02
〝ファントム・ビューティー〟
そう名付けられたこの一件は、一部の者を除いて情報が伏せられる事になった。
大半の職員は近年最高の手柄を上げた調査室の若きヒーローこと、わたくし灰尾八雲がある日突然、何の理由もなく自主退職したと知らされた。
もちろん皆が驚愕した。
昇進してどのポジションに着くか熱く議論されていた男が、別れも告げず退職したのである。
事情を聞こうにも連絡先は全て凍結。
家はもぬけの殻だった。
さすがに課長に詰め寄る者はいなかったが、大勢の者が室長やチーフを問い質したらしい。
するとこういう答えが返された。
「一身上の都合だ。詳しくは話せない。仕事に戻れ」
何ともきな臭い。
しかし、日本の組織においては希に見るほど柔軟性に富んだ調査室であるとは言え、れっきとした縦社会であり、階級と権限がものを言う世界である。
皆言いたい事聞きたい事は山ほどあったろうが、上司にそう言われてしまうと為す術もない。
もやもやとしたままデスクに戻り、国内外の情報収集に専念した。
話はそれで終わり。
後にはただ灰尾八雲がどこかに消えたという結果だけが残った――課長は最後の電話で近況連絡としてそう教えてくれた。
貴様はもう過去の存在になったのだと、嬲るように言葉を重ね、連絡を絶った。
俺は沈黙した携帯端末を見つめ、ため息をついた。
かくして俺は無職になった。
十八の時からおよそ五年間務めた職場から放り出されてみると、想像していた以上の虚しさと心細さがあった。
状況は客観的に理解できるから怒りも憎しみも湧かない。
ただ呆然としている。
大海原で大型客船から一人海に投げ捨てられたような、そんな気分だった。
天涯孤独であるこの身の上、組織の一員であるという事がどれほど心強い事だったのか、今になってみれば嫌というほど理解できる。
ため息しか出てこない。
どこかに就職すれば気分も変わるのだろうが、それはおそらく……いやまず間違いなく無理だ。
例えば俺が〝真っ当なミス〟で職場を放り出されたのであれば、私物を詰め込んだ段ボール片手に本部建物から出た途端、いくつもの機関の人間が我先にと俺を食事に誘い、自分達の組織における待遇と特典について言葉巧みに売り込んできたはずだ。
このご時世、一年以上の現場経験を持つケースオフィサーは貴重で、もしかすると海外からのお呼びもあったかも知れない。
何であれ、放っておかれる事にはならなかった。
しかし、ファントム・ビューティーという俺個人のミスというよりほとんど天災に近いこの一件が俺の道の上で大岩のように立ちふさがる今、俺を雇おう等という組織は日本には存在しない。
重要機関には話がいっているだろうし、それ以外の組織も、明らかに何かやばい理由で退職させられた俺を、どうにかするはずもない。
むしろ小学生のいじめのように、近づいたら逃げられるだろう。
俺は今そういう立場にあった。
しかし、ないのは就職先だけではない。
帰る家もないのだ。
俺の調査員として働き出してから住みだしたあのマンションは、調査室の手によって封印された。
あの夜……俺が全ての元凶であるあの女と寝たその日以来、俺は一度も部屋に帰っていない。
部屋にあるものも全て、持ち出す事は出来なかった。
チーフにもらった高級万年筆からカーペットの上に転がる股間の毛まで、すべて調査対象物というわけだ。
課長にクビを言い渡された後、俺は素っ裸に向かれ、胃の中や尻の中に何か隠し持っていないか医学的に徹底的に調べられた後、下着や靴を含めた検査済みの新しい衣料品を与えられ、まとまった現金が入った財布と〝退職金〟が入った口座の暗証番号、カードを与えられ、最後に携帯端末を渡された。
調査員が持つ特殊な端末ではなく、民間で販売されているごく普通のものだった。
俺が今まで扱っていたものに比べれば、ハンバーガーのおまけについてくるオモチャだった。
