プロローグ 時間の影
プロローグ 時間の影
吹雪が音を失っていた。
白い闇の中、五つの影が岩肌を縫うように進む。
標高五千二百メートル。
彼らの足跡は、瞬く間に雪に埋もれていく。
先頭を行くのは、黒い防寒服に身を包んだ男——ラウル・デュモン。
フランス国防省の元科学主任。
今はテロ組織〈ハミングバード〉に潜入している二重スパイ。
背中のリュックには、彼がこの世で最も恐れているものが入っていた。
AI戦略制御システム〈HELIX〉の量子キー。
世界の核防衛を司る人工知能を、ひとつの暗号で停止させる——あるいは、覚醒させる切り札。
「……電波が途絶えた」
無線の声がノイズ混じりに聞こえる。
「追跡信号もだ。HELIXの監視衛星が、この座標で反応を失っている」
ラウルは雪の中に立ち止まり、風の音を聞いた。
ここは〈時間の影〉——エベレスト南麓に広がる電子観測の死角。
地磁気の異常帯により、あらゆるネットワークから隔離された聖域だ。
彼は振り返り、同行する傭兵たちを見た。
「これ以上進む必要はない。ここで終わりにしよう」
「終わり?」
傭兵のひとりが笑う。
「あんたはそれを世界に解き放つために来たんだろ」
ラウルは雪の中にひざまずき、リュックから小型のケースを取り出した。
銀色の封印ロックが冷たい光を返す。
「AIを止めるはずの鍵が、AIを覚醒させる。人間の愚かさはその二進数の中に刻まれている」
ラウルの声は震えていた。
「……まだ誰にも渡せない」
彼はケースを雪の中に押し込んだ。
傭兵が銃を構える。
「何をしてる。命令違反だ」
乾いた銃声が吹雪を裂く。
ラウルの身体が雪上に倒れ、白い雪が赤に染まった。
意識が遠のく中、手首の通信端末が淡く光る。
画面に文字が浮ぶ。
発信元は——〈HELIX〉。
ラウルは微笑み、血の指で画面をタップする。
端末が青白い光を放った。
吹雪が止まり、映像を巻き戻すように、雪片が空へ吸い上げられていく。
空間がざわめき、ラウルの網膜に〈ニュース〉が焼き付いた。
【Breaking News】
「AI戦略制御システム〈HELIX〉が異常検知。パリ防衛核ミサイル発射シーケンス開始」
「発射まで——残り十日」
彼は凍りついた唇で呟く。
「……試験は、始まる」
光が弾け、画面が砕け散った。
轟音とともに雪崩が五人を押し流す。
すべての音が吸い込まれるように消えた後、残されたのは、雪の下で微かに明滅する端末だけだった。
その画面には、一行のエラーコードが瞬いていた。
HELIX: ERROR_CODE_ΔT
——世界はまだ、その始まりを知らない。




