フィジーライルの姫君
「アイリス様。」
侍女に呼ばれ、自室で刺繍をしていたアイリスは顔をあげた。
「どうしたの?」
アイリスは、容姿はいたって普通だが、誰に対しても分け隔てなく親切で、表裏もなく、何より彼女の笑顔は見た人も笑顔にしてしまうと噂される、内面が美しいと評判の姫だ。
そのため、彼女と言葉を交わした多くの人に愛され、慕われているアイリスだが、フィジーライル王国の国王、つまり彼女の父は、アイリスを好いてはいないようだった。アイリス自身も、自分は父に嫌われているものと思っている。
「あの、……国王陛下が、御呼び、です……」
だからだろうか、侍女も恐る恐る、といった様子で言った。
「陛下が…?」
(日頃から、あんなに私の事を避けてらっしゃるのに、どうしたのかしら…?)
疑問に思いながらも、アイリスは侍女に向かって静かに微笑んだ。
「陛下が御呼びなら、きちんとした格好をしなくちゃね。準備、手伝ってくれるかしら?」
「は、はいっ、もちろんですっ」
侍女の返事に、アイリスは先程よりも温かい笑顔を返した。
支度を整え、謁見の間に通されたアイリスは、玉座に座る父を見た。
(……最後に笑顔を見せて下さったのは、いつだったっかしら……)
全く表情を変えずにこちらを見る父を見ながら、ふと昔を思い起こした。しかし、父の自分に向けた笑顔は久しく見ておらず、思い出すことはできそうになかったので、アイリスは考えるのをやめた。
「……アイリス=レアナ=フィジーライル、ただ今参りました。」
「あぁ。」
国王は短く返事をして、続けた。
「アイリス。お前の結婚が決まった。侍女には事前に伝え、準備をさせている。3日後には出発だ。お前も準備をするように。」
「……結婚、ですか?」
「お前はもう17だ。国の為に嫁ぐ事くらい、一国の姫ならば当然であろう。」
「……はい。」
(お父様は、私を政治の道具としか思ってらっしゃらないのね……)
少し寂しくも感じたが、それを振り払うように、アイリスは父を見上げた。
「その結婚がこの国の為になるのでしたら、喜んでお受けいたしますわ、陛下。」
姫らしく、姫らしく、と自分に言い聞かせながら、アイリスは微笑んだ。
「あぁ。……相手はラカント王国のグレン殿だ。しっかり頼んだぞ。」
それだけ言うと、国王はアイリスを見ることなく謁見の間から出ていった。
「…、え…?」
一人残されたアイリスは、ぽつりと言葉をこぼした。
「ラカント王国の……、あの、グレン殿下と、結婚?」
父にとって自分の存在はそんなにも取るに足らないものだったのかと、アイリスは悲しくなった。
ラカント王国は、文明は発達しているが、ここ、フィジーライル王国から最も遠く離れた国である。そう簡単には行き来出来ないのだ。
(お父様は、そんなに私が見たくないの?そんなに私が、嫌いなの…?)
ただでさえ嫁に出たら会いに来ることは難しいのに。
せめてもっと近くの国なら、頻繁にやり取りもあって、顔を合わせることもできたのに。
よりによって、一番遠い国に嫁に出されるなんて。
(お父様は私のことが嫌いかもしれないけれど、私はお父様が好きなのに。……昔のように、また笑顔を見せていただきたかったのに。)
父にもう一度愛してもらうことなく国を去らなければならないことが、辛い。
アイリスの頬を、涙がつたっていた。
* * *
「申し訳ありません、アイリス様。」
部屋に戻ると、アイリスが10歳の頃から側付きの侍女として仕えている、カーネラが声をかけた。
「お父様に口止めされていたんでしょう? だったら仕方ないわ、気にしないで。……言ってくれてもよかったのにって、思わないこともないけれど。」
「やっぱり怒っておいでじゃないですか。」
「ふふ。冗談だから、心配しないで。」
カーネラが謁見の間について来なかったのは、結婚の話を黙っていたことを後ろめたく思っていたからだと気づき、アイリスは明るい声を出した。
「でも、結婚したらなかなか帰って来られなくなるね。……カーネラは、」
「アイリス様? まさか私のこと、置いていくなんて言いませんよね?」
「……うん、言わないわ。ありがとう。」
そんな顔をさせたいのではないのに、と思いながら、カーネラは口をつぐんだ。
