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The Everest Protocol (ジ・エベレスト・プロトコル)  作者: mayvision
第三章 亡霊たちのパッセンジャー
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冥府の近道(ショートカット)


 静かにオールを漕いでいたスニルが空を見上げ、眉をひそめた。


「……変ですね」

 青空が広がっているはずの場所に、薄い膜のような靄が張りついている。

 涼も視線を上げた。

「揺れてる?」

 空気の層がゆらいで、上空を舞う風が不吉にざわめいている。


 突然、山全体が重い唸り声を上げた。

「え?」ユナが振り向く。

 尾根の上部から白い壁が崩れ落ちてきた。雪と岩と氷が混ざった塊が、斜面を丸ごと飲み込みながら迫ってくる。

「地滑りだ! 走れ!」

 四人はボートを捨て、岩場を駆けだした。

 だが逃げる先にも、雪煙の壁が迫ってくる。

「こっちです!」

 スニルが岩の裂け目を指差した。

「飛び込め!」

 四人が暗闇に滑り込んだ直後、外の世界が轟音で塗りつぶされた。 

 地鳴りが頭蓋骨を揺らす。天井から岩塊が落下し、入り口を容赦なく塞いでいく。

「もっと奥へ!!」

 スニルの叫び声で四人はさらに走った。

 背後でルートが一つずつ潰れる音が響く。

 やがて、振動が止んだ。

 スニルがヘッドライトを点ける。光の筋が舞い上がる土煙を切り裂いた。

「皆さん、無事ですか?」

 他の三人も続けてライトを点灯した。細い光が闇を照らす。

「入り口は……完全に埋まったな」  

 涼が壁に手をつき、荒い息を吐く。

「奥へ進むしかないようです」  

 スニルが先頭に立ち、空気が流れる方角へ歩き出した。

 

 十メートルほど進むと、洞窟の様相が一変した。

 氷の下に、直線に削られた痕跡がある。

「……これ、掘削跡だ」

 真田が指で氷をなぞった。

 さらに進むと、鉄骨やボルトや配管が見えてきた。

「事故で放棄された水力発電計画の導水トンネルのようです」

 スニルがライトで奥を照らした。闇はどこまでも深く続いている。

「……これが山の裏側まで抜けていれば……徒歩二日の行程を、半日に短縮できます。出口はサレリ村に続く旧道の近くのはずです」

 四人は顔を見合わせた。

「地獄に仏とはこのことか」

 涼が薄く笑った。

「行こう」

 

