01
昼前、トレーニングルームで汗を流していると、腕時計型の携帯端末に呼び出しが入った。
課長からである。
用件は記されていないが、至急オフィスに来いとの事だった。
心当たりはなくはない。
俺は二週間前の任務で大きな功績を挙げた。
簡単に言うと、国際的な大物テロリストを生かしたまま捕らえる事に成功したのだ。
相手が相手だっただけにこれは凄まじい成果で、アメリカやヨーロッパ、ロシアの諜報機関ですらもなし得なかった事だった。
日本の対テロ組織の有能性を諸外国に広めたと言ってもいい話だった。
もちろん、俺の存在もだ。
まあ、俺は確かに優秀な工作員である。
同期や同年代の連中とは比べられないほどの分析力、判断力、そして決断力を持っている。
くぐってきた修羅場は数知れず、奇襲を受けてチームが壊滅した時ですら、俺だけは生還し情報を持ち帰った。
俺の指導をしたベテラン教官は笑って言った。
「お前は魔法力は平均レベル、戦闘力は中の上、しかし生存力は最高だ」
先の大戦で敵国の要人を片っ端から暗殺して回った老兵はため息をつき、俺に似て傲慢で独りよがりなところが玉に瑕だがな――と続けた。
自覚はある。
幼少期の生育環境のせいか、俺はチームメイトであってもバディであっても、他人を信用できない。
十年の付き合いがあってもだ。
何かの拍子に自分を裏切るのではないかと、常に疑っている。
もちろん、仕事を円滑に進めるためそういう面は表に出さない。
信用してると相手に思わせている。
同僚は皆人を騙すプロであるから、看破されている可能性は高いだろう。
だが、みんな何も言わない。
それは多分あちらも同じだからだろう。
真人間にはこの仕事は無理だ。
工作員は人ではない。
それがこの職場に来て知らされる最初の真実だからだ。
俺が大手柄を上げた前回の任務も、全てを疑ってかかったからこそ成功した。
人としてはどうかと思うが、我々〝調査室〟にとっては最高の結果である、かの重要参考人を引き渡した後、普段はにこりともしない室長もチーフもデスクの一番下の引き出しから高級酒を取りだし、俺にグラスを持たせると溢れるほどに酒を注いだ。
一気に飲み干すと同僚達は一斉に拍手し、口笛を吹き、俺の肩を乱暴に叩いた。
そこからは朝まで宴会が続いた。
最高とまでは言わないが、悪くない気分だった。
酔いつぶれる寸前、室長は俺の実力を褒め称えた後、大きく頷いて、「これは昇進間違いなしだな」と言った。
だから多分、この呼び出しはそういう事だろうと思う。
至急との事で、シャワーで汗を流す暇もなく、タオルでざっと身体を拭いた後、スプレーを吹きかけて服を着る。
早足で更衣室を出て、課長の待つ最上階のオフィスへと向かう。
途中、廊下で他の職員とすれ違う度に賞賛をもらった。
女性職員からは熱っぽいウィンクも投げられた。
場合によってはハニートラップをしかける事もある女達である、様々な系統の美形揃い。
人間不信であるとはいえ、俺も健康な二十代の若い男である、無意識に顔が緩んだ。
課長室に着く。
扉をくぐると、女性秘書が顔を上げてこちらを見た。
その視線が俺の顔を捉えた瞬間、秘書の顔に一瞬動揺が走ったのを俺は見逃さなかった。
驚愕と哀れみの色である。
とてもこれから昇進を言い渡される者を見る目ではない。
俺は反射的に肩につった拳銃に意識を移しながら、口を開いた。
「課長の呼び出しで来ました」
「お待ちです。どうぞ中へ」
「はい」
やり手で有名な女性秘書はいつもの能面で淡々と告げると、手元の書類に顔を戻した。
俺は一瞬この場を立ち去るべきかどうか迷ったが、結局課長の待つドアへと向かった。
扉をノックする。
「入れ」
「失礼します」
扉を開け中に入ると、課長が真っ直ぐに俺を見つめていた。
髪を短くした三十半ばの美女である。
