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刻まれたもの — 見なければ、まだ戻れる気がした —  作者: 忘却セミコロン


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35/37

「時間だよ」


教会の周りは、真っ黒だった。


何もない、ただの黒が、果てしなく続いていた。




教会だけが、残されたこの世界。


その中で、律とカナデは閉じこもって過ごしていた。




「奏、パンケーキみたいなものを作ったんだけど、食べない?」


「うん。食べる。」




平穏で歪な世界。


ごはんを食べ、建物の中を散歩し、他愛もない話をして、手を繋いで眠る。


二人は長い年月を埋めるかのように、寄り添って過ごした。




「ちょっと食糧庫に行ってくるね」


「うん。じゃあ、ぼく掃除しておくね」




カナデは椅子を使い、棚の上を拭く。




「……あっ」


ゴトンッ




手に当たった重いものが、音を立てて床に落ちた。


カナデは慌てて拾い上げる。




青く美しい、律の時計。


秒針は止まることなく、正確に時を刻んでいる。




(……おねーちゃんの、時間。)




本当は理解していた。


強烈で鮮明な、炎と煙……死の記憶。




(ぼくはきっと、あの時……)




だとしたら——


「この世界は、何なの。」




夢の続き?それとも——




(でも、おねーちゃんはきっと……)




手の中の青い光を揺らしてみる。




思い出されるのは、銀の狐。


律と同じ温度の、優しい手だった。




(ぼくはいつも、もらってばかり。)




『叔父さん……』


毎夜、寝静まってから聞こえる、律の啜り泣く声を思い出す。




目の奥が熱くなり瞳を閉じると、時計に涙がこぼれ落ちた。




「ぼくに……勇気を、ください……」


その青い光を額に当て、祈るように呟いた。




*****




律は食糧庫から塩漬けの肉やフルーツの瓶詰めを持ってきていた。


(今日は奏の好きな肉料理にしよう。)




キッチンに置いて、部屋へ戻る。




「奏ー、手伝ってー」




ドアを開けると、カナデは顔を上げて前を見据えていた。




律がカナデの涙跡に触れる。


「……どうしたの?」




律と目を合わせ、カナデは穏やかに笑った。


「おねーちゃん」




ふと、律はカナデの手元にある時計を見た。


揺らぎそうで隠しておいた、オシアナス。


「それ、どうして——」




「“おじさん“が、待ってるよ」


「え?」




ニコッと笑い、カナデは走り出す。


「えっ!?ちょっと、待って!奏!!」




律は混乱する頭で、カナデを追いかけた。




*****




「待って、奏!そっちはダメ!!」




たどり着いたのは、教会の奥。


嫌な予感に鼓動が早鐘を打つ。




カナデは銀の残滓を纏うように、揺れている。




カナデのしようとしていることに、律の声は震える。


「奏……お願い、こっちに戻って……!」




カナデは少し困った顔で、律に微笑んだ。


「おねーちゃん、時間だよ。」




カナデは光の柱に近づき手を伸ばす。


「そろそろ戻らないとね。」




指先から解けるように消えてゆく。




「…奏!!やめて!!ダメ!!!」




慌ててそばに来た律をカナデは、消え始めた手でぎゅっと抱きしめた。


まるで何かに刻むように。




そしてそのまま、律と一緒に光の中に倒れ込んだ。




「——奏!?」




洪水のように、光が押し寄せた。


形を保てないほどの圧が流れ込み、翻弄される。




腕の中のカナデが、少しずつ光に溶けていく。




「いやぁあああ!!!奏!!奏!!!」




泣き叫ぶ律を優しく見つめながら、カナデは淡く微笑んだ。




「ありがとう……おね…ちゃん…」




——大好き——




少し幼い声が、金色の光とともに、溶けていった。



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