ありがとうと言いながら、アイリスの表情はちっとも明るいものではなかった。しかし、アイリスが欲しているのは父王からの愛情であり、カーネラにはどうしていいか分からなかった。
何か話題を変えようと、カーネラが考えを巡らせていると、扉をコンコンとノックする音が聞こえた。
「アイリス様、フリージア様がお越しです。」
「……お義姉様が?」
兄の婚約者であるフリージアは本当の姉のようで、アイリスは彼女が大好きだった。フリージアを迎えるため、アイリスは立ち上がる。
侍女に連れられて部屋に入ってきたフリージアは、不安げな顔をしたアイリスの手をとって言った。
「アイリス、結婚が決まったんですってね。」
「は、はい……」
アイリスは、下を向いたまま答えた。
「不安かしら?」
「ラカント王国へ行くことは、それほど心配しておりません。ただ…、私は、そんなにもお父様に嫌われていたのかと思うと……」
アイリスは言いながら、余計に悲しくなってきて、続きを言うことができなかった。
父の冷たい視線が、脳裏を過ぎる。
「アイリス。」
フリージアに呼ばれ、アイリスは顔をあげた。
「……はい、お義姉様。」
「心配することないわ。陛下にもお考えがおありのはず。陛下だってきっと、貴女に幸せになってほしいと思っていらっしゃるわ。」
「……そう、でしょうか。」
「大丈夫よ、アイリス。」
フリージアはしっかりとアイリスの手をとって言った。
「政略結婚だからと言って、不幸だと決まったわけじゃないわ。……ね? 誰よりも幸せになりなさい、アイリス。貴女なら大丈夫。」
そこまで言われてやっと、アイリスは自分が結婚するのだということを実感した。
大好きなこの国から、離れなければならない。大好きな家族たちと、会えなくなってしまう。
泣き出したアイリスを、フリージアはそっと抱き留めた。
「……お義姉様、大好きです。」
「ええ、私もよ、アイリス。」
アイリスの頭を撫でながら、フリージアが答えた。
* * *
国王からラカント王国に嫁ぐよう言われてから3日後。
「アイリス、気を付けてね。」
「はい、お兄様。」
「元気でね、アイリス。手紙を書くわ。」
「ありがとうございますお義姉様、楽しみにしていますね。」
他の弟、妹たちとも言葉を交わす。これで最後かもしれないと思うと、アイリスは少しだけ泣きそうな気持ちになった。
深く息を吸って、吐いて。深呼吸をした後、アイリスは城を見上げた。目に焼き付けるかのように、彼女はしばらく動かなかった。
その後、アイリスは笑顔で、大好きな家族と、17年間過ごした城に深々と頭を下げた。
「それでは、いってまいります。」
そうして、アイリスはカーネラ1人を連れて、馬車に乗ってフィジーライル王国を発った。
「アイリス様。」
窓の外を眺めていたアイリスを、カーネラが呼んだ。
アイリスは、ゆっくりと視線をカーネラへ向けると、首を傾げて答えた。
「なぁに?」
「これを、国王陛下からお預かりしました。」
カーネラが差し出したのは、花の球根らしかった。
「……何の花かしら。お父様はなにかおっしゃってた?」
母の影響で、母が亡くなった後も花を愛している父だから、きっと、花言葉で選んだ花の球根だとアイリスは思った。それを思うと、何の花なのか、少し不安だった。
「いえ……申し訳ありません、お聞きすれば良かったですね。」
「あ、カーネラが謝ることないよ。……向こうで許可をいただけたら、一緒に育てましょう。何の花が咲くのか、楽しみね。」
何にせよ、自分の為に父が用意してくれたことにかわりない。
その球根を受け取ったアイリスは、自然と笑顔になっていた。見送りには来てくれなかった父だが、少しは自分の事を気にかけてくれているようだ。
「……あのね、カーネラ。私考えたの。」
「はい、姫様。なにをですか?」
「ラカント王国のグレン殿下は、冷徹で無関心だ、っていう噂があるけれど、それはあくまでも噂でしかなくて。会ってみないと、グレン殿下がどんな方かなんて、分からないでしょう?」
「……姫様?」
アイリスの言わんとしていることがいまいち分からず、カーネラは首を傾げた。アイリスは、ふふ、と笑う。
「だからね、私がラカント王国に嫁ぐのはこの国の為だけれど、私きっと、グレン殿下と幸せな家庭を築いてみせるわ。」
アイリスの笑顔はすっきりとしていて、そこにはもう、不安も迷いもなかった。




