9.鬼に十字架
レゴン域の土地はあまりよくない。
ティナの言葉の通り、そこは寂寥の荒野が広がっていた。
少し遠い所には灰色の町が。東を望めば荘厳な山が壁のように連なっている。〈トレガン山脈〉と呼ばれるそれは、良質な石や鉄が採れる天然資源豊かな山であるようだ。
手つかずの自然が描く緑淡の趣きは、どんな才の持ち主でも描けるものではないだろう。荒野に立つ鬼は、それを眺め感慨に浸っていた。
「何ともはや。相応しい言葉もない」
その姿に、ティナは意外そうに双眸を開いている。
「何だそんな意外そうな顔は。自然を美しくあれと思い、慈しむのは何にだってある感情だ。特に鬼は山と、自然と関わりが深いからな」
「ふうん」
あまり納得のゆかない返事をするティナは、視線を反対側に広がる町へ移した。
カルガの町。低い屋根の建物が無秩序に並び、燦々とした陽の光を嫌うかのような、薄暗く重い雰囲気が落ちている。
再び東へ。今度は山を仰ぐのではなく、その下――
「修道女を堕とす、など非道なことを口にする奴の言葉とは思えん」
「鬼の道は人にあらずだ」
「とにかく、私は賛成しない」
この域の中で最も大きな建物。
それが、カルガの町の遠い外れにぽつんと建つ、フートラン修道院である。
外観はまるで石の要塞。広い土地を贅沢に使い、外壁がずらりと長く取り囲む。
正面の錆びの回った鉄の柵門を長く軋ませ入ると、それが呼び鈴の代わりなのか、中から黒い修道服姿の女が一人、ゆっくりとした足取りで現れる。
クロブークと呼ばれる修道帽から、張りのある金髪が覗く、まだうら若いシスターだ。
来る者拒まない場所だが、真っ赤な身体を持った異形の存在は、ここにとって招かれざる客であるらしい。羅刹を見るや、シスターの顔が強張り、手を震わせながら首に提げていた“×印”のペンダントを突き出した。
「あ、悪魔よっ、この聖なる地から去れ……!」
「ぐああああっ――なんて、鬼に十字架が効くか馬鹿たれ」
陰陽師と札持ってこい、と言うと、シスターの顔は一気に青ざめた。
鬼の耳は一里(約3.93km)先の、尼の屁の音すら聞くことが出来る。
修道院の奥から『子供たちを地下室へ』と緊急事態を告げる声、ばたばたと廊下を駆ける複数の足音が聞こえていた。
「――単刀直入に言おう。俺様が今回訪問したのは、『ウォールの金融業者が、こちらに融資していましたよね』ってな用事よ」
「あ……」
彼女が見せた反応は、寝耳に水ではないもの。
これまでの夫人を娼館の落とした時と同じ、金貸しが死んだことで借金が消えてくれないか、胸の奥底で望んでいた反応であった。
ティナはきゅっと唇を噛み、目を伏せた。
返済日はそう遠くない、三ヶ月後の秋までである。
備忘録には【夏の終わりに町から寄進が入る】とのこと。……しかし、周囲の町の様子や中に身を寄せる者たちの数などからして、甘く、淡く、粟立つ見通しであった。
「――と、とにかく、ここではですので中へ」
シスターはそう促すと、身体をくるりと翻し、駆けるように修道院の中に入っていった。
◇
『ど、どうしよう……!』
『とにかく、今あるだけ渡して残りはまたに』
『ダメよ! そんなことしたら、子供たちがご飯を食べられなくなるわ!』
『お、落ち着いて。返済日はまだだから、今は払う必要ないはずよ』
『きっと、払えなかった時の下見に来たんだわ……』
修道院の奥、×印のシンボルが掲げられた応接室らしき場所に通されたティナと羅刹は、後ろの廊下から聞こえるそのような会話に、じっと耳を傾けていた。
シンボルはこちらでの十字架なのだろう。しかし生憎と、それを見る鬼の胸に良心が語りかけることはなかった。
「ベイの梵字なら、引き下がったかもな」
「何だそれは?」
「鬼がちょっと困る文字だ」
シスターが姿を現したのは、それから二十分ほどしてからである。
出迎えた彼女を案内人に、もう一人そこに入って来る。雰囲気からしてリーダー的な存在のようだ。
