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アンル館③

それ以来黙り込んでしまったアンルにマルーシャは彼女に近づくともう一度話しかけた。


「あのアンルさん、もしかしてカルタスが最後のラールノダと呼ばれていたということは、ラールノダ語って、カルタスの人が話すもう一つの言葉と同じではありませんか?」


アンルはマルーシャの顔をまじまじと見詰めながらこう言った。


「そうだよ。カルタスは子共の頃からラールノダ語もカルタス語としては教えているんだよ」

「リルベルムベルーニャ」

突然マルーシャがくちばしった言葉にアンルとランドは驚いた顔を見せた。

「お前様…その言葉の意味を知っているのかい?」


「愛する母国という意味ですよね。お母様に小さい頃からこっそり教えていただいていた言葉です。私が理解できる言葉は日常会話程度です。逸れも教わったのはもうずいぶん以前のことですけれど、この言葉は時が来るまで誰にもしゃべったりしてはいけないと言われていましたが決して忘れないようにとも言われました。ラールノダ文字を読めるようになるのに役に立つでしょうか?」


「なんだい、スーリアはカルタスの魂を捨てたわけじゃなかったんだね。そうだよ、その言葉こそ紛れもないラールノダ語だよ。お前様がしゃべれるのなら話が早い。可能な限りお前様にラールノダ文字の読み方を教えてあげようじゃないか。そうだね言葉が理解できているのなら文字の配列を覚えるのに必要な基礎程度ならなんとか教えられるかもしれないね。どうだね、私は王女だとて容赦はしないよ。その覚悟はあるかい?」


アンルは急に立ち上がると横の机の上の本棚の中から数冊の本を積み上げた。


「ぜひお願いします! 私、お母様がいつも懐かしそうに話してくれたカルタスにある湖を見てみたいとずっと思っていました。今回行くことが難しい状況なのでしたら…せめてラールノダ文字を読めるようになってみたいんです。二十日間では読めるまでにいかないでしょうけれど、時間が許す限り学んでみたいですわ。そして城に戻ってからも、時間を作ってこちらに通いますので、アンル先生、ぜひ私にラールノダの文字を教えてください」


マルーシャの言葉でアンルはマルーシャの心の奥を見通すかのようにじっと彼女の瞳を見つめると暫くして大きくため息をついてからしゃべりだした。


「お前様の決意は本物のようだね。しかし二十日じゃあ確かに足りないねえ…かといって私もここをそうそう離れるわけにもいかないし…頻繁に通われるのもねえ…どうしたものか…誰か代わりに教えられる人間がいればいいんだけどね…」


アンルは何かを考えあぐねてから、あることを思い出したのかマルーシャに聞き返した。

「そうだ…確かあの時スーリアと一緒にきたのがいたね…確か名前は…そうだ、ラミド城にグレナ・ラングレーという女性が今も働いているかい?」


「えっ? グレナですか? グレナはお母様付きの侍女を長年勤めて、今は侍女頭を務めてくれていますわ。あの…グレナとはどういう知り合いなのですか?」


マルーシャはアンルの口からグレナの名前を聞いて驚いてアンルの顔を見た。するとアンルはマルーシャの顔を微笑みながら見つめると視線をそらして静かに答えた。


「いやなに、昔一度会ったことがあるだけなんだけどね。そうかい、あのグレナがねえ…わかったよ。私の知りうる知識をお前様に伝授してあげようじゃないか。この部屋にある書籍はお前様に必要な本がたくさん揃っているからね。城に戻る日がきたらここにある本をいくつか選んでラミド城に送ってあげるよ。文字を覚えるのはとにかく読むことだからね。わからない文字はグレナに聞くといい。彼女もラールノダ文字を読めるはずだからね。私から聞いたと耳打ちすれば教えてくれるはずだよ」


マルーシャはアンルの口からグレナの名前がでたことに驚きながらもランドに視線を向けランドの言葉を待った。ランドもマルーシャの後ろで腕を組みながら黙って聞いていたが突然マルーシャの前に歩いて行き、アンルが机の上に積み上げたその分厚い書籍を一つ手に取るとパラパラとめくりながらアンルに聞き返した。


「アンル女史、二十日間の間マルーシャがこちらでご厄介になっていても本当に差し支えありませんか?」


ランドの言葉を聞いたアンルは別段驚いた様子も見せないで机の引き出しから一枚の紙を取り出しランドの目の前に差し出して答えた。


「ああかまわないよ。最近はほとんどこの家で過ごしているからね。ランシェルド、旅の前にデルーニャに手紙をだしたそうじゃないか? 今回の旅はあそこにも行くつもりだったんじゃないのかい? これが通行許可証だ。この子は私が責任をもって預かっておくから安心おし。ここの使用人はお前さんも知ってのとおり信用して大丈夫だから安心して行っておいで。あそこはいわくつきだからね、公式で行かない限り王女様が立ち入るにはやっかいな場所だ。連れて行くより置いていく方がいいだろうね」