 四人は体を寄せ合い、闇の中を進んだ。  

 コツン、コツン……  

 足音が反響する。だが、何かがおかしい。

 水滴が天井から落ちる音。自分たちの呼吸。それ以外は何もない——はず。


「……なぁ」  

 涼が立ち止まった。背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。

「足音、多くないか?」

 涼は後方を振り返ったが、ライトの先に、暗闇が広がっているだけだ。

「反響にしてはおかしいですね」

 真田が掠れた声で返事をする。

 天井から、ザラッと砂が落ちてきた。  

 全員が息を呑んでライトを上に向ける。

 何もない。ただの天井……

 その闇の奥から——声が聞こえた。


『今のうちに渡れ!』


 四人が息を呑む。

 聞き覚えのある声だった。


『だめっ! 靴が!』  


「なに?この声……」

 ユナが幽霊でも見たように顔を引き攣らせる。


『クソッ、硬てぇ!』

『もういい、私を置いて逃げて!』

『置いてけるかよ!』  


 吊り橋での会話が、トンネルの暗闇の中で反復されている。


『今のうちに渡れ!』

『だめっ! 靴が!』  

『クソッ、硬てぇ!』

『もういい、私を置いて逃げて!』

『置いてけるかよ!』  


 ——これって、私たちの……

 ユナが震える声で呟く。

「私たちは死ななかった」

 だから—— 

 涼が続ける。

「未来が歪んで」

 真田が顔面蒼白で呻いた。

「死んでいたはずの“影”が漏れ出した……!?」


 理解した瞬間、四人の全身が総毛立った。

「僕たちは、射殺される未来を書き換えた。でも——書き換えられた未来は消えたわけじゃない。重ね合わせの状態で残留する」

「残留って——」

 壁面が蠢いた。

 壁から、黒い染みのような影が剥がれ落ち、のたうちながら、輪郭が焼け焦げた人の形になる。

 ——ニュース映像で見た黒焦げの死体。 

 影が口を裂き、耳をつんざくようなノイズの悲鳴をあげ、ユナに向かって手を伸ばしてくる。

「ユナ!」

 涼が叫ぶ。

 しかしユナの足が動かない。恐怖が神経を凍りつかせていた。

 影の手が、ユナの足元の闇に触れる。

「いやぁ!」

 ユナの身体がよろめく。

「引き摺り込まれたら終わりだ!『未実現の未来』と融合して、量子の窪みに落ちる!」

 影の手が、じわじわとユナの足に迫る。

「どうすればいいんだ?」涼が叫んだ。

 真田は考えた。

 暗闘の中で、頭だけが高速で回転している。

「ライトを当てて」

 ユナが震える手でライトを影に向けた。

 スニルも強力なビームライトを照射した。

 光に撃たれた影が——ぴたりと静止する。

 輪郭が薄くなり、焼け焦げた手が凍りつく。

「効いてます」

 スニルが叫ぶ。

「観測されている間は、未来が固定されるはずです。あいつらは“固定される未来”に進めない」


 安堵したのも束の間、壁や天井や氷の下から、黒い染みのような影が次々に剥がれ落ち始める。

「逃げろ!」


 四人は走った。 

「後ろは俺がやる!」

 涼が後方をライトで薙ぎ払い、光の届かない角度から伸びてくる影を照らす。

 スニルは先頭で道を切り開く。

 ユナと真田がその間を走る。


 前方に、微かな光の粒が見えた。

「出口です!」

 スニルが叫ぶ。

 背後から、黒焦げの影たちが津波のように押し寄せてくる。

 壁を滑り、天井を這い、四人の現在と未来の境界を侵食するように追ってくる。

「来んなぁ!」

 涼が叫び、ライトを乱暴に振りかざす。

 壁に当たった光で影がわずかに遅れる。

 出口まであと数メートル。

「ユナ、行け!」

 涼が叫んでユナを押し出す。

 スニルと真田も外へ転げ出る。

 涼が飛び出そうとした時、影の手が足首を掴んだ。

 視界がぐにゃりと歪む。暗闇が涼の身体に染み込んでくる。

「涼!」

 ユナが叫び、涼の腕を掴んだ。

 涼の指先は、今までで一番透けていた。

 真田とスニルも加勢し、必死で引っ張る。

 影の手は紙のように薄いのに、凄まじい力で涼を闇に引きずる。

「離せ!」

 涼はライトを影の顔に、ゼロ距離で突きつけた。  

 ジュッ! と音がして影が霧散する。  

 その反動で、涼は外の世界へ弾き出された。  

 直後、トンネルは轟音とともに崩落した。  

 暗闇の奥から、影たちの断末魔のような反響が遅れて届き——消えた。 

 

 四人は草むらに大の字になって倒れ込み、荒い息を繰り返した。  

 誰も言葉を発せない。  

 見上げると、夕映えの光がヒマラヤの山々を赤く染め、宝石のように美しい光景が透明な風の中に佇んでいる。

「……ここは?」  

 ユナが体を起こす。

「タムダンダ村の近くです」  

 スニルが遠くの集落の灯りを指差した。

「予想してたサレリ村ではありませんが……結果的に大幅なショートカットになりました」  

 涼は泥だらけの顔を拭い、笑った

「死神のトンネルを抜けて近道とはな」

 

 涼の指先の透明感は変わっていない。だが足首に——影に掴まれた場所に、かすかな痺れが残っていた。そこだけ、肌の色が薄い。

 涼はそれを誰にも言わなかった。


「行こう」涼は立ち上がった。「まだ歩ける」

 真田も透けた手で眼鏡を直し、立ち上がる。

 ユナも立ち上がり、西の空を見た。


 タイムリミットまであと六日。

 渓谷の頭上の空に、一番星が煌めいていた。


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