調査室の職員達から、繋がりのある政府関係者達から〝冷血〟と影で呼ばれるだけあって、その整ってはいるが温もりの欠片もない顔を向けられるとさすがの俺も生きた心地がしなかった。
嫌な予感がする今は尚更である。
身体が硬直しそうになるのを呼吸を深くする事で抑え、課長が待つ部屋の中央へと向かった。
気をつけの姿勢を取る。
「座れ……と言いたいところだが、用件は手短に済む。立ったまま聞け」
「はっ!」
「まずは先日の任務、改めてご苦労だった。複雑な作戦を極めて高度にこなし、標的の確保を成功させた貴様の能力は賞賛に値する。良くやった」
「はっ! ありがとうございます!」
胸を反らしながら、内心で次に備える。
なぜなら「まずは」でいい話が出た以上、次に来るのは良くない話であるはずだったからだ。
そしてその予感は的中した。
「しかし」
……ほら、来た。
「しかし、問題が一つある。大きな問題だ。先日貴様があげた成果を最高とするなら、この問題は最悪と言っていい。むろん、貴様が原因の問題だ。心当たりはあるか?」
槍の穂先のように鋭い課長の瞳が、刺し殺さんとばかりに下から突き上げられる。
形式として目を合わせず正面を見ている事が、これほどありがたかった事はない。
無意識に唾を飲み込みながら身体に力を込める。
「ありません!」
「そうか。そうだろうな。貴様は何も知らない……何も覚えていないだろう」
課長は視線をこちらから外すと、机の上に這わせ、忌々しげにため息をついた。
「昨夜、ピレーマというバーで飲んだ事は覚えているか?」
「はっ! 同僚五名と飲みに行きました!」
「その通り。貴様達六人は一時間ほど酒を楽しんだ後、解散した。貴様はバーから自宅のマンションへと帰る途中、足をくじいた女性に遭遇した。それは覚えているか?」
――足をくじいた女性?
頭の中でそう呟いた瞬間、映像がぱっとフラッシュした。
ショートカットの髪を茶色に染めた、ヒールを履いたOLの後ろ姿。
しかし記憶はない。何も思い出せない。
「どうした? 覚えているのか?」
「いえ、その……記憶はないのですが、映像が一瞬頭に浮かんだというか……これはまさか」
「そうだ。魔法で記憶を操作されている。通常なら完全に記憶は消去されているところだが、お前は優秀だ。高度な対精神操作の訓練を受けているため、消しかすがいくらか残っているのだろう。最も、あまり役には立たなかったようだが」
課長の言葉に目を見開く。
その通り、俺は対精神操作の訓練を受けている。
詳しく言えばクラスAまでの術者相手なら自意識を保つ事が出来る。
つまり大抵の精神系魔導師相手なら、例え幻術で五感を騙される事はあっても、肉体や意識を操作されたり記憶を改ざんされたりする事はない。
事実、様々な任務の中で遭遇した精神系魔導師を、俺は軽くあしらってきた。
その俺がだ。
ほとんど完全に記憶を操作され、今の今まで異変に気がつかなかった。
それはつまり、相手が尋常ではない使い手――すなわちクラスS以上の化け物であるという事だった。
「……何者ですか、そいつは」
「解らん。候補はいくつか挙げているが、特定には至っていない。把握できているのは、世界トップクラスの魔導師であるという事。そして我々を馬鹿にしくさっているという事だ。通行人は誰もその女を覚えていない。だが街中に設置された監視カメラにはその姿が残っている。これだ」
課長は手元の端末を操作し、俺の方に映像を表示した。
そこに映っていたのは楽しげに会話する俺と女だった。
美人だがどこにでもいそうな、記憶に残りにくい顔だった。
「カメラにはわざと姿を残したんだろう。これほどの腕だ、電子記録を改ざんする事など朝飯前だろうからな。お前のマンションの守衛はお前が一人で帰ってきたと言っているが、入り口に設置されたカメラにも女が映っている。ほら」
映像が切り替わる。
