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15、硝子の樹

15、硝子の樹



 追ってくる足音は、いつの間にか消えていた。

 一つ階を下ったから、議会から一つ下の迷宮なのだろうと、チルトはもはや存在しない迷路図とともに、頭の中で把握した。

 歩調に合わせて絹糸(シルク)のような髪の()が触れる。

 しっかりとチルトの手を掴む腕は、力強かったが、こちらも力強く握り返せば、すぐに脆く砕け散ってしまいそうなほど、細くしなやかだった。

「きみは、」

 この女の子の顔を見てはいなかったが、手を引かれて見るその後姿は、チルトがいつも見慣れているものだった。

「あの、」

 続く言葉が出てこない。

 名前を唱えようとしたが、チルトは知らないのだ。

 角を曲がり、その突き当たりを、曲がり、さらにその角を曲がると、彼女は足をゆっくりと止めた。

 途端に手を放す。

 肩が上下している。

チルトもそうだが、彼女も息切れし、荒い呼吸が聞こえた。

 振り返りもせず、距離を取るようにして三歩進んだところに佇む彼女。

その後ろ姿を、チルトは授業風景のようにぼんやりと眺めた。

 そうして握られていた手を、ひとり柔らかく握った。

 息が整ってくると、ふと潤いの音が聞こえてくる。

久しく聞いていなかった、琴線をひたひたと撫でてゆくような音。

「水。」

 足元を、硝子の窪みが細く伸び、樋となって水が流れていた。

涌水はうっすらと光輝いているように見えた。

 光を追って、何も捉えていなかったこの部屋に、初めてチルトは、ものを眼にした。

生えるものを、眼にした。

「オレンジの樹。」

 女の子は口を開いて言った。

 チルトは彼女の背とともに、その樹を見つめた。

 樋の水が流れ込む、それは小ぶりの、硝子の樹だった。

隆々とした幹も、傘のように広がった枝も、深翠色の葉も、全てが鮮やかな硝子だった。

 それだけなら、チルトにも見慣れている光景だ。

樹は塔内でも昨日の夜中くらいでしか見たことのない珍しいものだが、硝子で作られているのはいつものことだ。

「あの実、」

 しかし、樹には一つだけ実がなっていた。

 その実はもちろんオレンジなのだが、女の子を除いた背景の中で、あれだけ光沢がない。

本物のようなのだ。

 加えてその実は、まるでガス燈のように、暖色に輝いて迷路を照らし出しているのだ。

チルトは、実を模してつくられたランタンの類ではないかと疑って、眼をしばたかせて凝らしたが、どう見ても、その質感のある表皮が、うっすらと輝いている。

「あの樹はね、」

 チルトの言葉に呼応したのか、女の子は言葉を紡ぎ始める。

「昔は本物の樹だった。硝子何かではなく、生きた植物だった。今も生きているけど、段々と硝子になってしまったの。残っているのは、あのオレンジだけ。」

 しかし、誰にも向けられていないようにも思えた。

言うと、彼女はすぐに歩き出す。

「待って。」

 また素っ気なく行こうとする彼女を、チルトは急いで引き止める。

 駆け寄って、バケツに入れていた硝子細工を取り出す。

ブレザーの裾を引っ張って、彼女に手渡す。

「これ、落としたでしょう。」

 ぎこちない、手探りするような動作で、彼女は受け取る。

振り向いてはいたが、視線は床に落ちていた。

「、ありがとう」

 呟くと、彼女は迷路に消えてしまった。

チルトはもう少し、今度こそ話してみたかったが、これ以上引き止めることができなかった。

 しかし、彼女は返事をした。

ありがとうと、お礼を言った。

 そのことに、チルトは高揚しながらも、授業の時から感じていた「抜け落ちているもの」に、チルトは気付いた。

「そうだ、」

 それは彼女が、いつも大切そうに首から掛けていたものだった。

「金色のペンダントだ。」


 

 彼女と別れてから、チルトは迷うと思っていた迷路を難なく戻ることができた。

 まるでチルトが、あの階にあれ以上いることを拒むようで、迷路から追い出されたかのようだった。




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