17、癇癪
17、癇癪
エルアの部屋は同じような内装だったが、家具の配置はどこか雑然としている。
書き物机にはグラス・レコォドが立てかかっていた。
エルアの唯一つの私物である。
誰もが嫌いな音を収めた、いたずら用に使っていたものらしい。
リラシーラの幼い額には、汗が滴っていた。
まるで過呼吸のように息を世話しなくしながら、チルトにしがみつく。
グラス・レコォドの音色に乱されたのだろう。
リラシーラにも子守唄を歌ってくれる母親がいたのだ。
鎮めようと、チルトは抱えるようにリラシーラを抱きしめるが、一息目には綿のように軽いかと思えば、二息目には石のように重くなる。
感情が安定していない。
床が軋々と音を立て始める。
「オ、ランジェ。服に、沈せ、い剤が、入って、る。」
苦しげに言葉を吐いたリラシーラは、自分の寝巻きの腰にあるポケットを示した。
チルトは急いで手を入れ、紙の包みを探り当てて引っ張り出した。
包みは丁寧に折り畳まれていて、リラシーラを支えていては、うまく開くことができない。
「貸せ、」
叫んだエルアが包みを引ったくり、丁寧に開けようとする。
しかし不器用なエルアは荒く開いて、中の粉末が少し零れる。
「口を上に、」
チルトは卵を平に置いたような、小さな顎を掴み、呼吸が荒ぐまま上に向かせる。
そこにエルアは素早く薬を流し込んだ。
器官に入ってむせ返るのを、無理矢理口を塞いで飲み込ます。
しばらく押さえつけるようにして小さい身体を胸に抱えてぎゅっとすると、リラシーラの癇癪は段々と静まっていった。
「オ、ランジェ、おさまってきた、」
まだ整わない息を正そうとしながら、リラシーラは離れる。
それを見て、二人は深く息を吐いた。
チルトはたまに、何故自分がここにいるのか疑問になることがある。
リラシーラは単純に出来が良く、両親によってここに入れられたという。
出来がいいことは話していても、成績からしても分かることだが、しかしここに入ったのは、決して自分の意思ではないはずだ。
未熟な心は安定しない。
ろくに愛情も受けずにここまで育った精神は、余計に不安定なのだ。
「俺のベッドを使っていい。しばらく休んでいけ、リラシーラ。」
ベッドに腰掛けながら、身を案じたエルアは布団掛けを叩いて促すが、リラシーラは手で制しながら首を振った。
「ぼくたちは感情を失くすことを目指してる、だけど、本当にそれでいいのかな、無感情になったら、ぼくたちは、」
「オランジェ、あたしたちの間に初めからそもそも友情なんてない、そうでしょう、」
袖で口元を拭いながら、リラシーラはチルトが言わんとしていることを切り捨てた。
「そもそも感情は必要なもの? 感情は多くないほうがいい。感情があるから争いは起こるし、収まる。感情が少ないのは、ただ選びやすいというだけよ。それに、無感情になったら、私たちの間にあるのは、」
そこで少し言い淀み、そして言葉を押し出した。
「オランジェ、無感情の関係だわ。感情の伴わない、理性的な行動と言葉だけの。」
「無感情の関係ね、」
エルアは手を頭の後ろに組みながら息を吐いた。
リラシーラは部屋を後にしようと、背を伸ばして扉のノブに手を掛けた。
「ただ少しね、恐かったの、ルビーのことが、」
リラシーラ弱々しい声で、背を向けながら呟いていた。
「おとといのこと、」
リラシーラは頷いた。
ルビーの部屋は、リラシーラの部屋から、言うほど遠くはない。
だからこちらへ来たのかと、チルトは納得した。
「あたしあの時、恐かったの。オランジェ、好きでいてくれるヒトにああして突き放されるのは、もうたくさん、」
「ルビーはリラシーラが大事だから、だからああやって言ったんだよ。」
ルビーが言わないなら、チルトが言っていたかもしれないことだった。
チルトはルビーのことを代弁すると、リラシーラは何か言いかけて、しかし口をつぐんで、いつもの物思いにふける表情になった。
「感情は、いらないものよ、」
最後にそう呟いて、扉を開いた。
振り返って言う。
「アクアマリン、おやすみなさい、ありがとう、オランジェ」
「おやすみなさい。」
二人は返すと、リラシーラは部屋へと戻っていった。
にやつくエルアは、チルトに向けて言葉を紡ぐ。
「チルト、お前今のが無感情に見えたか、」
去り際のリラシーラの表情は、確かに綻んでいた。
「見えない、」
二人は顔を見合わせて笑った。
そうは言ってもリラシーラはまだ小さい。
チルトは、リラシーラを支えていた足元に眼を向ける。
床を覆う硝子に、亀裂が入って残っていた。
しかし、重さを持っているということを、チルトは忘れてはいけないように思う。




