワが刻まれている。髪は銀髪なのだが、艶がないため老婆の白髪のようだ。
見た目の通り口うるさい、ティナが苦手とする人物だった。
「ちょっとティナッ!」
「な、何だ?」
「何だじゃないよッ、あのシーツはいったい何だい! シワだらけ、ぐちゃぐちゃじゃないか!」
そしてそれ、と細く節くれ立った指で手ぬぐいを差した。
「いつも男のは落ちてないし、布が傷んでボロボロになってるじゃないか! あんたの贅沢なお家と違って、ここはボロ切れ一枚でも大事なんだからね!」
「そ、そう言われても落ちないものは仕方ない……」
「言い訳するんじゃないよ! やる気がないなら店に上がって尻を出してな!」
ベッドで四つん這いになってる方が、よほど役に立つ。
キャトリンは言うだけ言って、肩を怒らせながら娼婦が昼間休む寮へと戻る。
叱られる理由がいちいち尤も。残されたティナは手ぬぐいを握り締め、唇を噛んでじっと立ち尽くすしかできないでいた。
しかし、いつまでも悔やんではいられない。
空の端に茜色が浮かぶ頃になると、いよいよ忙しさが頂点に達すのだ。
洗濯を終えれば今度は娼婦たちの寮の掃除、そして娼婦たちの飯作り――しかしティナは、料理と言ったものを殆どしたことがないため、
「ちょ、ちょっと!? ニンジンの皮は剥いてあるのかい!?」
「え? ニンジンって皮あるのか?」
こちらも古株娼婦の一人・ミランダは、慌てて鍋に入ったニンジンの塊をすくい上げた。
キャトリンは痩せ型であれば、こちらは真逆の肥満型。肉付きがいい方のティナであるが、それよりも一・五倍ほど横に広い。赤髪を短く切り揃え、厚ぼったい口はよく動く。
そんなミランダは、鍋に放り込まれた野菜を確かめ、深くため息を吐いた。大きさはバラバラ、皮も剥いてなければ根すら取っていない。
「呆れた。お嬢様は料理しなくていい、って本当だったんだねえ」
「うう……」
「これはイチから教えなきゃならいようだ。今日はあたしがしてあげるから、羊の腸を洗っておきな」
「え、で、でも……」
「いいから。でも明日から徹底的に仕込んでやるから、覚悟するんだよ」
わっはっは、と笑うミランダに、ティナは肩を落として厨房を出て行った。
◇
娼館は夜起き、朝眠る。
しかし下人たちは昼夜問わず、忙しく働かねばならない。
「広すぎるぞ……」
娼婦の数は十五ほど。対する仕事部屋は二十を超え、寮と合わせれば軽く五十を超える。なのに奉公人や下人の数は十足らず。店主のボーインが半数以上切ったせいである。
そのシワ寄せがすべて下人にゆく。ティナは早朝から腰にハタキ、手にモップを持ち、娼館全体を走り回った。
貴族邸に近いものの窓ガラスは少なく、日中でも燭台を持たねば足元がおぼつかないほど暗くなる。
「娼館は三階建て、寮は四階建て……どこの貴族から巻き上げたのだ……」
二階の西側のモップをかけ終え、額に浮かぶ汗を拭っていると、それを待ちかねたかのように、若い奉公人が階段を上がってくる。
「ティナさん。三階の掃除はどうなっていますか?」
「は、はい。ただいま!」
息を吐く間もない日が続く。
そんなある日の昼下がり、ティナは勝手口に現れた行商人の応対をしていた。
「ふむ。野菜か」
「ここは食い扶持が多そうなので、是非とも」
滴る汗を拭いながら口上を述べる。外の日差しが堪えるのか、強面の顔が辛そうに歪んでいる。
ピーマンやニンジン、コーンなど、編みかごの中には色とりどりの野菜がいっぱいに入っており、ティナはそれらを眺めながら男の説明に耳を傾ける。
「この日照りで野菜の出来が悪くて、値が少々……」
「ああ、確かに」
勝手口の軒先から覗く空には、日差しを遮る雲がない。
不作で野菜の値段が上がっている、との説明に納得すると、金を貰いに受付に引き返した。
その時だった。そこにちょうど居合わせたミランダは、ティナから話を聞くなり仰天声をあげ、どすどすと廊下を踏み鳴らしながら行商に向かって行ったのである。
「――ぼったくるのも大概にしな!」
ミランダは行商人に詰め寄りながら言葉を続ける。
「これらの野菜は今年、採れすぎるぐらい豊作だって聞いているよ! それに大銀貨二枚ってえらく強気だけど、この出来の悪い品々は、いったいどこの名産品だい!」
「そ、それは……」
たじろぐ行商人に、ティナは言葉を失っていた。
外から見る限りでは何の問題もない。そして野菜はもっと安く買えるのか――。
「売女が」
行商人は逃げるように帰ったものの、ミランダの鼻息は治まらず。振り返ると今度はティナに詰め寄ってゆく。
「ライコーンの商いは監視の目があるけど、こっちは食うか食われるか、品のない連中が集まる所だよ」
「そ、そうだったのか……」
「まったく、どこまでお嬢様なんだい。物売りの口上にいちいち耳を貸していたら、身ぐるみすべて剥がされちまうよ!」
野菜の見分け方も教えなきゃならないね、と憐れむように言うと、ミランダは店の中に消えてゆく。
開け放たれたままの勝手口には、行商人に踏み潰されたであろう蛾が、風に小さく揺れていた。
そんな毎日のせいか、一週間もすればティナは完全に打ちのめされていた。
悪臭の中に飛び込んではキャトリンに叱られる。自分が料理を作った日は、ミランダをはじめ全員が苦い顔で娼館に向かう。客足が更に減った気さえする。
やればそれだけ失敗するティナを、誰もが口調も併せて『騎士のお嬢様』と謗った。
ティナは自身が騎士であったかさえ怪しくなっていた。
この日の夕暮れ、時間を見つけて短刀を振ってみたのだが、剣筋はふにゃふにゃ、まるで身が入っていない。
ティナは重いため息を吐き、中庭から覗く挟天の空を見上げた。
「私は本当に、何もできないな……」
自傷気味に呟く。
藍色に染まり始めた空を見ているだけなのに、どうしてか目頭が熱くなり、服の袖で目元を拭った。
布地に染み付いた臭いが鼻をつく。
自分の闘士の言う通り、これが本当の独り立ちなのだろうか。
「いや、まだ完全に立てていない……」
鼻を啜り、空を見上げながら独り呟く。
今は“騎士であった自分”に指をかけ、地の底に堕ちるのを必死で堪えている状態だ。
だから何もかもが中途半端、『騎士のお嬢様』と蔑まれ、馬鹿にされるのだ。
――やる気がないなら店に上がって尻を出しな
先日、キャトリンに叱責された言葉を思い出す。
確かに薄汚れたドレスを着、ベッドの上で尻を突き出し、男に好き放題使われる方が楽に違いない。そうすれば快楽も金も得られる。
だが楽な方を選べば、自身は忽ち“食われる側”になってしまう。永久に浮上できない負け犬になってしまう。そんなのはゴメンだ。
ティナは顔をパンッと叩き、涙で緩んだ顔を引き締めた。
「よし……!」
ティナは決心した。
堕ちるのなら、堕ちるところまで堕ちてやろう。
崖っぷちにかけていた指を自ら離し、真下に広がる底の見えない穴に身を投じると、不思議と気持ちが軽くなるのを感じていた。




