20.アデルの出会い
馬車は軽快な音を立て、どこまでも広がる農村地帯を走り続けた。
サイラスとアデルの間に生まれた沈黙も、広大な景色を眺めながら一定のリズムで揺られているうちに気にならなくなってきた。
「アデル、この石橋を渡ると、母の実家であるサヴィニ伯爵家の領地に入るよ」
「伯爵領は、王国でも有数の穀倉地帯ですよね」
「そうだな、質の良い小麦ができる。それと、最近は違う方面にも力を入れているのだけど、知っているかな」
「スパ(温泉施設)ですか」
「うん。アデルはこれまで温泉地に行ったことがある?」
「いいえ。私は王都の学園都市で生まれ育って、両親はともに学者で研究一筋でしたから、家族で行楽に出かけたことがありません。それに温泉というと、お年を召した方が、リウマチに効くとか皮膚病に効くとか話しているのを聞きますから、療養のイメージが強いです」
「実を言うと、俺もそうだ。以前は、療養のために何日もかけて馬車で出かける意味が分からなかったが、これからは大きく変わるよ。というか、すでに変わりつつあるな」
「どんな風にですか」
アデルは興味津々だ。
「この伯爵領の温泉地もかなり先端を行っている。見たいかい?」
「もちろんです!」
アデルが勢い込んで答えると、サイラスは満足そうに笑って言った。
「じゃあ、今日は温泉地のホテルに泊まって、少しゆっくりしようか」
この提案に、アデルは大きく頷いた。侯爵家の上等な馬車とはいえ、長時間となるとお尻が痛くなってくる。後続の普通の馬車に乗っている者たちは、さらに大変だろう。
「あ、ですが、寄り道しても大丈夫でしょうか。予定通りに着かなくなるのでは」
「構わないよ。元々、サヴィニ伯爵家が経営するホテルに宿泊する予定だったんだ。アデルに会うのを楽しみに待っている人がいるからね」
「私にですか」
アデルは心当たりがなくて、首を傾げた。
「母の姉だ。先日の王宮での夜会には欠席していたから紹介できなかった。早く会わせろと催促が来ていてね。自分が王都に来れば良いのに、温泉町を一大リゾート地にする計画に夢中で、現地を離れたくないらしい」
「侯爵夫人のお姉様は確か・・・」
アデルは、親族の家系図を頭に思い浮かべた。
「婚家から出て、サヴィニ家に戻った。夫であるボアルネ伯爵に先立たれた時、伯母は女児しか産んでいなかったからね。どんな話し合いがあったか分からないけど、伯母はあっさり帰ってきた。わだかまりはないみたいだし、姓もボアルネのままだ。今、とても生き生きしているから、それで正解だったんじゃないかな」
「サイラス様から見て、伯母様はどんな方ですか。侯爵夫人と似ていらっしゃいますか」
「いや、母よりずっとパワフルだ。未亡人に怖いものなしって感じで、我が道を行く人かな。とにかく強い」
それを聞いたアデルの腰が引けたように見えたので、サイラスは誤解のないよう付け加えた。
「押しは強いかもしれないけど、理不尽なことは言わないから大丈夫。そして、細やかな配慮ができる上に、人を乗せるのが上手い。アデルもいつの間にか手伝わされているかもしれないよ」
「心しておきます。でも、温泉リゾート地ってどんなでしょうね。これから見られるなんて、ワクワクします」
予想と違ってアデルは怯えてなどいなかった。
「巻き込まれる気満々じゃないか?」
「だって、温泉リゾートなんて初めてですし、どんな娯楽設備があるのか、どんな風に楽しむのか知りたいです。もしかしたら、ベルトラン領にも活かせる発見があるかもしれないでしょう?」
アデルの瞳が輝きだした。
ああ、アデルはこういう女性だった、とサイラスは今更のように思い出す。好奇心と向学心に満ち溢れ、新しいことや、人の考えを聞くことが大好きだ。サイラスは滞在を少し延ばすことになるかもしれないと、侍従のバティストに伝えておこうと思った。
馬車は緩やかな丘陵地を上っていた。
「温泉地には、あとどのくらいで着きますか」