思えば一般人になったというのを自覚したのは、その端末の軽さに愕然とした時だったのかも知れない。
無言で職員に出口まで見送られた俺は、本部建物からふらふらと外に出て、そのまま大通りに入って人混みの中に紛れ、当てもなく歩いて行った。
一番最初に目にとまったホテルにチェックインし、部屋に入るやいなや素早くかつ無意識にカーテンを閉めたところで、そうする事の無意味性に気づいた。
狙撃を警戒する必要はない。
何しろ俺は囮なのだ。
愚かな一般人になりきるべきだった。
俺は頭の中でホテルの構造と非常口の位置を確認するのを止め、無防備にカーテンをばっと開き、その勢いのままベッドにダイブした。
何も考えたくなかった。
眠気など欠片もなかったが、目を閉じ、己に暗示をかければ一瞬で眠りに落ちた。
が、どれほど長く眠れと自分に言い聞かせたところで身についた習慣は覆せず、半覚醒の状態で三時間ほど眠った後、俺はベッドの上で身を起こした。
虚しさは一眠りしても全く薄くなっていなかった。
それから六日間、部屋の中から一歩も出ずに、廃人のように過ごした。
七日目の昼過ぎ、ホテルのルームサービスの変化のない味付けが無性に苛ついた俺は、肩を怒らせながら早足にホテルを飛び出し、近くのハンバーガーチェーン店で適当に食い物を手に入れると、近くの公園まで向かった。
ベンチにどかっと腰を下ろし、未就学のガキ共やらその母親やら暇を持てあました枯れ木のようなジジババ共を眺めながら、チーズバーガーを食いあさり、Lサイズのコーラを飲み干した。
ポテトは鳩にくれてやった。
なくなってもしつこくクルックーなどとほざきやがったので、石ころをお見舞いしてやった。
悲鳴を上げて飛び去った鳩の無様な様子を馬鹿笑いしていると、平日の真っ昼間に公園でバーガーをかっ食らっている二十代前半のスーツ姿の男を訝しんでいたご婦人及びご老人方も、さすがにやばいと思ったのか、早々に引き上げていった。
公園に一人取り残された俺は、鳩を探した。
が、見つからなかったので空を見上げた。くそったれの曇り空だった。
――死のうか。
そう思った。
結局、大抵の人間にとってそうする事が都合がいいように思えた。
クラスSの精神魔導師に頭をいじくられた俺は、この先どうやっても誰にも信じてもらえない。
チーフのように、現状を把握した上で俺をかばってくれる人もいるらしい。
だが、それは有り難くはあっても、彼らにとって良い事ではない。
逆に彼らの人生にとって邪魔となり、障害となるだろう。
俺は俺を信じてくれる者の負担になりたくはない。
今ここで死ねば彼らは最初はいくらか悲しむだろうが、やがて忘れる事だろう。
あいつは残念だったななどと、酒の席で二三つぶやき、物思いにふける。
一眠りしたらまた朝が来る。戦いが始まる。
死ねばみんなのためになる。
しかし、どうにも舌を噛む気にはならない。
他人事の気分だった。
俺は曇天を見上げたまま、思春期の少年少女が思うように、次の瞬間世界が滅んでくれないかと考えた。
いい年した大人の、ついこの間まで一流の工作員だった男がだ。
常に現実的に思考し続けたそいつが、全てを失った結果、行き着いた先がそんなものだった。
何とも嫌な話、何とも皮肉な話だった。
仕事が欲しいなと、そう思った。
経験を生かした仕事は、後はもう海外のテロ組織の一員になるくらいしかなく、それはさすがに国に忠誠を誓った手前、選択できない。
だが、この業界にこだわらなければ働き口はいくらでもある。
収入には大してこだわりはないから、コンビニの店員や健全な意味での清掃員になるのもいいだろう。
働く内にそれなりのやりがいは手に入るはずだ。
プライドを捨て、ハローワークに行ってみる事にしよう。
今日は無職になって七日目。
一週間休んだのだから、明日の朝から就職活動に勤しむとする。
しかし今日までは、この虚しさに身を預ける。
再出発のために区切りを付けるのだ。
