1.10
空を割る雷鳴。
一瞬訪れた静寂を、猛り狂う暴風の咆哮と地面を抉るほどに叩く雨音が跡形もなく押し流す。
這い寄る冷気が私の足下で蜷局を巻き、湿った息を吐いた。
今にも吹き飛びそうな木造家屋の振動と、殴られたのかと錯覚してしまうほどの怒濤の音圧に、私の心臓は縮み上がる思いだった。雨の勢いはこの家さえ押し潰しかねないほどで、雷鳴は空の果てから地底の奥底までの全てを一瞬で瓦解させたかのような大音量をもたらす。その猛威は家の壁を軋ませ、その衝撃は不安の波となって私に押し寄せる。
経験上、明日の私はこの荒々しい天候こそが透き通るような快晴をもたらしたのだと実感するのだろうが、それを知った上でも今この雷鳴と雨音を聞いている身としてはとても信じられない。
私は寝るに寝られず、暖炉のそばに椅子を持ってきて座り、眠気の訪れを待っていた。雷鳴と雨音の奔流が屋内を満たす中で、聞こえるはずもない、暖炉の火が爆ぜる小さな音に耳を澄ませる。
しかしふと、それらの中に家の戸を激しく打ち付ける音が混じっていることに気が付いた。
誰だか知らないが、こんな大雨の日に外を出歩くとはよほどのことが起こったに違いないと思い、私はすぐに立ち上がって玄関口へ向かう。
戸が乱暴に叩かれている。やはり聞き間違いではなかった。
大雨の中、戸を全開にするわけにもいかないので私は戸を半開きにした。それでも冷たい風と雨粒が勢いよく内へ吹き込み、より一層強まった雨音に鼓膜は痺れ、その音圧を稲光の連れてきた轟音が一瞬で打ち破る。家の中の僅かな明かりと、しばしば落ちる雷が放つ閃光が、開けた戸の先の訪問者を照らし出す。
そこにいたのは、人でなかった。いや、正確には人の形をしていて背丈は私と同じくらいだ。しかしそれは目のあたりに四角い穴がいくつも並ぶのみで顔が無く、頭部や肩、足腰に異様な突起や凹凸がついた、鉛か何かの金属らしき硬そうな外殻を全身に纏った何かだった。
稲妻に照らされた陰で暗黒色に染まったそれが、半開きにした戸の向こうからこちらをじっと覗き込んでいる。
後悔と恐怖で血の気が引いた。人外の呼びかけに対して門戸を開いてしまうなど自殺行為、いやそれ以上だ。死より残酷な運命が待ち受けているか、あるいは私の命にとどまらず家族にまで魔の手が及ぶかも分からない。焦燥に駆られた私は、とっさに誰何した。
「誰だ?」
しかし目の前の不気味なそれは黙して語らず、手先を自分の首元へやり、そして腕を動かし、開いた戸の隙間から私の方へとその腕を伸ばし――
私が平静を保てたのはそこまでだった。
叫び声を上げながら飛び起きたのは寝台の上だった。
あたりを見渡せば少し薄暗いものの、窓から朝日が漏れ出ている。私の隣では息子が寝息を立てていた。
荒い息を整えながら起き上がる。服が寝汗で体に張り付いて気持ち悪い。
居間へ向かえば、いつも通り朝食を作る妻の姿があった。
「……おはよう」
「おはようございます。随分うなされてましたね」
彼女は調理場で食材を切っているようで、私に背を向けている。
「悪夢を……」
テーブルを見ると、燭台が置かれており、蝋燭は使い切った後だった。
「あっ、そうだ。あなた昨日蝋燭をつけっぱなしにしたまま寝たでしょう。無駄遣いはやめてくださいね」
少なくとも昨晩寝付けずに起きていたことは現実ということか。
会話をしている間も彼女は料理の手を止めない。
「なあ、聞きたいんだが……昨晩誰か訪ねてこなかったか?」
「寝ていたのでなんとも……」
「そうか」
嵐の夜でも寝付けるなんて羨ましい。
「ところで……私たちが初めて出会った場所はどこだったかな」
「えーと、私が子供のときに私の家が取り壊されて、これから新しい家に移るというときに、これからお隣さんになる人に挨拶に行こうということで私の両親に連れられて、そこで初めてあなたに会ったから、まさしくこの場所がそうですけど――」
そこで初めて彼女は手を止めてこちらを振り向いた。今更なぜそんな当たり前のことを聞くのかとでも言いたげな表情だった。
「――それがどうかしましたか?」
「……いや、いい。何でもない」
大丈夫、いつも通りの妻だ。
私は胸をなで下ろした。そんな私を見た妻は、不思議そうに首をかしげてから再び料理を始めた。
土地柄、この村によそから旅人が来訪することはあり得ない。悪魔や怪物は童話の中でしか見たことがないし、今まで村で行方不明や怪死事件があったなんて話は聞いたことがない。しかし、あれがやけに現実味のある悪夢だったとして、嵐の晩に嵐の晩の夢を見るなんて偶然があるものだろうか。
不安を拭いきれないまま、私は顔を洗いに外へ出る。だが今日はいつもより戸の立て付けが悪い。力を込め、勢いをつけて何度か体当たりすると何かが割れる音とともに戸が開いた。
