23、鬼灯の幻灯
23、鬼灯の幻灯
“喪失感を続けなさい、”
あの“幽霊”は、去り際に確かにそう言ったように聞こえた。
バケツに、リラシーラ。
そして母親の幻。
チルトの胸にはすでに喪失感が重なっていた。
これから先も、重なっていくのだろうか。
チルトはこれから起こることに懸念を抱く。
「苦い状況ね。斜塔祭で食べたシュトレーゼとは正反対。」
「言えてる。」
“試験”という今の状況の説明を聞いたルビーの皮肉に、チルトは苦く相槌を打つしかなかった。
「あれは甘かったな」
荒くだらしなく着崩した制服を揺らめかして、エルアは冷笑する。
向かう先に、生徒たちと暖色の光が見えた。
「チルト、ルビー、」
顔を顰めたエルアは、言葉を紡ぎだす。
「一気に通り抜けるぞ、」
無数の暖色。
迷路の奥に広がる部屋が、視界に入った。
幾つも生える、森をなすような硝子の樹。
それは奇怪に生え渡り、葉が密に生い茂るしいの樹だった。
ごつごつとした粗野な幹。
群生する葉の表は鮮やかだが、裏は色褪せたように陰る。
そこに、蜘蛛の巣のように絡まる蔦があった。
ハートをしわがれた紅色の粗紙で包んだような実は、灯りを内に秘めて、硝子の植物を照らした。
無数の暖色は鬼灯だった。
チルトたちは突き進む。
視界は照らされているにも関わらず、真夜中の森に入るのと同じ不気味さがあった。
三人を覆い隠す硝子の植物は、天幕のよう。
しかし今にでも迫って来るのではないかと不安にさせた。
眼を傍に逸らすと、森に迷い立ち尽くす生徒の姿があった。
何もない空間を虚ろな瞳で見つめている。
何か呟いているかと思えば、瞬きした次の瞬間には床を割って落ちてしまった。
「次は何、」
ルビーは投げやりに言う。
不意にエルアは立ち止まる。
瞳は先の生徒のように虚ろで、呆然としていた。
何かがまずいと、チルトは感じた。
「エルア、」
チルトが呼びかけて咄嗟に突き飛ばすと、エルアの眼に光が戻る。
次には突発的な動きで、鬼灯の一つを蹴り上げて粉々にした。
体勢を繕って、声を張り上げる。
「幻灯だ、兄弟がそこにいた。」
同じように虚ろになり始めるルビーを見て、エルアは急いで手を彼女の額に翳す。
「二人とも眼を閉じろ!」
苦く叫んで、エルアはルビーの眼を手で無理やり閉じさせた。
チルトも言われるままに閉じる。
先の“幽霊”の変装のように感情をかき乱されそうになっている。
「俺に掴まれ。走って森を抜ける」
チルトはエルアにつられて走った。
息切れしてきて、幾分走ったかと思うとチルトはまぶたを開いた。
「あ、れ、」
そこにはエルアもルビーもいなかった。
服の端を掴んでいたはずの手は、何も掴んでいなかった。
チルトはぽつんと一人、しいの森の中で佇んでいた。
鬼灯が灯りを宿して、チルトを見つめているようだった。
汚れたきめの粗い衣服。
整っていないごわごわの髪。
みすぼらしい姿をした、愛しい母親。
チルトの前に現れた幻灯。
そう、こちらが、この姿こそ正解だと、チルトは思った。
足元が軋んで小さく悲鳴を上げていた。
チルトは危機を感じ、急いで眼をつむり直した。
このままでは前に進むことなど、森を抜けることなどできない。
何か術はないかと考える。
授業のことを思い出す。
“感情には捨てる方法がある”
一つには記憶を捨てること。
しかしこれは、方法に至る方法が良く分からない。
薬が必要と言っていたが、それもない。
ともすれば、サントマルテ先生の天秤授業を思い出す。
一つには感情を硝子に託すこと。
実験で使った硝子石の代わりに、チルトはすぐにしいの葉に手をかけ、一枚折って摘み取る。
しかし、エルアの言っていたことが、昨日の忠告が、頭をよぎってチルトを躊躇させた。
それでも今落ちるわけにはいかないように思えた。
チルトは硝子の葉を奥歯で噛む。
冷たい硝子、冷たい硝子、今からいぶきを食べましょう。
すると無理矢理にでも葉を胸に押し当てて、記憶を思い出す。
思い出を巡る。
チルトが成長しないということを知ったのは、いつだっただろうか。
