2、先生の手紙
2、先生の手紙
感情論教師は特別激情をぶつけることなく、二、三小言を言ってチルトへの注意を終えた。
激情など持ち合わせていないのだ。
だからチルトも落ち込むことなく、淡い反省の気持ちで教室に戻った。
待ち構えていたのは、先ほど紙をぶつけてきたエルアだった。見上げると、揶揄するような表情だった。
「よお、お前が立たされるなんて珍しい」
からかうようではあるが、エルアは嫌な奴ではない。
「エルアは立たされない方が珍しいじゃないか」
「よく言う」
エルアはぽんと、チルトの頭に手を乗せた。
細くはあるが、頑丈そうな、針金を束ねたような体つき。整った、精悍な顔立ち。逆立てた、サビのように赤茶けた髪。コートのように裾の長いブレザーを、ある程度着崩している。
エルアは良いクラスメイトであり、友達である。
ただし、チルトが見上げるほど大きい。
「こんなにちっちゃいくせに」
チルトの体の丈は、六、七歳児ほどしかない。どこからどう見ても、チルトは未熟な子供なのである。
「何度も言うけど、歳は同じくらいだよ。」
だからと言って、歳までそれに合った年齢というわけではない。チルトもエルアや、あの少女と同じ“お年頃”なのである。チルトがこうなっているのは、生まれ持った病気のせいだ。
「“子供病”だったか? 未だに奇妙な生き物だよ、チルトは。」
子供のままで、成長が止まってしまう病気。チルトにはもう、これ以上背が伸びる見込みがないのだ。
「いいよな、永遠に若いなんて。憧れる。」
「思ってないくせにサ。不老でもなければ不死でもない。老いる時はこのまま老いる。」
逆にチルトは、エルアのような高い背に、見晴らせるような視点に憧れる。
あの、灯台のような高さに届かず、生涯を終えるというのは、チルトにとっては悲しいことだ。
愚痴のように言うと、エルアは事もなげに言う。
「かわいいおじいちゃんになりそうだ。」
エルアは笑った。
不安なことに対して、不安を感じさせず、当然のように言ってのける。チルトはエルアのそういうところが好きであった。
「何話してるの、おちびさん?」
声をかけてきたのは女子生徒だった。
「秘密だよな。」
「男の子会話だよ。」
「出た! 男の子会話。意地悪なチルト。」
皺のついた制服。焦げ色の長髪。腕には赤い糸で縫った編み目模様の斜線が三つ。ここに入る前、自分で袖に縫いつけたものらしい。長い睫毛に縁取られた鳶色の瞳がチルトに向けられていた。
「私たちも入りたいけど、私たちは女の子会話してたもんね」
「ね」
彼女の下にいたもう一人の女子生徒を、ルビーは妹のように抱きしめた。
「ルビー、俺のチルトを馬鹿にするなよ。」
「いいえ、その小ささは私のものよ。今度弟にするの。」
エルアとルビーはそんな冗談を言い合う。ふいに幼い声が聞こえた。
「オランジェ、選んだものはいつだって、自分の反対側にあるものよ。」
机を挟んだ反対側に、チルトと同じ高さの目線があった。
チルトのことを何故かオランジェと呼んでくる、ルビーと仲の良い生徒だった。
「リラシーラ、」
幼い顔立ちは乳白色。小麦色の髪は繰られる前のほぐされた綿のよう。
彼女は椅子の上に上がって腰掛ける。チルトと同じくらいの背丈だったが、歳はそれ相応である。身を包む小さな制服が、自分と同じくらいのサイズであることに、チルトは気を落とした。
足を組んで、リラシーラはチルトを見据えて言う。
「愛は感情の反対側にあるものよ。だからいつも、硝子越しにしか見えないのよ。」
「よく分からない、」
“精神地図”の教科の言葉だった気がするが、意味が量れなった。いつも上からものを言う風なので、チルトは困惑する。
ルビーとエルアが、チルトの身長について冗談を続けていた。雲の中に佇む静かなクラスに場違いな騒ぎ声が響く。
間に、リラシーラは机に開かれていた教科書を繰り始める。
チルトも背伸びをしてそれを眺めた。
チルトとエルア、ルビーとリラシーラは初めそれぞれにつるんでいた二人組みだった。しかしここ一ヶ月で打ち解けてきて、四人でいることが多くなってきている。
このクラスに仲の良いグループなどない上に、顔を知ってるだけで繋がってすらいない。それは感情を持たないことを目標にするこの場では当然のことだった。むしろ、チルトたちは不良の部類に入るのかもしれない。
