「時間だよ」
教会の周りは、真っ黒だった。
何もない、ただの黒が、果てしなく続いていた。
教会だけが、残されたこの世界。
その中で、律とカナデは閉じこもって過ごしていた。
「奏、パンケーキみたいなものを作ったんだけど、食べない?」
「うん。食べる。」
平穏で歪な世界。
ごはんを食べ、建物の中を散歩し、他愛もない話をして、手を繋いで眠る。
二人は長い年月を埋めるかのように、寄り添って過ごした。
「ちょっと食糧庫に行ってくるね」
「うん。じゃあ、ぼく掃除しておくね」
カナデは椅子を使い、棚の上を拭く。
「……あっ」
ゴトンッ
手に当たった重いものが、音を立てて床に落ちた。
カナデは慌てて拾い上げる。
青く美しい、律の時計。
秒針は止まることなく、正確に時を刻んでいる。
(……おねーちゃんの、時間。)
本当は理解していた。
強烈で鮮明な、炎と煙……死の記憶。
(ぼくはきっと、あの時……)
だとしたら——
「この世界は、何なの。」
夢の続き?それとも——
(でも、おねーちゃんはきっと……)
手の中の青い光を揺らしてみる。
思い出されるのは、銀の狐。
律と同じ温度の、優しい手だった。
(ぼくはいつも、もらってばかり。)
『叔父さん……』
毎夜、寝静まってから聞こえる、律の啜り泣く声を思い出す。
目の奥が熱くなり瞳を閉じると、時計に涙がこぼれ落ちた。
「ぼくに……勇気を、ください……」
その青い光を額に当て、祈るように呟いた。
*****
律は食糧庫から塩漬けの肉やフルーツの瓶詰めを持ってきていた。
(今日は奏の好きな肉料理にしよう。)
キッチンに置いて、部屋へ戻る。
「奏ー、手伝ってー」
ドアを開けると、カナデは顔を上げて前を見据えていた。
律がカナデの涙跡に触れる。
「……どうしたの?」
律と目を合わせ、カナデは穏やかに笑った。
「おねーちゃん」
ふと、律はカナデの手元にある時計を見た。
揺らぎそうで隠しておいた、オシアナス。
「それ、どうして——」
「“おじさん“が、待ってるよ」
「え?」
ニコッと笑い、カナデは走り出す。
「えっ!?ちょっと、待って!奏!!」
律は混乱する頭で、カナデを追いかけた。
*****
「待って、奏!そっちはダメ!!」
たどり着いたのは、教会の奥。
嫌な予感に鼓動が早鐘を打つ。
カナデは銀の残滓を纏うように、揺れている。
カナデのしようとしていることに、律の声は震える。
「奏……お願い、こっちに戻って……!」
カナデは少し困った顔で、律に微笑んだ。
「おねーちゃん、時間だよ。」
カナデは光の柱に近づき手を伸ばす。
「そろそろ戻らないとね。」
指先から解けるように消えてゆく。
「…奏!!やめて!!ダメ!!!」
慌ててそばに来た律をカナデは、消え始めた手でぎゅっと抱きしめた。
まるで何かに刻むように。
そしてそのまま、律と一緒に光の中に倒れ込んだ。
「——奏!?」
洪水のように、光が押し寄せた。
形を保てないほどの圧が流れ込み、翻弄される。
腕の中のカナデが、少しずつ光に溶けていく。
「いやぁあああ!!!奏!!奏!!!」
泣き叫ぶ律を優しく見つめながら、カナデは淡く微笑んだ。
「ありがとう……おね…ちゃん…」
——大好き——
少し幼い声が、金色の光とともに、溶けていった。