映っているのは親しげに腕を組んだ男女……俺とその女の姿だった。
「何ですか、これ」
「操られたのか、そうでないのか。お前はいたくこの女を気に入ったらしい。この後の展開は読めるだろう?」
再び映像が切り替わる。今度は動画だった。
映し出されたのは俺の部屋の隅々に設置されたカメラの映像だ。
今まで表立って言われた事はないが、ここで働く全ての職員の家がリアルタイムで監視されている事は公然の秘密だった。
だからそれについては何も思わなかった。
動揺したのはそこに映っていた光景にだった。
「んな――!」
「ベッドの上でもお前は優秀らしいな。この女の喘ぎ声、とても演技とは思えない。本気で感じているな。お前は計四回、しっかり避妊をしつつ三時間近く楽しんだわけだ。大したものだよ。お前はハラがすっからかん、相手はハラいっぱいになったらしい。何なら早送りしてピロートークも聞くか? ん?」
視線が鋭さを増してきたその時、俺はようやく課長がポーズではなくマジできれてる事に気づいた。
目が据わっている。
気づけば状況は最悪になっていた。
課長は連続猟奇殺人犯のサイコパスよりもぎらついた瞳で俺を見つめながら、一言一言刻みつけるように声を放った。
「正体不明の、クラスS以上の精神系魔導師の接触を受け、記憶を改ざんされた工作員。偶然にもそいつは二週間前に国際的に見て最重要なテロリストを捕獲した。十四日間はヒーロー扱いされたそいつが、この一件でどういう処遇を受けるか解るか? ケースAでは両者に関係はほとんどなく、たまたま楽しく性交したという話。ケースBではその工作員はあるべくしてテロリストを捕獲したという事――すなわちずっと前からかの魔導師に操られていたというもの。最悪のケースCではその工作員は最初から我が調査室の敵対勢力のメンバーで、様々な案件に水面下で介入していたという事。最悪の事態を想定して行動する上層部がどう捉えたか解るだろ? 即刻対象の工作員を取り押さえ、薬漬けにした挙げ句ありとあらゆる方法で情報を一つでも引き出す――そういう事だ。つい先日まで新しい部署のチーフに据えようという話をしていた連中は、同じ口でそいつを干物にした後、きっちり処理しろと言っている」
「……」
身に覚えはないし、自分に非があるとも思えない。
俺は言うまでもなく被害者だった。
しかし諜報機関においてそんな言い分は通用しない。
不条理だろうが何だろうが、リスクは確実に減らす。状況を冷静に見れば当然の判断だった。
そう、どうあがいても俺の死は必要不可欠だった。
「――言葉もないか。だが安心しろ。室長も現場チーフも自分の首をかけてまで貴様はシロだと言い張っている。私は貴様の事を書類上でしか把握していないが、あの二人の事は信頼している。間違っても情に流される人間ではない。願望ではなく冷静かつ客観的に判断した結果、貴様は我が組織、我が国に忠誠を誓った一人の戦士だと主張したのだ。現場チーフに至っては、貴様が上層部の望むように処理されるのであれば、自分は敵対組織に身を売るとまで言った」
「チーフが……」
ふってわいた最悪の災難に絶望しつつも、どうやって調査室から逃走するかを必死に考えていた俺は、課長の言葉に思わずその思考を停止した。
顔を上げると、いくらか目つきを柔らかくした課長がため息をついていた。
「やつは貴様とは違って替えの効かない人間だ。さすがの上層部も思いとどまらざるを得なかった。殺処分はなしになった。これはこのヤリマン魔導師の狙いが不明で、現時点では何の影響も出ていない事が大きかった。貴様は長官を暗殺してはいないし、極秘情報にアクセスしてもいない。まあどちらも、一職員に過ぎない貴様にはどうあがいても不可能な話だが。とにかく、今すぐに拘束され殺される事はなくなった。だからその凶悪で無謀な思考は捨てろ。私がその気になれば貴様は一瞬で灰になるんだからな」