アデルは待ち遠しくてサイラスに問いかけた。
「この丘を上り切れば、街が見えるよ」
その言葉通り、窓からの景色が変わった。
小麦の収穫が終わった広大な畑を縫うように川が流れ、その川に沿って水車小屋が点在している。そしてその向こうに、たくさんの建物が連なる街が見えた。
「あそこですね」
アデルの声が弾んだ。
◇ ◇
「ようこそ、サイラス様。アデル様。お待ちしておりました。さあ、どうぞ、こちらへ」
馬車から降りて挨拶もそこそこに、ホテルのオーナーであるサイラスの伯母の案内で、二人は貴賓客用の談話室に通されそうになった。
「待ってください、伯母上。俺たち馬車で半日揺られて来たので土埃が酷いです。まずは着替えさせてもらえませんか」
「あらあ、高位貴族って面倒くさいわね。先にお茶で喉を潤してから着替えたっていいじゃないの。私はずっとあなたたちに会えるのを楽しみに待っていたのよ。ねえ、アデル様。あなたは子爵家出身と聞いたわ。土埃くらい気にしないわよね。侯爵家なんて肩が凝るでしょう?」
「はい、私個人としましては、羊と遊び回っても平気なので気にしませんが、今はサイラス様の妻となりましたので、相応しい自分でありたいと努めています。お見苦しい私ではなく、万事整えてもらって非の打ち所のない姿で参りますので、是非ともしばらくの猶予をいただきたいと存じます」
サイラスの伯母は、アデルの素直なのか真摯なのか不遜なのか、判断に困る言葉に逆に冷静になり、
「そうね、少し急ぎ過ぎたかもしれないわ。では、後ほど改めてご挨拶しましょう」
そう言って、サイラスたちを部屋に案内するよう支配人に指示を出した。
「助かったよ、俺一人なら押し切られていた」
廊下を並んで歩きながらサイラスが言った。
「そうですか。すぐに分かっていただけたではないですか。それに、理不尽なことは言わない方なのでしょう?」
「まあ、そうだな。だけど、細やかな配慮ができるというのは撤回したくなってきた」
サイラスは早くもこの滞在が、自分のコントロールできないところに転がっていきそうな予感がしていた。パワフルな伯母と、明後日の方向にのめり込む癖のある妻アデル。相乗効果でどこに駆け出していくか分からない。サイラスは黙って優秀な御者になろうと決めた。
しばらくして、侍女の手により隙のない貴族夫人に仕立ててもらったアデルは、サイラスの伯母であるエレオノール・ボアルネ伯爵夫人に挨拶した。
「まあまあまあ! 侯爵家の侍女はさすがね。これはアデル様が『非の打ち所のない姿』とご自分で言うのも納得ね。確かにこの形で挨拶をした方がずっと良いわね。先ほどの『後で着替えたって良い』というのは訂正するわ。このホテルも、これからたくさんの貴族の方々をお迎えするのだから、そういうところもしっかりしないとダメね」
ボアルネ伯爵夫人は潔く反省の言葉を述べると、すっと居住まいを正した。
「私は、サイラス様の母親アドリアーヌの姉、エレオノール・ボアルネよ。夫と死別したので実家に戻ってきたの。と言っても、伯爵家の屋敷には戻らず、このホテルに住んでいるわ。これから事業を展開するには、ここにいるのが一番効率的ですもの。案内も私に任せてね」
「はい、よろしくお願いいたします。あの、ボアルネ伯爵夫人とお呼びすれば宜しいでしょうか」
「ここではエレオノール伯母様で良いわ。その方がお互い気楽でしょう」
「では私のことも様を付けずにお願いします」
「そう? では、アデルさんとお呼びするわね」
アデルとエレオノールの初対面の挨拶は滞りなく済んだ。二人とも、そんなことより、という感じがありありと見えたので、サイラスは苦笑しつつも、
「さっそく案内してもらいましょうか」
と、ソファから立ち上がった。
アデルはエレオノールの後をウキウキとついて行く。
「温泉治療と言っても一日中浸かっているわけじゃないから、長く滞在してもらうためにはそれ以外の時間の過ごし方が重要なのよ」