しかしチルトたちは、この至って自然な関係を続けていた。
あてもなく、癖のように本のページは繰られていく。リラシーラは適当な場所で離してしまった。勝手にページが戻っていき、止まったところには挿画。空を背景に、寒鴉の飛んでいく様が図で示されていた。
「”インクを被ったような黒。寒鴉には感情がない。だから翼で、空を飛ぶことができる。天敵は梟。渡り鳥で、七日間は眠らずに飛ぶ。”」
チルトはつらつらと書かれたことを読み上げた。
「その寒鴉、知っているわ。たまに斜塔の硝子にぶつかるんだって。」
「それ、俺も知ってるぜ。たまに硝子を割って入ってくるらしいな。」
「本当に、?」
ルビーとエルアはこちらに加わってくる。リラシーラが驚いた風に声を上げた。
「体重のない鳥、“幽霊”みたいだね。」
チルトが言うことに、三人は頷いた。
チルトたち生徒が目指しているのは、0kg、つまり無感情である。
その極地、もしくはほとんど体重を失くした境地のものたちのことを、生徒は“幽霊”と呼んでいる。 硝子の斜塔の上階で暮らしていると噂される彼らは、国の政治すらも執り行っていると言われるが、しかし彼らを眼にしたことのある生徒は、誰もいなかった。
「じゃあこれは知っている? 北極星が出ている夜は、“幽霊”たちの議会が行われているそうよ。」
「ふうん」
ルビーが言う。
斜塔の上層は、まるで事実があいまいだ。
だから噂がよく飛び交う。
寒鴉が斜塔の中に入って来る話も怪しいものだが、これもまた、“幽霊”がいたとしてそんな気まぐれでいいのかと疑う話だった。
その時、教卓の上に、コトンと荷を置く音がした。
次の授業が始まるには、まだ少し早い。
振り向くと、丁度チルトに向かって歩んでくる教師がいた。
「やあ、チルトくん」
途端にチルトに話が飛んだ。
その自負心に満ちた眼と出会う。
するとそれだけで、何だかチルトは不快になった。
教師はお腹の辺りの肉付きが良く、首が短い上に頭が丸いおじさんである。
紺色の教師服を身に着けてはちきれそうにさせていた。
「レイシー先生から聞いたよ。廊下に立たされたんだってね。もっと真面目にやらなければ、だめなんじゃないのかね。きみはただでさえ、このクラスでは落ちこぼれに近いんだから」
教室の角の方で、誰かがくすくすと笑っていた。
見なくても、チルトにはトラスのグループだと分かった。
教科書いわく、身体は感情の入れ物。
重さは身体の大きさにも比例するものだ。
ルールの盲点をついた形でこのクラスにいるチルトを、サントマルテ先生は気に入らないようだった。
こうして、サントマルテ先生はいつもチルトにつっかかってきては何か嫌味のようなことを言うのだ。
「このサントマルテが言うに、きみは全く“幽霊”になる才能がないと思うのだけどね。この“幽霊”にもっとも近い教師である、このサントマルテが言うにね。もっと頑張らないと、チルトくん。でないと、本当に落ちてしまうかもしれないよ」
サントマルテ先生は、胸を張りながら言って、最後には、背の低いチルトを見下しながら笑って去っていく。
「おい、君たち、そんな眼で睨んでいるんじゃないぞ」
付け加えて気にくわなそうにエルアとリラシーラへ注意する。
ルビーがいつのまにかいない。見ると、教卓の傍にいた。
サントマルテ先生はそんなルビーのことも一瞬ねめつける。
最後に、出した課題をしっかりやるように、と言って、卓の上の木箱取って教室を出て行った。
角で起こっていた、トラスたちのくすくす笑いがそこでどっと弾けた。
チルトは眼を向けなかった。
「本当にむかつく教師だな。あれで感情が少ないって言うんだから、おかしな話だぜ」
エルアは去っていった扉を見ながら、肩を竦めた。
「オランジェ、感情のコントロールの上手ければ、感情も少なくてすむのよ。あれがひとつの理想よ」
「いやな理想」
落ち着いて言うリラシーラに、エルアはつばを吐き捨てる顔で応えた。
「あんな教師、殴っちゃえばいのに、チルト」
「ぼくにこの学校をやめろっていうの、ルビー」
ルビーが教卓の方から近付いて、不穏なことを言った。サントマルテ先生の言うことに、何も言わずに耐えたチルトは、もちろん不満がたくさんあった、
「でもこのままじゃ、私の気が晴れないからおもしろいものをもらったわ。さあ、寄って、ひそめて、集まって、注目!」