彼女はリサと名乗り、遅くなったことを詫びると羅刹の前に座った。そして先手を打つかの如く、返済日はまだ先であることを釘に、何の目的かと訊ねた。
「下見を兼ねた敵情視察だ」
羅刹は野太く答えると、案内人のシスターは息をくっと呑み、目をしばたかかせた。
それを諫めるようにリサは横目をやる。
「この教会を奪うおつもりですか?」
「いいや」
羅刹は前のめりに、リサの目を見据えた。
「奪うのはここの人間たちだ」
案内人のシスターは悲鳴をあげ、椅子から転げ落ちそうになる。
テーブルを掴んで踏み留まったものの、動悸が治まらないのか胸に手をやったまま、粗い息を吐き続ける。
「悪魔の糧となるくらいならば、我々は教えに背いてでも自らの喉を突く所存です」
「悪魔じゃなくて鬼だ。しかし今回、糧にするのは目の前のそれではない」
「え……」
「男という鬼どもだ」
リサの瞳が震えたのが分かった。
「金を返せなかった女が行く場所は限られている。中には子を狙い、人買いに売るのもいるだろうよ」
「ッ……悪魔めッ、地獄に堕ちよッ!」
「鬼だつってんだろ。それに俺が地獄に堕ちても、ただの里帰りにしかならん」
今のうちに考えておけ、と言おうとしたその時だった。
居心地悪そうにしていたティナは突然立ち上がり、部屋の出入り口を睨みつけ、腰の短刀を構えたのである。
その表情には鬼気迫るものがあり、羅刹も思わず呆然としてしまっていた。
「突然どうした?」
「え?」
羅刹の言葉に我に返ったのか、きょろきょろと顔を見渡し、あれ、と首を捻った。
「誰かが入ってくるような気配がしたのだが……」
指差すそこには何もない、ただアーチ状に石を積み上げた出入り口があるだけ。ティナはばつが悪そうに座ると、勘が鈍ったのかな、とこめかみを揉みながら小さく首を振る。
対して、リサや案内人のシスターは、何かに怯えるような表情を浮かべていた。
「ほう。俺たちの他にも、悪魔の手先が来ているようだな」
「あ、あなた方には関係のないことです! お引き取り下さい!」
「敵の敵は味方とも言う。俺たちは金を返してもらいたい、それを妨げる者は敵だ」
リサは案内人と目を見合わせる。
どうするべきか、話した方が、でも、と会話が続けられているようだ。
しばらく見つめ合ったのち、リサは小さく息を吐き、羅刹とティナ向き直った。
◇
ミズーラの街。自宅に戻ったティナは思案に耽っていた。
「ラッシャ聖堂修繕にあたる勧進の金を、あんな所に保管しているとは……」
「あの修道院は意外と頑丈だ、つか元々何か城だろあれ」
そう言えば、と思い出し仕草で語る。
「戦乱の時代。北のフランの街が迫ってきた時だったか、そこの前線砦が進軍を止めた……とあったような」
「なら、簡単には見つけられん隠し扉や抜け道などがあるんだろう。実際、孤児らを地下から逃がしていたからな」
また見晴らしのいい場所の上、部外者の出入りが難しい建物。敬虔な者でなければ訪れるのも難しいだろう、と羅刹は続ける。
二人が訪ねた時、シスターは勧進の金を狙った賊を疑ったのだ。
これまでにも何度か、怪しい影を見たと言う。
そして孤児の存在を知ったティナは、なおさら今回の件に関して手を引きたがった。
「勧進の金を賊から守るなら協力する。しかし彼女たちを堕とすのは反対だ」
寮で身を寄せ合って生きる娼婦たちと重ね、逆に力になりたいとすら感じているようだった。
「ご主人様がそう言うのなら闘士は従おう。しかしそれが、ガキどもにとって最善の道なのか、と考えた時、果たして同じことを言えるのか」
「……どういうことだ?」
「いつまでも幼稚園にいられねえってことだ」
ようちえん、と口にして首を傾げるティナの横で羅刹はワインの栓を抜き、瓶ごとあおる。
ワインは嫌いではないが、米で造った酒も呑みたいなと思い始めていた。
※勧進
寺社・仏像の建立・修繕などのために寄付を募ること




