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19、開宴

19、開宴



 部屋には太陽が差し込んでいた。

 もそもそと起きると、質素な内装が浮かんでくる。

 粗末な衣装掛け、本棚、書き物机にホタルブクロのような灯り(スタンド)は全部硝子製。

 チルトは毛布を除けて床へ飛び降りる。

 ひやっとした冷たさが、感覚を敏感に反応させる。

 机には相変わらず、古びた銅貨が二枚並んでくすんでいる。

それは唯一と言っていいほど、チルトにとって甘い思い出だった。

 脇に置いておいた毛糸のくつしたを履こうとして、止まる。

 部屋の隅に置かれた秤が眼についた。

 チルトは裸足(はだし)のまま、つま先立ちで移動する。

 秤は目盛りが12までしかない。

一見すると時を刻みそうな“感情計”である。

 上に乗ると、針が時計回りに振れた。

一週間ぶりに量ってみる。

 針は、7.6kgを指して静止した。

 意外なことにチルトの体重は、一週間前よりも、少しばかり減っていた。

 降りて、くつしたを履く。

 すると、秤の横に、見慣れないものがあることに気付いた。

眼を凝らすと、それは植物だった。

 不思議なことに、部屋の隅から、硝子の植物が生えてきているのだ。

「何、これ。どういうこと、」

 チルトは眼を見張った。

 そこには、艶やかな茎と葉。

露草の花が、一輪鮮やかに咲いていた。

海と空を綯い交ぜにした青色だった。

 触れてみて、少し引っ張ってみても、花は採れない。

置いてあるのではない。

しっかりと根ざしている。

 土から草が生えるように、硝子から硝子が生えるものなのか。

「あとでエルアに見せよう。」

 ひとまず置いておき、チルトは身支度を始める。

寝巻きを脱いで子供用の小さな制服に着替える。

本棚に手を伸ばして、ノォトと教科書を揃える。

 いつものように、橙色のバケツに突っ込もうとして、書き物机の引っ掛け(フック)を見る。

「ない、」

 そこには、橙色のバケツがかっているはずだった。

 チルトの唯一の私物である、橙色のバケツが。

「うそだ、どこに行ったの、」

 昨日は、帰ってきて、書物を本棚にしまって、チルトは確かにバケツを机にかけたはずだった。

 それなのに、どこに行ったというのか。

 チルトは部屋中くまなく探す。

必死になって、机の裏もベッドの下も、本棚を引っくり返しても探した。

 しかし、そもそもが、この質素な部屋で物をなくすなどありえなかった。

 バケツは見つからなかった。

「なんで、」


 食堂へと向かう階段。

早朝、西陽が差し込んで、硝子の斜塔(グラス・バベル)は碧瑠璃に輝いていた。

雲が遮った部分が、ところどころ、森の木陰のように陰る。

寄宿部屋の一つ上には食堂が設けられ、もう一つ上はチルトたちの教室となっている。

食堂で朝食を取ると、そのまま授業へ上がって行くというわけだ。

 階段を上っていると、食堂へ向かう生徒が一人、また一人とチルトを通り過ぎて行った。

 いつもと違って慌ただしい。

 エルアはいつも朝食を食べずに、例の教室で寝ているので、一人で進む。

辿り着いて、食堂への扉をくぐると、チルトの前に、壮大な大広間が広がった。

 吹き抜けのように高い天井は、教室など他の階に比べ、何倍も高さが取られている。

上からはシャンデリアが幾つも吊り下がる。

縦に長く広間にかけて六列ほど食卓が布かれ、クロワッサンや煎り卵、瑞々しいサラダがそれぞれに盛り付けられていた。

 朝食を前に、すでに半数以上の生徒が席に着いていた。

 いつも、生徒たちはみんな、静かに席に着いているはずだった。

言葉も交わさずに、静寂を保っているはずだった。

談笑が聞こえたとしても、それは微かなものだった。

 それが、硝子の斜塔(グラス・バベル)上層階の食卓風景なのだ。

 しかし今日は、誰も彼もが騒ぎ立っている。

いつも挨拶だけを交わして口を閉ざすような人たちが、面と向かって感情を露にしていた。

 チルトが廊下に出たときから、今日はこんな、異常な雰囲気で生徒全員がざわめいていた。

 みんな、”私のもの(マイン)”をなくしてしまったのだ。

「あなたもなくしたのね、チルト」

 ルビーの声が飛んできた。

 勝手に定席としている、一列目の中ほどに、ルビーは杯を傾けながら座っていた。

「ルビーも。」

「その通り。私もなくしたわ。リラシーラもね。」

 隣にちょこんと腰掛けていたリラシーラは、こくりと頷く。

 リラシーラは血の気もよく、落ち着いていた。

そこはひとまず、チルトは安堵する。

 二人とも、あまりいつもと変わらないようにも見えたが、しかし眼が少し伏せられて、物憂げな風でもあった。


”さ、眼をつむって、触ってみて、これが私の”私のもの(マイン)”、だけどチルトあなたには見せないわ。

だけど、触らせてあげる、”