ルビーは鳶色の眼を光らせて、ひとつの紙を摘んで示した。
チルトたちはティブルにひっしりと寄り添って集まった。
ルビーが手にしていたのは、長方形をした、何か手紙のようだった。
裏には蝋で封をしたのが剥がれており、表にはしっかりと宛名があった。
硝子ペンであろうにも関わらず、流暢な字体。
ルビーが声をひそめた。
「サントマルテ先生の木函からくすねた、先生宛ての手紙」
「よくやった、ルビー」
エルアとルビーが、手をバチンと叩いてあわせた。「からかう種を手に入れた」という顔をした。
「ええと、バレたらまずいんじゃない」
チルトは苦い顔をしていた。
「あなたのためよ、チルト」
「お前のためだぜ、チルト」
「オランジェ、これであなたの気が晴れるなら、あたしたちも嬉しいことだわ」
三人は三人して、悪のりが過ぎるのだった。
こういう時、チルトは歯止めになっても仕方がないことを知っていたので、チルトものることにした。
歯止めになる必要も、別にないのだ。
「もしかして、恋人かしら。あの、あのサントマルテ先生が」
あのと強調して言うリラシーラ。
感情の少なければならない教師が何を、と言いたいのだろう。
「単に業務報告かもしれないよ」
「いいや、そんな単純なことのために、わざわざこんな厳かな、蝋で印までした手紙を使うか? この斜塔に関する業務だったとしても、相当に重要な類のことだと思うぜ。例えば、そう、」
机の上に置いた手紙を裏返して、エルアは切れた蝋印の下の隅に書かれた文字を指でなぞった。
「“幽霊”だとかな」
なぞったところには、やはり流れるような流暢な文字で、こう書かれていた。
“ By Ghost《幽霊より》”
チルトたちは、息を呑んで眼を光らせた。例えるなら、これから、まさに今から悪い人間たちの根城に侵入して、お金を奪い返す、と言ったような雰囲気だった。
“幽霊”というのは、チルトたちにとって実に不確かな存在だった。
いるかどうか、分からない存在だった。
それでも、斜塔を上るほどに彼らは“いる”と思わせる何かがこの斜塔の雰囲気にあった。
顔も見せたことのない彼らだが、生徒たち自身、自分たちが霊感を身につけてきているといったふうに、この斜塔の上層階で送る日常生活では、あちこちにその気配が漂っているのだ。
嘘か本当か、その片鱗に、今チルトたち四人は触れていた。
「開けてみよう」
チルトは好奇心で言った。
三人が頷いて、ルビーが代表して(主犯として)封を開き、中から折り畳まれた透き紙を引き出した。
すぐに破れそうなほどに、薄く破れそうな紙だった。
ルビーはそれをなるべく丁寧に開いて、机の上に広げた。四人して覗き込む。
“展覧会のご案内”
「“知識の河が流れ込んだ先に、お越しください”」
ルビーが読み上げた。
手紙に書かれているのは、それだけだった。
「“招待状”?」
「何だ、これは、」
ルビーが言って、エルアが首を傾げた。
二人とも何だか落胆した様子だった。
「なぞかけ、じゃないかな、」
チルトは机に背を伸ばして読み込む。
「知識の河が流れ込んだ先、知識の河、知識の河、」
しかし繰り返しても、何も思い浮かばなかった。
それにしても、謎めいた招待状だった。
サントマルテ先生は、自負している通り、本当に“幽霊”に近いものなのかもしれない、と思わせた。
しかし、例え“招待状”であったとしても、招かれている場所が分からない。
この程度が解けないようなら、“幽霊”に近付く資格はないということだろうか。
「そもそも展覧会って何だ。噂の議会とは、また違うってわけか? 斜塔の中で、ひっそりと行われてるなら、“幽霊”って奴は随分と洒落ているな」
エルアは馬鹿にしたような口の歪め方で、皮肉げに言った。
「あたしは、そうは思わない。アクアマリン、」
小さい身体のリラシーラが、小さくも思慮深さが伺える顔で、エルアを見上げていた。
エルアのことはアクアマリンと呼ぶ。
「たぶん、“展覧会”が、この塔のかくしんに迫る何かを持っているのよ。“展覧会”っていうひょうげんも、何かの比ゆなんだと思う」
リラシーラのうがった見方をした言葉に、チルトたちは舌を止めていた。
「“知識の河”に、心当たりがあるわ」
三人して、一番歳数の少ないリラシーラに見入って、耳を傾けていた。
「図書館に行きましょう」




