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水瀬さんの部屋は、海辺のホテルから、本当に近くて、一目で一等地だとわかるところに立っていた。エントランスに受付があって、管理人の方が立っている。少しその方と水瀬さんが話した後、エレベーターにカードキーをかざすと、ボタンも押さずにものすごい高さまで上る。
エレベーターのドアが空いたらそこは水瀬さんの部屋だった。驚きすぎて声が出ない。
部屋に入った瞬間、静かな空気に包まれる。整いすぎていて、生活の気配がほとんどない。
「こちらへ」
短く言って、ソファへと促される。足元が少し頼りなくて、言われるままに座り込む。
「すぐ戻ります」
それだけ言って、水瀬は一度離れる。その距離が、少しだけ安心する。戻ってきた時には、グラスと、濡らしたタオルを手にしていた。
「少し、冷やした方がいい」
言いながら、隣に腰を下ろす。頬に、ひんやりとした感触が触れる。
「……すみません。お役に立てると思ったのですが、結局、ご迷惑をおかけしてしまいました。」
「迷惑だなんて思っていません。お願いしたのは私ですし。そして、シャンパンが結構進んでいたのに止めなかったのも私だ。もう少し早く声をかけるべきでした。すみません。」
「そんな、謝らないで下さい!たくさん飲んでしまった私が悪いんです。」
だって、とても美味しくて、軽い飲み心地だったのでつい。緊張してるのもあってどんどん飲んでしまったのだ。
「少し、横になれますか」
穏やかな声に頷く。水瀬さんは、私の姿を見た後暫く考えてから、少しお待ちください。と言って、そのまま奥のクローゼットへと消えた。数秒後、戻ってきた彼の手には、シンプルなTシャツとハーフパンツ。どちらも無駄のないデザインで、けれど一目で質の良さが分かる。
「もしよろしければ、こちらに着替えますか。」
差し出された服を見て、少し考える。確かに、このドレスのままでは、とても休める状態ではない。ドレスがシワになってしまうのも悲しいし。ここはもう、ありがたくお借りしよう、と腹を括る。
「……ありがとうございます」
そっと受け取ると、ほんのりと柔らかい香りがした。
「奥の部屋を、使ってください」
視線を外しながら言うその仕草が、妙に紳士的で。余計に意識してしまう。
カチャリとドアを開けて、奥の部屋へ行くと、そこはベッドルームだった。シンプルな黒い寝具に、大きいキングサイズのベッド。ベッドサイドにはテーブルとランプがあり、本が2冊、重ねて置かれている。じっくり見てしまっている自分に驚き、だめだ、早くこの部屋を出なくては、と焦燥にかられる。慌てて着替えを済ませて、そっと戻ると、水瀬さんは窓際に立って、外を見つめていた。
すごく絵になるなぁ。なんて暫く眺めながらぼーっと考える。一方私は、Tシャツは思った以上に大きくて、肩が落ち、袖は肘のあたりまでかかる。ハーフパンツも、ウエストを押さえないと少し緩い。まるで、服に着られているみたいだった。
「……すみません、お借りしてしまって。」
水瀬さんが一瞬だけこちらを見る。その視線が、わずかに止まる。けれど、すぐに逸らされた。やっぱり変かな。そう考えてしゅんとしていると、柔らかい声がかけられる。
「ドレスよりはその方が、楽でしょう」
「はい……すごく」
小さく笑う。布が肌に触れる感覚が、思った以上に心地いい。それに、優しい香りがして、どこか、安心する。
「では、暫く横になって休んでください」
水瀬さんがベッドの方へと視線を向ける。さすがに、あのベッドでは緊張してしまって、休めないと思うのだけれど…。
「あ、あの、ソファをお借りしてもいいですか?」
「でも、ソファですと休んでいただくには狭いですし、大丈夫。シーツは今朝取り替えたばかりですので、きれいです。」
よくわからない説得をされて、仕方なくベッドへと案内される。だって、このベッドは、毎晩水瀬さんが眠っている場所だよね。そう思った瞬間、胸の奥がわずかに強張る。
「では、……お借りします」
小さく呟いてから、そっと腰を下ろす。寝具はとても柔らかくて、促されるまま体を横たえると、マットレスが静かに沈み込んで、背中にぴたりと沿う。思わず、息が漏れる。包み込まれるような感覚。掛け布団も、軽いのにあたたかくて、指先までふわりと覆われる。部屋は間接照明だけで照らされていて、輪郭のやわらかい光が、空間を静かに満たしている。ホテルとは違う、けれど、それ以上に整えられた空間。
どうしよう、緊張しそうと思っていたのに、何だか本当に落ち着く。そう思ってしまう自分に、少し戸惑う。目を閉じた瞬間。さっきまで張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていく。体の力が抜けていくのが、はっきりと分かる。
呼吸が、深くなる。……あれ?私、不思議なくらい、安心している。知らないはずの場所なのに。むしろ、ここだから、なのかもしれない。その考えにたどり着く前に、意識が、ふっと沈んでいく。まぶたが、重い。抗えない眠気に、身を委ねた。
目を閉じる直前、ベッドのそばに腰掛ける水瀬さんの気配を感じる。近すぎず、離れすぎず。その距離のまま。静かに、見守っているようだった。
目が覚めたとき、部屋は静かだった。体は、思ったよりも軽い。ゆっくりと上半身を起こす。少しだけふらつくが、もう大丈夫そうだった。ベッドから降りて、リビングへと向かった。
リビングでは、ソファに座りながら、本を読んでいる水瀬さんがいた。その正面には、夜景が見える大きな窓がある。綺麗だなぁ。夜景がこんなに綺麗に見える部屋に住んでるなんて、すごいな。なんて、考えていると、水瀬さんが気配を感じたのか、振り返った。
「体調は、いかがですか。」
「……もう、大丈夫です」
少しだけ笑う。それから、また窓の方へ視線を戻す。
「水瀬さんは——」
「その呼び方。少し、違和感がありまして。」
隣に並ぶ気配を感じる。
「マネージャー時代に呼ばれていたからかな。もしできたら、蒼真、と呼んでいただけませんか」
一瞬、言葉に詰まる。
「え……それは……」
戸惑う。でも、これ以上は、もう、だめだ。私は進めない。
「……あの」
自分でも、声が少しだけ揺れているのがわかる。
「今日、すごく楽しかったです」
夜景を見たまま、続ける。
「でも、やっぱり……水瀬さんって、私とは違う世界の人で。今日、すごく思い知らされて」
あの会場の空気を、思い出す。
「……私、場違いでしたし。……それに。このままだと、……好きになってしまいそうで。もう、これ以上は、だめだと思うんです」
夜景が、ぼやける。どうして。泣くつもりなんてなかったのに。
「だから……もう、会うのもやめにしたいです。」
静かな部屋に、その言葉だけが落ちる。…言ってしまった。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。これで、いいはずなのに。それでも。なぜか、少しだけ苦しかった。