「何、なんの音?」
顔をのぞかせた妻は戸の鍵を、より正確に言えば鍵の閂の部分に当たる板が割れているのを見て眉をつり上げた。
「ちょっと!この前せっかく取り付けてもらったのに何ですぐ壊すのよ!」
いけない、昨晩はろくに眠れなかったせいでぼんやりしていた。
「ああ、鍵をつけたんだっけ。忘れていたよ……どおりでなんか開かないなと……」
「開かないからってどうして無理矢理開けようとするかなぁ……信じられない。それでこれ、どうするのよ」
「そんなに怒らなくても。後でちゃちゃっと直しておくから」
「あなたその鍵を取り付けるときに自分でうまくいかなかったからダルクさんに頼んだんじゃない。これくらい簡単にできるって自信満々だったのに何回やり直しても錠前が噛み合わなくて……おかげで戸の縁がガタガタになったの、忘れたの?」
説教を聞くのもほどほどに、顔を洗いに外へ出る。起床して早々に小言を言われる羽目になるとは。
井戸へ向かう道すがら、遠くに数人の村人が集まって話しているのを見かけた。いつもと変わった様子はない。
昨晩のことが夢でないなら、あの怪物が私以外の家の戸も叩いてそれが噂になっているかもしれないと思ったが、やはり思い過ごしだったか。
顔を洗って家に戻るとき、ふと私は地面に目を落とした。もしや家の前の道に明らかに人間のものとは思えないものの足跡が、などと考えてのことだが、そもそも昨晩の大雨で足跡が残っているわけがなかった。
家に戻ると妻が朝食をテーブルへ運ぶところだった。献立はいつもどおり、根菜と芋を煮たものだ。
私は息子を起こしに寝室――もっとも、この家には玄関に居間、調理場や寝室の境界を区切る壁や扉が無いので、部屋などあってないようなものだが――へ赴く。
今日も相変わらず口を大きく開け、掛け布団を端へ押しやり、大の字で眠っているこの少年は今年で十三歳になる。少し前まで小さな赤子だったというのに、今や私の言うことなど聞く耳持たない生意気なわんぱく小僧になってしまった。怒鳴られようが顔色一つ変えず、昨晩の嵐なども気にもとめていないようで、今も気持ちよさそうな寝顔を見せている。肝が太いのか鈍感なのか。羨ましい。
「おい、起きろ。朝だぞ」
息子は大きく口を開けている。
「嵐でさえおまえの眠りを妨げることができないとはな」
耳を引っ張っても唸るだけで起きない。
「だがその嵐は良いものを用意してくれた」
寝台のそばの窓を開け放つ。嵐の後で雲一つない快晴がもたらす明るい朝日が寝室全体を一気に輝かせた。その柔らかくも輝かしい光は、普段の日差しと比べて格別で、この点においてのみ、私は嵐を完全なる害悪と断ぜずにいる。
差し込む日差しを受け、息子はそれを予知していたかのような動きで毛布の中に逃げ込む。だが、それは予測済みだ。
いつもならここで素早く毛布を引き剥がすのだが、悪夢を見たからか、息子が悪魔にでも取り憑かれているのではという突拍子もない不安が、私の頭をよぎった。
杞憂だとは思うが、間近でよく見てみるか。
窓を開けてすぐに振り返る流れで息子に覆い被さるようにして腕を押さえ、毛布をかぶろうとする動きを阻む。
「んがっ、がぐごあああ……」
「またそんな断末魔をあげて、おまえは日光を浴びたら死ぬ怪物か何かなのか?」
息子は眉間に皺を寄せ、目を固くつぶり何度も首を振って嫌がるような素振りを見せたが、それでも取り押さえ続けるとやがて観念したのか薄く目を開けた。それを見てから私は拘束を解いた。
内心、目を開けたときに人ではない異形の目でこちらを見つめてきたらどうしようかと気が気でなかったが、そんなことはなかった。口を半開きにして眠そうな間抜け面を見て安心した。
本気で心配したわけではないが、少なくとも家族は全員変わりないようだ。
「目が覚めたか?さっさと顔洗って戻ってこい。もう朝飯できてるぞ」
それからはいつも通り息子の身支度を待ってから家族みんなで朝食をとった。各々の咀嚼音と食器類の擦れ合う音がするだけ食卓。これといって会話もしない。たまに息子が肉を所望して、私が相づちを打ち、妻がそれをたしなめるくらいだ。
朝食を食べ終える頃には悪夢のことも頭から離れて、いつもの調子が戻ってきた。妻は今日は備品整理の仕事をしに村の共用倉庫へ、息子は外へ遊びに行った。
私は外へ出て、すがすがしい空気を吸い、朝日を浴びる。この村の空模様はほぼ毎日曇天なので、こういった朝は貴重だ。
満足いくまで堪能した後、納屋へ行って畑仕事の準備をする。といっても、これからの数日間は嵐で荒らされた場所の復旧に費やすこととなるだろう。農作業を進めるためにも手早く終わらせよう。
支度を調え、私は畑へ向かった。




