03
全く状況が理解できない俺に、女は「取りあえず早めの夕食でもどうですか?」と告げ、公園の外に染まっていた黒塗りの高級車へと連れて行った。
これまでの、そしてこれからの人生にも全く縁がないだろう最高のシートに腰を下ろしてからおよそ十五分後、全く揺れないせいで走っているかどうだか解らない車は、とあるレストランの前でそっと停車した。
女とその護衛らしき若い銀髪女と三人で、店内に入る。
見た目も言動も洗練された店員がすっと近づいてきて、エレベーターへと案内された。
最上階へ着いて驚いた。
明らかに会員制の高級レストランらしいこの店、一階も相当に金がかかっていると解る内装だったが、最上階はその比ではなかった。
美しいが落ち着いた味のあるこれらの調度品を全て集めるのに一体どれくらいかかるのか、俺には想像もつかなかった。
しかしだからといって気圧されるかというとそうではなく、一庶民である俺でも落ち着ける空間なのだ。
これはインテリアを任された者の腕だろう。
全てにおいて最高の空間。
そしてそこにはテーブルがただ一つしかなかった。
……金さえあれば押さえられる席じゃない。
相当の立場とコネが必要。一体何者なんだ、この女……。
警戒で背中をぬらす俺をよそに、女は優雅に席に着くと何やら給仕に囁くと、あの得体の知れない笑みを俺に向けた。
「お飲み物は如何します? 日本酒が好きだと聞き及んでいますが」
「いや、俺は――そうだな。ビールにしてくれ」
「解りました、銘柄にご注文は?」
「メキシコビールがあればそれで。なければハイネケンを」
「解りました」
女が小声で注文を告げる。
するとウェイターがすぐさまカートを押して戻ってきた。
女にはワインを、そして俺にはビールを注ぐ。
グラスを掲げる女に合わせ、視線を交わした後、口を付けた。
ボヘミアだ。
メキシコビール特有の軽い口当たり、しかし有名なコロナよりは苦みがある。
その苦みと共に思い出すのはいつかの潜入捜査でメキシコに行った時の事だ。
ボロアパートの一室で日本の夏とは比べものにならない熱気に汗を流しながら、ビール瓶を片手に向かいのアパートに住むターゲットの監視を続けた。
口に広がるのはその日々の熱い空気であり、メキシコ女の魅力的な尻のラインであり、逃走を図るターゲットの元マフィア幹部の男に吐きかけられた唾の不快感だった。
あの時、男の護衛を数名殺し、仲間を数名殺された後とあって、気分が恐ろしく高まっていた。
生かして捕まえろと指示されているターゲットを殺しかねないほどにだ。
路地裏の行き止まりに追い込んでさあやっちまおうと思った瞬間、唾を吐きかけられた。
男の唾は元から臭い上に、ついさっき食った昼飯のチリソースと混ざって最低の臭いを発していた。
普通のやつならキレただろう。
だが俺は逆に冷静になった。
俺は唾を吐きかけられて当然の人間である事を思い出したからだ。
俺は男の股間を蹴り上げ、仲間の車まで連行した――。
あの日以来、ボヘミアは俺を冷静にしてくれる。
だから頼んだ。
だが、銘柄を指定しなかった。
それは見極めたかったからだ。
ただ単にメキシコビールと言った俺に、一体何のビールを持ってくるのか。
コロナかも知れないし、テカテ、ソルかも知れなかった。
結果、目の前の女は何も聞かず、〝正解〟を当てて見せた。
この女はつまり、へまをして首を切られた諜報員ではなく、この俺――灰尾八雲に何か狙いがあるのだ。もちろん、その方が遙かに厄介だった。
試しに先手を取ってみよう。
「それであんた、どこの貴族のお嬢様だ?」
「おや、良くお気づきで」
女の形のいい眉毛がひょいと上がる。
驚いた様子ではある……が、演技にしか見えない。
「確かに私は貴族の出ですが、どうしてお解りになったのです? 私のプロフィールは存在しないはずですが」
――〝存在しない〟
この情報化社会においてその言葉はあまりにも恐ろしく聞こえた。
駅の女子トイレでひっそりと産み落とされた赤ん坊から、一流の殺し屋まで何らかのデータが存在する今、社会に個人を知られないという事は不可能に近い。
だと言うのに、この女は言い切った。
嘘にも冗談にも聞こえない。
きっと本当に、どれだけ調べても出てこないのだ。
事実、相当数の魔力を持った人間は全てチェックしている調査室のデータベースの中に、この女の顔を見た事はない。
つまり目の前の人間はとんでもない魔導師であると同時に、とんでもない権力者であるのだ。
俺は内心めちゃくちゃビビりつつも、素知らぬ風を装いながら答えた。
「カンだよ、カン」
「ご冗談を。あなたは閃きを重視する直感型ではなく、可能な限り多くの情報を集めて決断を下す理論型だと伺っています。何か確信を持っておいでなのでしょう? 車に乗った時に素早くシートの奥に手を伸ばしていましたね。そう、中葉重工の特別車両にのみ設置される非常用の脱出レバーを確認していたのでしょう? あの車は一般販売はしていない。どれほどお金を積もうとも、総理大臣だって買えはしない。中葉重孝という傲慢で哀れな老人の、これは貴い血を守るためだけの鉄のかごであるという世迷い言が、彼が死した今も守られているからです。貴族だけが持つ事の出来る車、だから解る」
女はじっと俺を見つめた。
その黒い瞳は俺の全てを見通しているようだった。
「しかし、あの車は中身こそスペシャルですが、外見はどこにでもある高級車。あなたは通常見えないところにある脱出レバーに気づいたのではなく、確信を得るためこっそりとレバーに触れた。これはつまり、車に乗り込むより前に私の正体をある程度把握していたという事です。会話や見た目では推し量る事など不可能、となればやはりあなたは私の魔力を――器具や薬品まで使用して死にかけの老人レベルまで落としたはずの私の魔力の、その本来の大きさを、魔法も道具も使わずに感覚で捉えた。魔力は血筋に由来する。故にあなたは並々ならぬ魔力を持つ私が貴族であるだろうと推測した……魔力感知。そういう特殊感覚をお持ちだとは聞いていましたが、まさかこれほどとは思いませんでした。素晴らしいです」
……笑えない。
かけた鎌を逆手に取られて、地面にねじ伏せられた。
何を質問しようがどう答えようが、この女から会話の主導権を奪う事は不可能だろう。
俺が色々なものを諦めかけていると、愉快なオモチャを見つけた幼子のように目をきらきらとさせた女は、ぐいっと身を乗り出すともったいぶらせるように唇を歪ませ、口を開いた。
「ここだけの話、私の元で働いていただき、私が満足する成果を残したのなら、あなたには封印されたその力を解放して差し上げるつもりなんですよ」
「封印? 何の話だ?」
俺が眉を上げると、女は肩すかしを食らったような顔をした。
「とぼけている……わけではないようですね。なるほど、力と一緒に記憶を封じられている訳ですか。お可哀想に」
「だから何の話だと言っている」
「つまりですね、あなたが灰尾八雲ではなく、〝佐伯丙芽〟であった頃の力を取り戻す事が出来る、という事です」
心臓がどくんと嫌な音を立てた。