ルビーと出会って話すようになった時、チルトは彼女の”私のもの(マイン)”に触れさせてもったことがあった。

決して見せてはくれなかったのだが、チルトが眼をつむりながら手に取ったそれは、どこか冷たく、固まりのようなものだった。

 しかしチルトにしても、いつも通り振舞ってはいるが、胸にぽっかりと穴が空いた、喪失感に襲われていた。

何も見えない闇と、何も存在しない空白とが、心の中で混じり合っていた。

 教師に促され、生徒が収まり始めたところで、朝食となった。

「ねえ、覚えてる、この前リラシーラが言っていた、歴史書に出てくる“泉”のこと。」

ルビーは出し抜けに訊ねて来た。

「ええと、“展覧会”の時のだよね、“漂流船”の、」

 リラシーラの難しい話はよく聞き流すチルトだったので、特に気にも留めなかったことだった。

「そう、筆者がもともと置き去っていた“泉”。あれを私たち、調べてみたの、そうしたら面白い話が出てきたわ。」

「オランジェ、“泉”の正体、」

そうして言ったリラシーラが眼を向けたのは、ルビーが掲げる飲みかけの(ゴブレット)だった。

そこには水が、ほんのりと、夜空に瞬くように光る、澄水が湛えられていた。

 みんなが“北極星のしずく(ポーラー・ドロップ)”と呼ぶものだった。

上層に来てからは、毎回この水が注がれて並ぶ。

「“北極星のしずく(ポーラー・ドロップ)”。“泉”は、その源なの、」

ルビーはまた、得意げに言った。

「また噂でしょう。思うに、ぼくたちは噂に踊らされてる。」

「オランジェ、それじゃあ一緒に踊りましょう。」

 チルトが言うと、リラシーラが口を挟んだ。

ルビーは薄く笑って続ける。

硝子の斜塔(グラス・バベル)の最上階近くには、泉があるの。その泉は、北極星の光を一番近くに受けていて、その星灯りを、水の中に溶かし込んでしまうの。」

「それで、“北極星のしずく(ポーラー・ドロップ)”。」

 生徒たちはさりげなく揶揄するような形で呼んでいたことだが、起源を知ってチルトは何だか納得した。

もちろん噂上の話ではあるのだが。

「もう一つあるわよ。オランジェ」

 今度はリラシーラだった。

「“北極星のしずく(ポーラー・ドロップ)”を飲むと、体重が減るのよ。」

「へぇ、……」

 それはチルトにも、少し思い当たることがあった。

「それでこの(フロア)に来てからは、よく飲まされるわけだ。」

「ふうん、減量効果があったのね。悩めるリラシーラに最適だわ。」

「私は重くない。」

 そう言って、ルビーは茶化した。

 もう一口、唇へと運ぶ。

 食堂が暗く陰った。

 濃く、積乱雲や雷雲のように厚い雲の中に、斜塔が隠れてしまったらしい。

手元すら見えなくなる。

 一瞬“北極星のしずく(ポーラー・ドロップ)”だけが、ほのじろく輝いた。

暗闇で卓上の杯は星空のようだった。

ルビーの唇が艶やかに湿っていた。

 すぐに、太陽に代わって、ランプに灯りがくべられた。

点灯人が、食卓の上、周りの壁についたものに灯りをつける。

シャンデリアが少し下ろされて、鉤ひもが飛んでそれを捕まえると、天井近くに空いた窓から引き寄せられた。

それにも点灯人が灯りをともし終えると、チルトたちの頭上に放して元の高さまで引き上げた。

少しの間、いくつかのシャンデリアが振り子になって、生徒たちの影を揺ら揺らとさせた。

「ぼくも一つ知っているよ。」

 二人から出てきたので、チルトもリラシーラの言う踊りに加わることにする。

 この塔に来る前の記憶を引き出す。

「“北極星のしずく(ポーラー・ドロップ)”は、下の世界でよく売れる。」

