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あの道と、この道のあいだで  作者: あんばたみや
運命を引き寄せる手
16/19

7

 水瀬さんの部屋は、海辺のホテルから、本当に近くて、一目で一等地だとわかるところに立っていた。エントランスに受付があって、管理人の方が立っている。少しその方と水瀬さんが話した後、エレベーターにカードキーをかざすと、ボタンも押さずにものすごい高さまで上る。

 エレベーターのドアが空いたらそこは水瀬さんの部屋だった。驚きすぎて声が出ない。


 部屋に入った瞬間、静かな空気に包まれる。整いすぎていて、生活の気配がほとんどない。


 「こちらへ」

 短く言って、ソファへと促される。足元が少し頼りなくて、言われるままに座り込む。

 「すぐ戻ります」

 それだけ言って、水瀬は一度離れる。その距離が、少しだけ安心する。戻ってきた時には、グラスと、濡らしたタオルを手にしていた。

 「少し、冷やした方がいい」

 言いながら、隣に腰を下ろす。頬に、ひんやりとした感触が触れる。


 「……すみません。お役に立てると思ったのですが、結局、ご迷惑をおかけしてしまいました。」

 「迷惑だなんて思っていません。お願いしたのは私ですし。そして、シャンパンが結構進んでいたのに止めなかったのも私だ。もう少し早く声をかけるべきでした。すみません。」

 「そんな、謝らないで下さい!たくさん飲んでしまった私が悪いんです。」

 だって、とても美味しくて、軽い飲み心地だったのでつい。緊張してるのもあってどんどん飲んでしまったのだ。


 「少し、横になれますか」

 穏やかな声に頷く。水瀬さんは、私の姿を見た後暫く考えてから、少しお待ちください。と言って、そのまま奥のクローゼットへと消えた。数秒後、戻ってきた彼の手には、シンプルなTシャツとハーフパンツ。どちらも無駄のないデザインで、けれど一目で質の良さが分かる。


 「もしよろしければ、こちらに着替えますか。」

 差し出された服を見て、少し考える。確かに、このドレスのままでは、とても休める状態ではない。ドレスがシワになってしまうのも悲しいし。ここはもう、ありがたくお借りしよう、と腹を括る。


 「……ありがとうございます」

 そっと受け取ると、ほんのりと柔らかい香りがした。

 「奥の部屋を、使ってください」

 視線を外しながら言うその仕草が、妙に紳士的で。余計に意識してしまう。

 カチャリとドアを開けて、奥の部屋へ行くと、そこはベッドルームだった。シンプルな黒い寝具に、大きいキングサイズのベッド。ベッドサイドにはテーブルとランプがあり、本が2冊、重ねて置かれている。じっくり見てしまっている自分に驚き、だめだ、早くこの部屋を出なくては、と焦燥にかられる。慌てて着替えを済ませて、そっと戻ると、水瀬さんは窓際に立って、外を見つめていた。


 すごく絵になるなぁ。なんて暫く眺めながらぼーっと考える。一方私は、Tシャツは思った以上に大きくて、肩が落ち、袖は肘のあたりまでかかる。ハーフパンツも、ウエストを押さえないと少し緩い。まるで、服に着られているみたいだった。


 「……すみません、お借りしてしまって。」

 水瀬さんが一瞬だけこちらを見る。その視線が、わずかに止まる。けれど、すぐに逸らされた。やっぱり変かな。そう考えてしゅんとしていると、柔らかい声がかけられる。


 「ドレスよりはその方が、楽でしょう」

 「はい……すごく」

 小さく笑う。布が肌に触れる感覚が、思った以上に心地いい。それに、優しい香りがして、どこか、安心する。


 「では、暫く横になって休んでください」

 水瀬さんがベッドの方へと視線を向ける。さすがに、あのベッドでは緊張してしまって、休めないと思うのだけれど…。

 「あ、あの、ソファをお借りしてもいいですか?」

 「でも、ソファですと休んでいただくには狭いですし、大丈夫。シーツは今朝取り替えたばかりですので、きれいです。」

 よくわからない説得をされて、仕方なくベッドへと案内される。だって、このベッドは、毎晩水瀬さんが眠っている場所だよね。そう思った瞬間、胸の奥がわずかに強張る。


 「では、……お借りします」

 小さく呟いてから、そっと腰を下ろす。寝具はとても柔らかくて、促されるまま体を横たえると、マットレスが静かに沈み込んで、背中にぴたりと沿う。思わず、息が漏れる。包み込まれるような感覚。掛け布団も、軽いのにあたたかくて、指先までふわりと覆われる。部屋は間接照明だけで照らされていて、輪郭のやわらかい光が、空間を静かに満たしている。ホテルとは違う、けれど、それ以上に整えられた空間。

 どうしよう、緊張しそうと思っていたのに、何だか本当に落ち着く。そう思ってしまう自分に、少し戸惑う。目を閉じた瞬間。さっきまで張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていく。体の力が抜けていくのが、はっきりと分かる。

 呼吸が、深くなる。……あれ?私、不思議なくらい、安心している。知らないはずの場所なのに。むしろ、ここだから、なのかもしれない。その考えにたどり着く前に、意識が、ふっと沈んでいく。まぶたが、重い。抗えない眠気に、身を委ねた。


 目を閉じる直前、ベッドのそばに腰掛ける水瀬さんの気配を感じる。近すぎず、離れすぎず。その距離のまま。静かに、見守っているようだった。




 目が覚めたとき、部屋は静かだった。体は、思ったよりも軽い。ゆっくりと上半身を起こす。少しだけふらつくが、もう大丈夫そうだった。ベッドから降りて、リビングへと向かった。

 リビングでは、ソファに座りながら、本を読んでいる水瀬さんがいた。その正面には、夜景が見える大きな窓がある。綺麗だなぁ。夜景がこんなに綺麗に見える部屋に住んでるなんて、すごいな。なんて、考えていると、水瀬さんが気配を感じたのか、振り返った。


 「体調は、いかがですか。」

 「……もう、大丈夫です」

 少しだけ笑う。それから、また窓の方へ視線を戻す。

 「水瀬さんは——」

 「その呼び方。少し、違和感がありまして。」

 隣に並ぶ気配を感じる。

 「マネージャー時代に呼ばれていたからかな。もしできたら、蒼真、と呼んでいただけませんか」


 一瞬、言葉に詰まる。

 「え……それは……」

 戸惑う。でも、これ以上は、もう、だめだ。私は進めない。

 「……あの」

 自分でも、声が少しだけ揺れているのがわかる。

 「今日、すごく楽しかったです」

 夜景を見たまま、続ける。

 「でも、やっぱり……水瀬さんって、私とは違う世界の人で。今日、すごく思い知らされて」

 あの会場の空気を、思い出す。

 「……私、場違いでしたし。……それに。このままだと、……好きになってしまいそうで。もう、これ以上は、だめだと思うんです」

 夜景が、ぼやける。どうして。泣くつもりなんてなかったのに。

 「だから……もう、会うのもやめにしたいです。」


 静かな部屋に、その言葉だけが落ちる。…言ってしまった。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。これで、いいはずなのに。それでも。なぜか、少しだけ苦しかった。



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