そう言って連れて行かれた先には、読書室やビリヤード場、喫煙室やサロンがあった。また、音楽家を招いて演奏会を開いたり、劇を上演することもあるという。有名な詩人を招いたり、新聞やゴシップ紙も数日遅れだが届く。ここにいても王都の流行から置き去りにされることはない。
夫人の説明にアデルは興奮し、思いつく限りの質問を浴びせた。それは単に見たままの設備についてだけでなく、鉱泉管理の規則だとか、温泉監督医の配置と言ったあらかじめ持っていた知識を更新するための質問もあった。
あまりの熱意にエレオノールは、サイラスを振り返って、
「ねえ、サイラス様、アデルさんをうちにスカウトしたいのだけど?」
と、あながち冗談とも思えない声音で聞いた。
「止めてください、伯母上。本気にしかねないですから」
「王都の社交シーズンさえ避ければ、年に数か月ここに滞在しても構わないのではなくて?」
「アデルはこれから子育てもあるのですよ」
「あら、もうその予定があるの? おめでとう。馬車に乗っていて大丈夫なの?」
「あ、いや、まだこれからの話です」
「なあんだ、じゃあ、侯爵夫妻もまだお元気なことだし、アデルさんもしばらくは自由にしても良いのではないかしら。あなただって、自分だけのお楽しみがあるのでしょう?」
伯母のエレオノールは、サイラスに愛人のことを当てこすった。それは正しくサイラスに伝わった。
「そのことは、アデルと彼女の間で折り合いがついています」
「本当に?」
エレオノールは真顔で問うた。
「え?」
「人の気持ちなんて、変わるものよ」
視線を逸らした伯母のさり気ない言葉は、サイラスの胸に刺さった。
アデルには聞かせたくない会話だったので、サイラスはすっと伯母から離れ、壁に貼ってある王国の地図を見つめているアデルに近づいた。
「何を見ているの」
「国内にもこんなに鉱泉があちこちにあるのですね。それぞれに適応症が書いてあるのでそれを見ていました」
「それで何を考えていたの」
「王都からだと、遠い所は馬車で十日もかかるでしょう。近い所でもニ、三日はかかります」
「そうだね」
「鉄道が開通したら、ずいぶん様変わりするだろうと考えていました。客層も変わるでしょうし、訪れるお客の数も変動が激しくなるでしょう。どれだけ要望に応えられるかで、淘汰が進むかもしれません」
「アデル、君は経営者側の立場で見ているの? 今日はお客として楽しもうよ」
「そうですね。お客側の視点で考えるのも大事ですね」
アデルは素直だ。
サイラスは、このままでは伯母の思う壺だと不安になり、
「さあ、せっかく来たんだし、俺たちもビリヤードかボードゲームでもやりに行こう」
と、アデルを急き立てて、先ほど覗いた遊戯室に向かった。
それから三時間。
「アデル、これで最後だよ」
「はい、コツは掴みました。計算も間違いありません。最後のゲーム、本気で行きます」
「アデル様、本当にこれで最後ですからね。ボアルネ伯爵夫人との晩餐のためのお支度が間に合わなくなります」
サイラスと侍女のエリザから念を押されているのは、ビリヤードのキューを片手に凛々しい立ち姿のアデルである。
遊戯室では、チェスやカードゲームなど一通りやった後、ビリヤードをすることになった。最初のうち初心者のアデルは、キューで球を撞くことすらままならなかった。しかし、球を真っすぐ撞けるようになると、そこからは格段に進歩した。
「ここからは理屈が通じるので大丈夫です」
自信満々に宣言するアデルだが、
「入射角と反射角が同じだと思っているうちはまだまだだね。壁のクッションも計算に入れないと」
と、サイラスが易々と9番の球をポケットに落とし、アデルの連敗が止まらない。もう一度、もう一度、と子供のようにせがみ、今に至るというわけである。
「悔しいです。最後まで負け続けてしまいました」
「経験の差だよ。あの調子で練習を続けたら、俺は近いうちに負けるな」