「相変わらずの地獄耳ですね。ですが感謝しますアンル女史。なるべく早く戻ってきます」

ランドはその紙を受け取ると服の中にしまい込んだ。


「ねえ、ランドはどこかに行くの?」

「囚人達が送り込まれるムンブラ収容所だ」

マルーシャの問いかけにランドはさらりと答えた。


「ムンブラって罪を犯した者達を収容する地区でしょう。そんなところに何をしに行くの?」

「行きたい場所があの中にあるんだよ。心配するな。無茶はしねえよ。ラールノダ文字に関してはマルーシャの好きにすればいい。ここは城にいるのと同じぐらい安全な場所だが一人で大丈夫か?」


ランドの言葉にマルーシャは少し不安を覚えたが、勝手についてきたのは自分だし、ランドが行きたい場所があるならこれ以上引き止めるわけには行かない…マルーシャはそう自分に言い聞かせランドに大きく頷いてみせた。


嫌な予感もしたが、なによりもマルーシャの心は既に憧れていたラールノダ文字を学べる喜びでいっぱいだった。


「よし決まりだな。アンル女史、明朝出発することにします。三十日間の休暇が終るまでにラミド城に戻らなければならないので十日ぐらいで戻ってきます」


ランドの言葉を聞いたアンルが何かを思い出したように机の引き出しの中から一通の封筒を取り出してランドに見せた。ランドは受け取ると中身を取り出した。中にはもう一通手紙らしきものが入っていた。


「そのことなら心配しなくてもいいようだよ。ラミド城ではお前様達は今回、スーリア王妃の死とフィスノダとの戦争の終結の報告を、国交を絶っているスーリア王妃の真の故郷のカルタスへ視察を兼ねて正式に通達のためにこの書状を国王の代理として持参させて、二人に向かわせたと重臣達に伝えているから、三十日以内に戻らなくてもよいと二人に伝えてほしいとランナの所に内密の文書が届いたようだよ。お前様達がこの書状がランナのところに届くより早く出発してしまったからランナはお前様達に伝えられなかったようだけどね。もう少しで忘れるところだったよ。まっあのカルタスはラールシア領内だけど、もう長い間交流を断絶しているから、重臣達も王妃の娘である王女でないとカルタスに正式な使者を立てて報告する役は無理だと承知しているだろうしね。ラールシアの剣士のお前さんがお供として同行させたから安心だと付け加えておけば重臣達も納得するはずだと考えたらしい。あいかわらず頭の切れる男だねトルベル国王は。まっそういうわけだ、日程の心配はしなくていいようだよ。カルタスへは行く事は私の一存では無理だけど、この書状は私が責任を持ってカルタスの長老に届くように手配しておくから安心おし。ランシェルド、この子の事は私が責任を持って守っていてあげるから納得が行くまで行っておいで」


ランドはその書状に目を通し、マルーシャにも見せながらつぶやいた。

「しかし陛下はなぜ俺達がランナ館にまず行くことを知っていたんだ?」


その言葉を聞いたマルーシャがその書状を読みながら、小さな声でランドに言った。

「ごめんなさい…私がお父様にしゃべったの、サミュがいるランナ館に行ったり、ラールノダ時代の墓にも連れて行ってもらうつもりっていったの。最初にまずサミュに会いにいくつもりってことも言った気がするわ」


「そうか、ならいいんだ。さすが陛下だな。お前が外出許可を頼みに行った時点で今回の旅の途中にお前が王妃様の故郷に行きたいと言い出すかもしれないと見抜いていたとは…なんにしてもこれで日程を気にしなくてもよくなったってわけだ。ラミド城に戻るまでに思い残すことのないようにしないとな」


「ランド、ここならアンル先生もいるし、私の事は気にしないで、それより大丈夫なの? あそこはあんまりいい噂を聞かないわ? あんなところに何しに行くのよ?」


「遅くても二十日までにはここに戻ってくる」


「答える気はないってことね。わかったわ、私はここで待つことにするわ。私は私のすべきことを頑張るわ」

マルーシャとランドの様子を眺めていたアンルは笑い出した。


「若いってのは羨ましいね。私もお前様達のように赤い糸をもっとしっかりと結んでおくんだったよ…この年になって私の手に残ったのはこの本達だけとは…」


「アンル先生の心を捕らえた人はいらっしゃらなかったのですか?」

「マルーシャス王女」

「あのアンル先生、ところで、私のことはアルーシャでお願いしますわ」


「よろしいアルーシャ、お前様から見れば私などただの年寄りに見えるだろうが、私もずっとこんな年寄りだったわけではない、それなりにいろんな経験はしてきたが、私はラールノダの研究に恋をしていたからねえ…今思えば惜しいことをしたもんだよ」


