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悲しみの人魚は黄金の瞳に囚われる  作者: 水野沙彰


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2-4

「ヴァン、様……?」


 セレスティアは白い光の中に、ヴァンの姿を見た。ヴァンはセレスティアの手を両手で握って、祈るように額を寄せている。セレスティアの声にゆるゆると顔を上げ、目を丸くした。

 しかしセレスティアは寝台の中で眠っていた筈だ。会いたいと思ってはいたが、まさか本当にこの場所にいるとは思えなかった。


「──ヴァン様、お会いしたかったです」


 セレスティアの手を握る手は熱く、固い。指先に少し力を入れると、ぴくりと小さく表情が動いた。随分と良い夢だと、セレスティアは思う。


「セレスティア……」


 眉を下げて名前を呼ぶ声は密やかで優しく甘い。その声音にやはり夢だと確信し、ゆっくりと目を閉じた。消えるところを見たくなかった。


「本当に素敵な夢。──私、ヴァン様にお礼が言いたかったのです。ありがとうございます。私に……ここを与えてくださって」


 セレスティアの素直な感情だった。暖かい場所と優しい人達。セレスティアは自身に与えられたそれらに感謝していた。しかし同時に、何も言わないヴァンに対して何とも言えない小さな不満も抱えていた。

 夢だと思えば、素直な言葉も出てくる。現実では口にできない、我儘なセレスティアの本音さえも。


「ですが、貴方は狡いです。何も教えてくださらないの……そのお名前さえ」


 目を閉じているセレスティアには、手の感触しか感じられない。しかしヴァンの指の力が抜けていって、セレスティアの手から離れていくような気がした。慌てて指に力を入れてそれを引き止める。夢の中でくらい、その幸福で切ない温もりを失いたくはなかった。


「──シルヴァンだ。私の名前は、シルヴァン・アンテノール。貴女の大嫌いな、ベルナール・アンテノールの……末の弟だよ」


 不意に耳元で囁かれた言葉は、夢にしては酷く現実的だった。今度こそ手が離れ、セレスティアは一人夢の中に置いていかれる。寂しさの後すぐに感じた穏やかな暖かさが、また意識を遠くへと向かわせた。





 シルヴァンはばたばたとセレスティアの部屋を飛び出した。乱れた足どりだったが、一欠片残った理性がシルヴァンに扉をゆっくりと閉めさせる。

 セレスティアは夢だと思っているだろう。シルヴァンの言葉も名前も、目が覚めたら忘れているかもしれない。それで良かった。今日のことを忘れていてくれれば、シルヴァンの存在もきっと忘れてくれる。しかし名乗ってしまったということは、シルヴァンにはまだ未練があったということだ。艶やかな肌に、細く柔らかな手に、そしてロザリーから聞くセレスティアの努力に、どうしても心動かされずにはいられない。


「──シルヴァン、なんですか。淑女の部屋を訪ねておいて、その無作法な足音は」


 ロザリーが廊下の向こうからつかつかと歩いてくる。シルヴァンはそれに構わず、扉と反対側の壁に寄りかかった。


「申し訳ありません、お祖母様。ですが──」


「あの子は眠っているのよね?」


 言葉を最後まで聞くことなく、ロザリーはきっとシルヴァンを睨む。歳をとってもなお衰えないその眼力は強く、シルヴァンの言い訳を意味のないものにした。


「はい。無理を言って申し訳ありませんでした……」


「そう、なら良いけれど。シルヴァン、貴方はあの子をどうしたいのですか」


「どうしたい、とは」


 鋭く確信を突かれてどきりと胸が鳴る。シルヴァンには分かっていた。自身の矛盾と、セレスティアの不安定さが。


「あの子に会わないと言っておいて、こうして顔を見に来るなんて、貴方らしくありません。ましてあの子は、パントゥス王国の王族の生き残りなのでしょう? シルヴァン、貴方は知っていたのですか。その立場が、今後のあの子の人生にどのように付き纏うかを」


 それを知ってここに来たのだが、それを言ってもきっとロザリーは納得しないだろう。シルヴァンは目を伏せた。誤魔化しが効かないことは、もう分かっている。


「私は、彼女に幸せでいて欲しいと思ってます。だから……私にできることなら、何でもしたい。でも、今の私の持つものがセレスティアにとって良くないものだということも、充分に分かっているつもりです。──お祖母様、お願いします。どうか彼女を守ってください」


 そのまま姿勢を正して深く頭を下げる。シルヴァンにとって、今頼れるのは実母の生家であるフランクール伯爵家だけだった。シルヴァンの母は今も昔も、シルヴァンに興味などないのだ。シルヴァンにとって、それは今更感傷に浸ることもないただの事実だった。しかしフランクール伯爵家の者は違う。騎士の家系の彼らは、情に厚く、一度懐に入れた者は決して裏切らない。そしてシルヴァンのことも、育児放棄をした母の代わりに、孫とはいえ実の息子のように育ててくれた。


「嫌です。私達はあの子に自由を与えますよ。それでも守りたいのなら……シルヴァン。貴方が守っておやりなさい。そうできるだけの何かを選んでから、あの子を選ぶと良いわ」


 シルヴァンの頭上からかけられたその言葉は、シルヴァンにとってはあまりに痛いものだった。今の自身に至らないものを全て突き付け、更に未来の選択すらも迫っている。

 シルヴァンには、無言のままそれをやり過ごすことしかできなかった。ロザリーもまたそれを知っていて、それ以上何かを言うことはない。無言の廊下に、シルヴァンの心臓の鼓動の音だけが強く響いていた。

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