 “北極星のしずく(ポーラー・ドロップ)”は、斜塔からもたらされる聖なる水として高値で取引されていたことをチルトは覚えている。

めったに出回ることなどなかったようだが。

 それを話すと、二人はそれぞれに好奇の眼を向けてきた。

「それは大変!」

 下の世界にいた記憶がないという、リラシーラが驚いて言った。

「じゃあ塔を出る時は、バケツ一杯持って出なくちゃね。」

 賛同するように眼を輝かせるルビーは、金欲が丸出しだった。

「ルビー、金欲は打破すべきもの。財産を持つことなかれ。」

 リラシーラが“厭世科”の教科書の一説を落ち着いて暗唱する。

「分かってるわよ、リラシーラ。」

 ルビーは拗ねたようにクロワッサンにかじりついた。

チルトとリラシーラは顔を見合わせて笑った。

 しかし、バケツという言葉に、チルトの感情は確実に反応していた。

損失感が胸を浸していた。

 その時、生徒の誰かが声を上げた。

 大きな声は、不可解なことに驚愕するものだった。

 全員がそちらを向く。

 チルトも見ると、立ち上がった生徒は、頭上を指し示していた。

「おい、あれを見ろ!」

 気付き始めた生徒が声を立て始める。

 ざわめきが広がっていく。

 チルトは促されるままに見上げた。

 見やすい位置にいたルビーが先に気付いた。

 チルトも気付いた。

「何、あれ、」

 シャンデリアの上に、人影。

 明るい橙色の絢爛灯(シャンデリア)に、下から照らし出されていた。

 人影は制服を着ていたが、奇妙な黒い鍔付き帽(ハット)を被っていた。

 被りは深く、顔は見えなかった。

 人影が立っているにも関わらず、絢爛灯は微動だにしない。

 ざわめく中、やがて怒号も飛び始める。

 意に介さないように、人影はゆうゆうと絢爛灯の()に移動した。

 シャンデリアは揺れなかった。

 手を上げると、人影は口を開いた。

「私は、“怪盗”」

「怪、盗、」

 チルトは釣られるままに、言葉を反芻した。

 咄嗟に昨日の噂が頭を巡る。

「私はこの、“硝子の斜塔(グラス・バベル)”を盗むことにしました。加えて、優秀な、ココロない生徒を一人、攫って行こうと思います。」

 生徒の誰もが、疑問に眉を歪ませた。

 怪盗は、意味の分からないことを言ってのけた。

どのようにしてこの斜塔を盗み取ると言うのだろうか。

それ以前に、この“怪盗”とは何ものなのか。

 チルトの頭に未知が重なる。

 怪盗は、ああそうだと、付け加える。

「“私のもの(マイン)”を盗んだのも私です。」

 その言葉に、生徒のほとんどが表情を一変させた。

 皆が怒りを露にした。

 あるものは叫び、あるものは黙して睨む。

 “怪盗”は嘲笑する。

「そんなに怒りを感じてしまっていいのですか。」

 チルトも当然怒っていた。

 足元が軋む。

 怪盗の両袖から、純白の(カード)の束。

 一つ空中に散らされたかと思えば、とめどなく泉のように湧き出て散乱する。

「諸君、足元をごらん。」

 “怪盗”が言った。

 生徒が視線を落とす。

 言った意味と狙いがチルトにも分かった。

 理解した瞬間、生徒の顔が青ざめた。

 両袖から溢れる(カード)が、雪のように降り積もり始める。

 バラ撒かれた不自然な量の(カード)の中に、“怪盗”は影を紛れさせて消えた。

 “怪盗”の声だけが食堂の大広間に響いた。

「逃げるといい、上へ、上へ、」

「逃げろ!」

 叫び声とともに、硝子は割れた。

  



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