必要な怠惰、そう洒落込もう。
「仕事の方からやって来てくれれば有り難いんだけどなー」
しかしまあ、こんな弱った状況で仕事を持ってくるやつはまず間違いなく悪魔のたぐいに違いないから、放っておいてもらった方がいいな――等と、無人の公園でろくでもない事を考えながら、俺は半笑いで灰色の空を見上げた。
さっきより黒に近づいている。
これはそのうち雨になるぞと思っていると、ぽつりと降ってきた。
そのままあっという間に本格的に降り始めた。
身体が冷たく重くなっていく。
頬を伝う滴に、おいおいこれじゃ俺が泣いているみたいだと苦笑したその時、空と雨を遮るものがあった。
それは差し出された真紅の傘だった。
「失礼。風邪を引きますよ」
艶やかな女の声に視線を降ろすと、ベンチの前に人影があった。
得体の知れない微笑みを浮かべる、二十代後半か三十代前半の女――美形。
「ああ、もしかして今から雨に唄うところでしたか?」
それこそ女優のように様になった仕草で小首を傾げる女を、俺は凝視しつつも否定を返した。
「……いや、そんな気分じゃない。ただ動けなかっただけだ」
「そうでしょう。あなたの現状を考えれば、増水した川に飛び込みたい気分でしょうね」
「別にそこまでじゃないが……で、あんた俺に何の用?」
傘を俺に差しだし、雨に身をさらしつつも全く濡れていない女を見つめ、俺は静かにしかし一瞬で全身に魔力を行き渡らせた。
だが、肉体を魔法で強化し、最適な攻撃魔法の準備をしつつも、どうあがいても目の前の女に勝てない事を俺は直感と経験から理解していた。
目の前の魔導師はチーフや課長よりも遙かに上の化け物、次元の違う存在だった。
そしてその力を自らの意志によって何のためらいもなく行使するであろう事は、その目を見れば解った。
俺の命運は傘を差し出されたその瞬間に決まっていた。
しかし女はそんなそぶりは一切見せず、完璧としか言えないお辞儀を一つした。
「失礼しました。とある筋からの情報により、あなたが言われなき理由により先日失職された事を知りまして、私の元で働いてはもらえないかと、そう頼みに参った次第です。前もって連絡を差し上げたかったのですが、あなたの前の職場の方々が張り切っていらっしゃったので、タイミングが掴めませんでした。そのためこうして直に伺う事になりまして、申し訳ありません」
……これはまた。
どうやら本当に悪魔が来たらしい。
この女はごく一握りの人間しか知らない情報を知っており、さらには俺が全く感知できていない監視者を把握しているらしい。
それはつまり、調査室の上をいっているという事だ。
一体何者だ。
素性が全く解らない。
「……へえ、物知りな事で。それで、一体どのような仕事をご紹介いただけるんで?」
子飼いの諜報員か。
あるいは人質のたぐい……いや、俺にそんな価値はないと思うが……。
様々な可能性を頭の中で並べていると、女はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに笑みを深めた。
「あなたにはそう、とても夢のある仕事を手伝っていただきたいのです」
テロか。
連中はみんなそう言うし。
「つまりですね――」
政治的なやつか。
それとも宗教的なやつか。
何でもいいが、お断りだ。俺はこう見えても戦争は嫌いなのだ。他を当たって、
「我が学園の魔法先生になってもらいたいのです!」
ほらやっぱり。
ガ・クエンのマホ・センセーイ。
どこの宗教組織か知らないが、冗談じゃ――待て?
「……待ってくれ。今あんたなんて言った?」
ペンギンが空を飛んでいるのを目にしたような顔で、俺は女を見た。
すると女は気分を害した様子もなく、にこやかに台詞を繰り返した。
「灰尾八雲さん、あなたには我が学園の魔法先生になってもらいたいのです」
「……マジで?」
半笑いのまま固まる俺の前で、女は深く頷いた。




