ぬくもりの代償
たぬきの女将が受付カウンターの後ろのドアから手招きする。
ドアを抜けると、いかにもプライベート空間といった生活感のある、ダイニングキッチンになっていた。
テーブルの上には色とりどりのクッキーが可愛く盛り付けられていた。きっと、女将が心を込めて作ってくれたのだろう。
「さぁさぁ!好きなところに座って!」
「はーい!」
「あ、はい。おじゃまします」
カナデに手を引かれ、並んで座る。
「はいどうぞ。熱いから気をつけてね。」
女将が紅茶を淹れて、目の前に置いてくれる。
音もなく置かれたティーカップから、ほのかに湯気が上がっている。
少しだけ…遠い昔にあったような既視感を覚えたが、思い出せそうで思い出せない。
考えるのをやめて、律はカップに口をつけた。
クッキーは甘かった。
少し甘すぎではあったが、ほろりと崩れてやさしく広がった。
「……おいしいです」
律の言葉に女将が嬉しそうに目を細める。
「よかったわぁ!久しぶりに作ったから、腕が鈍ってないか心配だったの」
「そうなんですか?」
「最近はね、主人と二人だけだから。あの人、あまり甘いものが好きじゃないし」
女将は寂しげに眉を下げて笑った。
その言葉の奥に、どこか“誰かがいなくなった気配”が滲んでいた。
口の周りにクッキーをつけたカナデが、次のクッキーに手を伸ばしながら呟く。
「そうなの?ぼくなら毎日食べたい。」
「そう?じゃあいつでも焼いてあげるわ。……あ、でも休息日とその前後は無理だけど。」
「え?どうして?」
女将が眉を下げて申し訳なさそうに笑う。
「今手が足りなくて、ちょっと忙しいの。…ありがたいことなんだけどね。」
耳を下げてカナデは俯いた。
「そっか…」
律はその様子を見ながら、甘いクッキーを紅茶で運んでいた。
(こんな平和な世界でも、大変なことはあるんだね…)
不意に、カナデの耳がぴょこんと立ち上がり、キラキラした瞳で女将を見た。
「ぼく!手伝えるよ!!」
「…え?いや、でも…小さい子に無理させられないし…」
「掃除とか洗濯は、教会でしてたと思うから!」
「…そう?いや、でも…」
言い淀む女将に郷を煮やしたカナデが、律の方を振り返った。
その視線に、言葉が詰まる。
言わないといけない言葉があるようで…でも口から出てこなかった。
「……少しだけなら」
気づけば、そう言っていた。
女将の顔が、ぱっと明るくなる。
「本当?いいの?…とても、助かるわ!」
律はその笑顔に断る理由を失い、曖昧に笑った。
*****
週に3日、宿のお手伝い。
その報酬は、宿の空き部屋を無償で貸してもらえることになった。朝食込みだ。
空き部屋を掃除しておくからと嬉しそうに笑う女将にお礼を言い、律はカナデを連れてギルドへ向かう。
無理に働く必要は無くなったが、収入は必要だ。
そして、…情報も。
律はこの世界について、まだほとんど何も知らないのだ。
(叔父さんが心配しているから……だから、帰らないと。)
そっと…左手首に触れてみたが、そこにあった腕時計の重みが思い出せなくなっていた。
*****
ギルドの建物は、街の門の近くにあった。
石造りで重厚な建物は他の建物と違い、少し無骨な雰囲気だ。
出入りする人達は多く、武装していたり子どもがグループでいたりと様々。とても活気がある。
「…子どももいるんだね」
「うん。ぼくもやってたけど、採取とか掃除みたいなお手伝いとか、簡単な依頼もたくさんあるから」
「そうなんだ。でも、学校は?」
「うーん。お金がないといけないんじゃないかなぁ」
「じゃあ、カナデは文字や計算をどこで学んだの?」
「え?」
カナデは律の顔を見ながら固まった。
「ぼく…は……」
深く考えもせず聞いてしまった律は、カナデの様子に戸惑った。
「…カナデ?」
「……自分で本を……読んで……それで……」
律を凝視して止まるカナデ。
「カナデ?大丈夫?思い出せないなら、もういいよ?」
その言葉にカナデのパッと表情が明るくなる。
「ごめんね、忘れちゃった!」
——さっきまでの困惑が嘘みたいに、明るい声だった。
「…そっか」
その切り替わり方が少し不気味に思えた。
*****
「じゃあ、早く行こう!おねえちゃん」
カナデが嬉しそうに扉まで律の手を引っ張っていく。
「まって、カナデ…!」
律は慌ててついていく。
(ここに来れば、何かわかるかもしれない)
——帰る方法も。
そう思って、扉に手をかけ——
ほんの一瞬だけ、ここに入るべきか躊躇った。
そんな律をカナデが見上げた。
「おねえちゃん、早く入ろう?」
「……うん」
鉄製の分厚い扉を2人で押す。
ギィ、と重い音を立てて開いたその先には——
ざわめきと、無数の視線と…
余所者への警戒感が待っていた。