自分が成長しないことは、何だか信じられないことだったが、母が真面目とも少し違った神妙な顔をして言うで、チルトは戸惑うしかなかった。
「チルト、あなたはこれ以上、成長しないのだって、」
母は泣き出しそうにな顔になってチルトをぎゅっとすると謝った。
「ごめんね、」
ただチルトは、その時どうして母が謝るのかまるで分からなかった。
しかしやがて、チルトにも分かる時が来た。
周りの同じ年齢くらいだった子どもが、次々とチルトの背を抜いていったのだ。
男の子から先に、そしてついには女の子までチルトを見下ろせるようになった時には、周りに満ちていった潮の中に、チルトはひとりぽつんと浮き出た砂地に佇むような、孤独な気持ちになった。
みんなが服も靴も大きなものを身につけるようになっていくのに、チルトはいつまでも同じものをくたびれるまで着るしかなかった。
チルトは悲しかった。
「ぼくは大きくなりたいよ。ほら、あそこの仕立屋に掛かっている服、格好いいんだ。ぼくはね、いつか、いつか着たいと思っているんだ。だけどぼくに、ぼくにそのいつかは来ないんだ。」
チルトはいつか、母にそう迫った。
そうしてその時チルトははっとして、母が自分に謝ったわけを知った。
だからチルトは、それ以上何も言えなかった。
次の日母は、チルトにプレゼントを買ってきた。
オレンジ色のバケツだった。
「大きくなると、卒業しなければいけないもの、捨てなければいけないものがあるわ。例えばそれは、あなたが小さい頃に、どこからともなく石を集めて拾って入れたようなバケツなの。バケツっていうのは小さいわ。バケツは、小さい子どもにしか似合わないわ。バケツはみんなに、どんなに小さい頃に一緒にいても、いずれ似合わなくなるわ。バケツというのはそういうものよ。だけどチルト、あなたにはずっと似合う。いつまでもあなたは、そのバケツを持っていることができるのよ。」
母は明るい笑顔でそう言った。
慰めだった。
「別にぼく、バケツはそんなに好きじゃない。」
チルトは文句を言う。
「あら、私はバケツを持っているチルトが、とてもとても大好きなのよ。」
母はひとつ、チルトにキスをくれた。
それ以来、チルトは好きでもなかったバケツをずっと持っている。
母が死んでしまってからもずっとずっと持ち歩いて、今となっては、硝子の斜塔の上層にまで持ち込んでいた。
貧しい家だった。
母は小さな一部屋分の家で、縫い物をして暮らしていた。
物心が確かになってくると、チルトもよく手伝った。
固いパンと野草を食べて水で渇きを癒した。
頑張ると、母はたまに市場でふわふわのパンと甘い果物を買ってきてくれた。
貧しかったがチルトは幸せだった。
いたずらをして怒られたこともあったが、母はいつも笑顔だった。
母はしっかりと重かった。
そして抱きしめてくれたのだから。
思い返して、チルトはすぐにしいの葉を胸から離した。
軽くなるというよりも、虚しくなった。
まぶたを開けた。
灯の向こう、脇に壁が見えた。
部屋の隅らしく、青の硝子が暗く陰っていた。
同色の瞳。
あの女の子だった。
硝子に映ったあの女の子と、チルトは眼があった。
しかし彼女はすぐに眼を逸らす。
不意な出来事に、チルトは振り向くが、すでにしいの樹が生い茂るだけだった。
「チルト、」
声が聞こえて、鬼灯の割れるのが見えた。
音とともに紅の硝子が飛散する。
そのまま正面から、灯を割った物が何か飛んで来る。
チルトは慌てて咄嗟に掴んで受け止めた。
橙色のバケツだった。
「こっちだ、行くぞ、」
背の高い、エルアの姿がしいの樹の陰にあった。
「エルア、これは、」
チルトは後を追う。
ふらふらとして頭を押さえるルビーも一緒なのが見えた。
「“幽霊”が持ってたんで、蹴飛ばしてきた。」
エルアはにやと口を歪めて言った。
足の早いエルアは、たまに無茶なことをする。
しいの樹に終わりが見えた。
「それにしても初耳だよ。エルアに兄弟がいたなんて、」
チルトは走りながら言う。
するとエルアは不思議そうな顔をして答えた。
「何を言ってる。俺に兄弟何ていないぜ。」




