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結局、蒼真さんのすごい迫力に押され、私はあっという間に学生時代から一人暮らしをしていた部屋を引き上げ、蒼真さんのマンションへと引っ越したのだった。まだまだ毎日緊張しているが、やっと少しずつこの部屋の生活に慣れてきた。
一緒に住むようになって、分かったこと。それは、蒼真さんはとても忙しいと言うことだ。平日は、朝は一緒に家を出るが、夜は帰ってくるのが0時を過ぎることもしばしば。土日も出張や会食などで飛び回っていたり、何かの式典に呼ばれているから、参加する、などと言って朝早くに出かけていってしまうことがほとんど。
珍しく蒼真さんがいる休日の朝。ふたりで朝食を食べに出かけることになり、玄関を出ると、少しだけ冷たい風が頬に触れた。
「寒くない?」
「うん、大丈夫。」
答えながら、ほんの少しだけ駆け足で歩幅を合わせる。リーチが違うから仕方がないけれど、本当に、何であんなに足長いんだろう。
少し早足で歩いていると、蒼真が気づいて少しゆっくり歩いてくれる。そして、ふいに手を差し出される。その優しい手にそっと、自分の手をのせる。
これは、まだ慣れない。蒼真さんがまさか手を繋いだりするタイプだとは思いもしなかった。でも、手を繋ぐと心なしか嬉しそうな空気になるからつい拒めないのだ。
隣にいるのが自然になりつつあるのに、まだ完全には慣れない。
少し前。あの、パーティーの夜。蒼真さんの部屋で休むことになった翌朝、蒼真さんが買ってきてくれたクロワッサン。本当に美味しくてずっと忘れられず。一人で行こうかと思ったけれど、せっかくだったら蒼真さんと行きたいなと思っていて。
今朝、起きた時に朝食を食べに行かないか、と蒼真さんに誘われたので、「前に買ってきてくれた、クロワッサンのお店に行ってみたい!」と、わがままを言ってみた。
蒼真さんは少し驚いた顔をした後、嬉しそうに笑って、じゃあ、そうしようか、と言ってくれた。
カフェに入ると、カフェに入ると、焼きたてのバターの香りがふわっと広がった。
「わあ……いい匂い。この前、すごく美味しかったから、このお店、蒼真さんと来てみたかったんだ。」
ショーケースに並ぶクロワッサンは、どれもきれいに焼き色がついていて、見ているだけでわくわくしてくる。
「どれがいい?」
「えっと……プレーンと、あとこのチョコがかかったのがいいな。美味しそう。」
「いいね、それ。俺もそれにしよう。」
少し迷って指をさすと、蒼真さんは楽しげにうなづいて、店員さんに注文をした。
「双葉は、カプチーノにする?」
「うん。」
「では、ホットコーヒーとカプチーノも1つずつ。」
席に座ると、窓際にやわらかい光が差し込んでいた。向かい合って座ると、可愛らしい小鳥が飛んでいる楕円のお皿に乗せられたクロワッサンをひと口かじる。
サクッと軽い音がして、バターの香りが広がる。
「……やっぱり美味しい!」
思わず笑うと、蒼真がわずかに目を細めた。
「そういう顔、よくするね。」
「え?どういう顔?」
「美味しい時に、幸せそうな顔を良くしてる。」
「だって幸せだもん。」
少しだけ照れて、視線を逸らす。そんなにわかりやすいかな。でも、幸せなのだ。この日常が。大好きな人と、美味しいものを食べる。これだけで、私は幸せなのだ。
カプチーノをひと口飲む。ああ、カプチーノも美味しい。落ち着いた空気。会話は多くないのに、不思議と安心する。
「……ありがとう」
「ん?何が?」
「連れてきてくれて」
少しだけ間があって。
「俺も、双葉を連れて行きたいと思ってたんだ。あの朝食べた、クロワッサンが忘れられなくて。」
「私もそうなの。あの朝食べたクロワッサン、本当に美味しかったよね。幸せの味って感じだった。」
その時。テーブルの上に置いていた手に、ふいに蒼真さんの指先が触れた。一瞬、びくっとする。どうしても、まだ慣れない。蒼真さんは何も言わない。でも、優しく手を握ってくれる。
「幸せの味、か。確かに。そうだな。」
最高の朝食を堪能して、店を出ると、外の空気が暖かくなっていた。




