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それからしばらくして、華やかな衣装に身を包んだ女が部屋にやってきた。皺の目立つ肌と、白髪だが綺麗に整えられた髪。その見た目は優雅で、立ち姿は年齢を感じさせない程に凛々しい。きっとこの人がこの家の奥方だろう。セレスティアが立ち上がって挨拶をしようとしたが、女は片手でそれを制した。
「座ったままで良いわ。まだ足が不自由なままでしょう」
口を開けばしっかりとした印象だ。
「……ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
セレスティアは頭を下げる。女は首を振ってその言葉を否定した。
「孫の我儘を聞くのが年寄りの務めです。ましてあの子、滅多に我儘を言わないのだもの。貴女の気にすることではないわ」
女はそう言い切って、セレスティアの座るソファの向かいに腰を下ろした。セレスティアは顔を上げて正面からその姿を見る。こちらに向けられた目はまっすぐで暖かかった。白髪の中に僅かに緑が混ざっていて、その色にはっとさせられる。女はヴァンの縁者なのだろうか。
「私はロザリー・フランクールと申します。フランクール伯爵家当主の妻で、貴女をここへ連れてきた男の祖母に当たります」
「ご丁寧にありがとうございます。私は、セレスティア……」
セレスティアはそれ以上名乗ることを一度躊躇った。しかし気を取り直し、姿勢を正す。
「──セレスティア・パントゥスと申します」
この名を名乗るのはいつ以来だろう。少なくとも国が滅んでしまってから、一度も名乗っていないのは確かだ。名前に国名を用いているのは、どこの国でも王族だけだ。それは自らをパントゥス王国の王族であると名乗ることと同じだった。ベルナールは知っていたのだろうか、セレスティアにも分からない。端に控えていたテレーズが息を飲んだ。ロザリーもまた目を見張る。
「貴女は……いえ、そう。分かりました。明日の朝には鍵師を呼んでいます。その足の忌わしい枷を外してもらいましょう。それと、旦那様も明日戻りますから、一緒に挨拶しに行きましょうね。──これから何を学び、どう生きていきたいのか。ここでゆっくり考えなさい」
「え……」
セレスティアは思いもしない言葉に驚き、瞬きをした。どうしたことかと驚きが隠せない。
「どうしたの?」
「あの、私は……何をすれば良いのですか」
これまで、どうしたいかなど聞かれることは無かった。セレスティアの意思は置き去りのまま、ただ泣くことを強いられてきたのだ。今のセレスティアがどんなに考えても、自身の意思など思いつかない。
「そんなこと、私に聞くことではありませんよ。これからは貴女の人生も選択も、全て貴女のものです。行ってみたかった場所に行くのも良いですし、何か学びたいことがあるのなら我が家が力になります。ねえ、それが自由というものよ」
ロザリーはセレスティアの姿を上から下までまじまじと見て、眉間に皺を寄せた。そして言葉を重ねる。
「でもまずは……そうね。貴女には、運動が必要だわ。講師を呼びますから、自分で歩けるようになりましょう。そうしたら、きっと世界が広がりますよ」
そしてロザリーは、優しい微笑みを浮かべる。
「ありがとうございます……私、どうお礼をして良いか……」
心が何か柔らかなものに包み込まれたようだった。目が熱くて、頬が火照る。流れる涙を嬉しく思ったのは、いつ以来だろう。ぽろぽろと溢れた涙が、膝に落ちて床に転がっていく。ああ、見せてしまった。セレスティアがそう思った、そのとき。
「あら、あの子の言ってたことは本当だったのね」
立ち上がったロザリーが、腰を屈めてその真珠の一粒を拾い上げた。じっと真珠と向き合う目は、真剣そのものだ。セレスティアは審判の時を待つように押し黙った。
「──本当。不思議だけど、純度が高い素敵な真珠だわ。貴女の耳飾りにでもしましょうか?」
「え……?」
「首飾りも良いわね。きっととても似合うわ。貴女、肌が白くて滑らかだから。ああ、でもあんまり泣いちゃ駄目よ。良い? 女はね、涙は大事なときの為にとっておくの」
真面目な顔で言うロザリーは、本当にそれしか考えていないような顔で言う。これまでセレスティアを所有してきた者達は、実際に真珠を見ると目の色を変えていた。そして、セレスティアに泣くことを強要してきたのだ。しかしロザリーのこの態度は何だろう。真珠などいらないと言わんばかりの、セレスティアを想ってくれているような、この態度は。
「あの……これ、いりませんか?」
セレスティアは膝の上に転がったままの真珠を持ち上げた。ロザリーはくすりと笑う。
「私が? そうね、いらないわ。だってそれは貴女の涙だもの。それをどうするかは、貴女が決めなさい」
「そういうもの……ですか」
セレスティアもつられて小さく笑う。
「ええ、そうよ。それが自由よ」
「自由……」
「焦らなくて良いわ。ゆっくり考えましょう」
「──はい」
ロザリーはセレスティアの手をそっと握った。年齢を感じさせる手の甲に、握る手の確かさに、セレスティアは強く憧れた。
ヴァンの祖母だと言うロザリー。ではヴァンはこの家の孫──フランクール伯爵家の孫なのだろうか。そうだとしたら、その優しさにも暖かさにも納得だ。こんな家庭で育ったから、優しく、強く育ったのだろうと、セレスティアは思った。
「今この家にいるのは、私達夫婦と貴女だけよ。娘は嫁いでしまっているし、息子は遠方に出ていて半年は戻らないわ。だから気にしないで過ごして頂戴。──ふふ、新しい孫ができたみたいで嬉しいわ。ね、テレーズ」
「ええ。そうですね、奥様」
部屋の端に控えていたテレーズが何度も頷いた。
「──嬉しいです、これからよろしくお願いします。それでは、あの、ヴァン様は……」
「ああ、あの子は娘の子なの。嫁いだ先にいるから、なかなか会えないのよね」
幸せな夫婦の元に産まれた娘。きっと素敵な結婚をしてくれていれば良い。子供の頃から世間に触れずに過ごしてきたセレスティアは、素直にそう思った。貴族の世界の息苦しさなど、知らないままに。
「そうでしたか。一言……お礼をお伝えできればと」
「難しいのではないかしら? あの子に会おうとしたら、王城まで行かないといけないわ。──あの子、貴女を第一王子殿下から隠したいと言っていたの。何か理由があるのでしょう?」
その問いかけにセレスティアは肩を震わせた。その名前は、もう聞きたくもない。
「そう……でしたか」
「ええ。まずは元気になることが先よ」
ロザリーはにっこりと笑って、セレスティアの細い足を撫でた。だから聞き逃してしまったのだ。何故ヴァンに会うには王城へ行かなければいけないのか。そして彼の本当の名前も。




