プロローグ 望まぬ結婚式
音楽を奏でる天使たちの浮彫が施された両開きの扉。それがゆっくりと、大きく開かれた。
ベール越しに見る目の前には、真っ赤なバージンロードが伸びている。
その緋色の絨毯の先でこちらを向いて待ちかまえているのは、わたくしの夫になるレイモン・ロヴァッティ。
――本当ならば、あそこに立つのはベルトラン殿下のはずだったのに……!
いったいどうしてなのか、ベルトラン殿下は婚約者であるわたくしを捨ててほかの令嬢を選び、その代わりにとわたくしに成り上がりのレイモンを押し付けた。
レイモンは美しい。月光を集めて紡いだかのような銀髪と切れ長で冷ややかな目元から、一部の令嬢の間では月夜の精霊王と呼ばれているのだとか。
でもわたくしには、路傍の石ころ程度にしか思えない。
ベルトラン殿下以外の異性なんて、どんなに美しかろうがハイスペックだろうが、みんな同じだもの。
憂鬱な気分のわたくしに、叔父が腕を差し出す。処刑台に登るような気持ちでその腕に手を添えると、叔父は歩き始めた。
わたくしの幸せな花嫁姿を誰よりも見せたかったお父様は、ここにはいない。
参列しているのは、敵ばかり。
わたくしを悪女と決めつけ、嘲るような。
まるで悪夢の中にいるかのよう。
でも。どんなに信じたくなくとも、これが現実なのよ。
誰の策略でこんなことになってしまったのかわからないけれど、わたくしはもうベルトラン殿下の妃にはなれないし、あの成り上がり男の妻になるほかない。
ベルトラン殿下以外の異性になんて、触れられたくもないのに。
わたくしの心などおかまいなしに、式は進行していく。
ふと気づくと、司教様がわたくしに向かって「ミレイユ・デュパール。あなたは誓いますか?」と問いかけていた。
その前の言葉はまったく聞いていなかったものの、なにを言われたかは想像がつく。「誓いなんてしないわ!」と叫べたら、どんなにいいことだろう。
だけれどこの結婚は王命。拒めばお父様に迷惑がかかる。
わたくしは断頭台の前に立たされた気持ちで、「誓います」と答えた。
声はかすれてしまい、ほとんど出なかった。それでもうなずいた司教様は、「それでは宣誓のキスを」と告げた。
……キス?
そういえば挙式ではそんなものがあったのだわ……!
結婚と、今夜迎えなければならない初夜のことばかりを考えていて、誓いのキスのことはすっかり忘れていた。
そんなものはしたくない!
けれどしなければ式は終わらないし、見苦しい振る舞いをするのは公爵令嬢としての矜持が許さないし、なによりお父様に迷惑がかかる。
震える足をなんとか動かし、レイモンと向かい合う。彼の手がベールに触れた。
思わず息を詰める。
嫌という気持ちが膨れ上がり、今にも破裂しそう。
――でも、もしかしてレイモンもわたくしにキスしたくない、なんてことはないかしら。
お互いろくに知らない相手だもの。
そんな可能性だってあるわよね?
ベールがめくりあげられ、険しい顔でわたくしを見下ろすレイモンと目が合った。
標的を射貫くかのような、鋭い青い瞳。
「いい加減、腹はくくったか」
かろうじて耳に届く声量で告げられた、不機嫌な声。
――これはキスは不可避ね。
やはり成り上がりの魔術師団長には、不幸な令嬢を思いやる優しさなんて微塵もないのよ。
ならばわたくしの身は自分で守るしかない。
伸びあがると震える両手で彼の頬をはさむ。
そしてキスをする――ふりをした。
唇は触れていないけれど、司教様や参列者はわたくしの手に阻まれて、肝心なところは見えていないはず。
これで誓いのキスはなされたと判断されたわよね?
レイモンが余計なことをする前に、彼から素早く彼から離れる。
彼の右耳から下がるプラチナの耳飾りが揺れて、そのせいか天窓から入る光りを反射した。まぶしさに目を反らし、ついでに彼からさらに距離をとった。
ベルトラン殿下以外にこんなに近づくなんて、気持ちが悪い。あまりの不快さに全身が粟立っている。
そんなわたくしの気持ちと裏腹に、黙れた参列者たちから婚姻成立を祝う拍手が湧き起こった。
――ああ。葬送の合図だわ。
深い絶望に囚われていたわたくしは、このときまったく気がついていなかった。
夫となったレイモンが、キスをごまかしたわたくしを恐ろしい目でにらみつけていたことに――