アンルの顔を見ながら信じられないと言いたげな顔をしているマルーシャにランドが笑いながらマルーシャの耳元で囁いた。


「マルーシャ、あそこの肖像画がアンル女史とランナ婆さんの若い頃の肖像画だそうだ」


ランドが指差す方向に視線を移すと、そこには愛らしく微笑む十代後半らしい美人姉妹の肖像画がかかってあった。


「あれがアンル先生とランナさん? あら? でもよくみれば双子なのに表情が微妙に違うんですね。これを描いた人はすごい絵がお上手な人だったんでしょうね。よく描けているわ。今の面影があるもの。でもランナさんの顔誰かに似ている気がするわ。誰だったかしら…そうだわ! 笑った顔がサミュに似ているんだわ。それにしてもお二方はすごい美人ですわね。すごく男の人にモテたんじゃありませんか?」


くいいるように見ながら言うマルーシャに、アンルは笑いながら視線をランドに向けた。


「私に群がる男共はろくでもない奴らばかりだったよ。ところでサミュってのは、ランナのところにいるっていうこやつの弟のことかい? そういえばランナとこの執事もそんなことを言っていたっていっていたね。今度一度会いに行ってみるのもおもしろそうだね。しかしお前様はいい子だね…こやつなんか褒めもしなかったぞ。まっ、すでに心に思う相手がいたら他の女の絵などなんとも思わないのかもしれないがね」


「ごほっごほん!」

「ランドどうかしたの?」

ランドが咳き込むのをみてマルーシャが不思議そうにランドを見上げた。アンルはそんな二人の様子を面白そうにただ笑って見守っていた。


翌朝、ランドは一人アンル館を出発して行った。アンルと見送りに出ていたマルーシャは出発直前までランドに何が目的であんな危険な場所に行くのか何度も理由を聞いてみたがうまくはぐらかされてしまい結局答えてもらえなかった。


マルーシャは口を膨らませながら行ってらっしゃいと送り出したが、ランドはそんなマルーシャに笑いかけながらダノンに乗って行ってしまった。


「あの…アンル先生ならランドがどうしてムンブラに行くのかご存知なのでしょう?」

マルーシャはランドの後ろ姿を見送りながら隣のアンルに聞いてみた。


「何だい、お前様に言わなかったのかい? 別に隠す必要もなかろうに」

「アンル先生ご存知なら教えてください。ランドは自分の身に危険なことをしようとする時は必ず秘密にするんです。今回も危険なことをしようとしているような気がするんです」


「わかっているんだったら聞かなくてもよかろう。信じて待つのも女の役目だよ」


「それはわかっているつもりです…でも…今朝になっても嫌な胸騒ぎがおさまらないんです。お願いします。ランドがなぜあそこに行くのか理由を知っているのなら教えてください」


マルーシャはアンルの服を掴むと大きく揺さぶった。


「そんなに気になるんだったら本人にしつこく聞けばよかったであろうに」

「聞きましたわ。でもしつこく聞いていたら逆切れしちゃって…」

マルーシャはそこまで言うと両手を離し下を向いてしまった。


「仕方ないねえ…ランシェルドは剣術の師匠に会いに行ったのだよ」

「剣の師匠?」


「そうだよ、あそこには子供の頃、あやつに剣術を教えた師匠がまだ働いているからね。戦いの終結の報告も兼ねて、剣術修行でもするつもりなんじゃないのかい。あそこには修行するのにもってこいの場所があるからね」


「剣のお師匠様…じゃあランドは一人じゃないんですね。私はてっきりランドが一人でムンブラ地区の中にある危険な場所に行ったのかと。剣のお師匠様がいらっしゃるのなら安心ね。さあて! 私も頑張らなきゃ! 時間がもったいないわ。アンル先生早速はじめましょう」

マルーシャはアンルの腕を引っ張りながら家の中へと促した。


「これ! そんなにひっぱるんじゃないよ」

「だって、早く読めるようになりたいんですもの」

そう言ったマルーシャの目はキラキラと輝いていた。そして二人は家の中に入るとアンルの書斎部屋でラールノダ文字の授業をはじめた。



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