……お見通しだったか。
強力無比な魔導師として国内外に名が通る課長である、今の台詞は誇張ではない。
俺は瞬きを一度して意識を切り替えた。
「失礼しました。混乱と緊張による気の迷いです。決定に逆らうつもりはありません、大人しく身を差し出します」
「気の迷い? そんな目をしといてよく言う。混乱も緊張もしていないくせに……まあいいさ。とにかく、今は調査室総出で貴様の関わった案件全ての洗い直しを行っている。無理だとは思うが女の捜索もな。本来なら貴様には重要参考人として協力をさせるところだが、貴様がどこまで頭の中をいじくられたか解らん以上、それは不可能だ」
「では長期間にわたる監禁と尋問ですか?」
「通常ならな。だが相手はSランクの精神魔導師、猫の手どころか蛇の手すら借りたい今、貴重な人員を割いて無駄骨を折るのも馬鹿げてる。何をどうやっても確証はなし、貴様はアンノウン――灰色のままだ。つまり、シロだと証明する意味はない。危険性は最高レベル。貴様が私ならどうする?」
挑むような課長の目に、俺は間髪入れずに答えた。
「泳がせます。課長がおっしゃったとおり、私も例の魔導師はわざと記録を残したのだと思います。大抵の事を誰にも気づかれずに行う力を持ちながら、わざとこのような事態にした。ハッカーのような単なる能力誇示目的でなければつまり、彼女の力を持ってしても現状では達成できないほど困難な目的を遂行するため、陽動として行ったと考えられます――狼は一匹の牧羊犬に狼の毛皮をかぶせた。犬たちの注意が囮に向けられている隙に、羊の小屋を襲うつもりでしょう。ならば自分達が今目をそらしかけているもの、今まで目を向けていたものが何なのか、把握する必要がある。しかし狼は透明で姿が見えない。囮の犬を牧場の外に出し、遊ばせる事で、狼に繋がる情報が何かでないか、つぶさに観察する……そう判断します」
課長はじっと俺の話を聞いていたが、やがてやる気なさげに拍手をした。
「正解、正解。Bプラスを上げよう。その通り、私も上層部もこれは大きな岩を動かすための穴掘りだと考えている。この業界、我々は常に先手の先手を打たなければならないというのに、後手に回った。しかも相手の初手は意味不明で、我々は打つ手がない。現状、何の情報もない。接点は唯一貴様だけ。しかし身内に置いておくには危険、となれば外に出すしかない。正解だ。だが、貴様には大きな間違いが一つある。だからAはもらえない。なぜだか解るか?」
課長はゆらりと立ち上がったかと思うと、凄まじい速さで腕を伸ばし、俺の胸ぐらを掴んだ。
女とは思えない力強さで俺を引き寄せると、鼻が当たりそうな距離で俺を見つめた。
「貴様は狼ではないかもしれんが、牧羊犬でもない。どれだけ訓練し経験を重ねても、番犬にはなりきれなかった。貴様の本質はここにきた時のままから変わっていない。おもしろ半分に社会を敵に回した十二歳のあの時からな。貴様は羊ではなく犬ではなく狼ではなく、頭のいかれた一匹の狐だ。私はそれを知っている」
手が離される。
鼻を鳴らし椅子に戻る課長を呆然と見つめながら、俺はふと十年前の事を思い出した。
刺激的で享楽的で刹那的だったあの日々、あの快感。
今の今まで思い出さないようにしていたその味が一瞬舌の上によみがえり、思わず唾を飲み込んだ。
――違う。俺は変わった。俺はもうあの時の俺ではない。ちゃんと〝人間〟になったんだ……。
「監視は選りすぐりの者を付ける。海外には行けないが、後はまあ好きにやってくれて構わない。家は引き払ってもらうが、金の心配はいらんから大丈夫だろう。日本全国どこでも行けばいいさ。旅行なんてしたことないだろう? 楽しむといい。ただのバカンスだ。せいぜい囮としての役割を果たしてくれ。と言うわけで」
課長は悪魔のような笑みを浮かべ、
「お前はクビだ」
楽しげにそう告げた。