「ここを出たら練習の機会がないのが残念です」
遊戯室で二人は存分に楽しんだ後、着替えてサイラスの伯母であるボアルネ伯爵夫人と晩餐をともにした。
そこでもアデルは、温泉リゾート地の今後の展望を聞き、再訪を約束した。
「さて、私もアデルさんと話したことで色々な気づきがあったわ。新しいことも思いついたし、実に有意義な時間だったと思うの。ありがとう、アデルさん。気が向いたらいつでも来てね。サイラス様が忙しそうなら、アデルさんだけでも歓迎するわ」
「伯母上、人の妻を誘惑するのは止めてください」
サイラスが抗議するも、伯爵夫人は右から左へ受け流す。
「私はこれからアデルさんと二人で話したいことがあるの。サイラス様はサロンか遊戯室に行って、顔を見せていらっしゃい。侯爵家の嫡男が訪れる温泉ということで格が上がるのよ。協力してくれるわね。奥様がこれだけ役に立ってくれたのですもの、夫のあなたも一働きしてきてちょうだい」
「様付けで俺を呼ぶわりに、扱いは昔のようですね。呼び方も前のように呼び捨てでいいですよ」
「あらそう? 結婚して次期侯爵様ということで敬意を表したのだけど、お気に召さなかった?」
「敬意を感じないので、公の場でなければ以前のように呼んでください」
「分かったわ、サイラス。そのままサロンで社交をしてきてちょうだい」
「御意に」
サイラスは侍従のバティストとサロンに向かった。
ボアルネ伯爵夫人とアデルは、それぞれの侍女を連れて談話室に向かった。
「さあ、邪魔ものがいなくなったから、ここからは女性だけの内輪話よ。あら、緊張しないで。小姑根性を発揮するつもりはないから。ただ、私が経験したことから言えることもあるから、聞いてほしくなっただけなの」
夫人は紅茶を一口飲んでから話を続けた。
「私と夫は親が決めた結婚相手だった。穏やかな人で、私をとても大事にしてくれたわ。結婚してすぐに女の子が生まれたけれど、その子の後は続かなかった。それでも、将来は婿を取ればいいと夫は言ってくれたから、私も安心していたの」
ところが、夫の伯爵が馬車の事故で亡くなった。弟夫妻にはすでに男の子が二人いたので、弟が爵位を継ぐことになった。それに異論はなかった。未亡人となったボアルネ夫人は、持参金をそっくりそのままと、かなりの金額を上乗せしてもらって実家に帰ることになった。血の繋がった娘一人を頼りに、夫人がボアルネ家に居残るのは、誰にとっても望ましいものではなったからだ。
だからと言って、実家の屋敷に戻るのも肩身が狭い。夫人は考えた末、領地にある温泉町を、これから敷かれる鉄道で遠出をする客を見込んで、温泉療養リゾート地へと発展させる計画を立てた。自分の金と実家からの援助を受け、今まさに実現の途中である。鉄道が敷かれてからでは遅い。駅を作りたくなるような街を先に作ってしまうのだ。
ボアルネ夫人は言う。
「男なんて当てにならないわ。君を幸せにすると言ったけれど、ある日突然この世からいなくなってしまったのよ。私の産んだ子が男児だったなら、まだ婚家に私の居場所があったかもしれない。でも、成人するまで先が長いでしょう。そんな危うい立場は嫌だったの。だいいち領民にも申し訳ないわ。
女性って、爵位のある家に嫁いでも、その立場は全然盤石ではないのよ。ねえ、アデルさん、サイラスには愛する人がいるのでしょう? そして子供はあなたともうけるつもりでいる。バカね、あの子。そんなに器用じゃないくせに」
「そのことは承知で結婚しましたから」
「だけど、一緒に暮らせば情が湧くでしょう。できれば早く子を産んだ方が良いと思うわ。私のようにならないように。同時に、何かあっても自立できる力をつけなさい。もし、万が一、サイラスと別れることになったら、ベルトラン家にいられない状況に陥ったら、私を頼りなさい。一緒に働きましょう」
ガチャリ。
「伯母上!」
「なあに、サイラス。ノックもしないで、礼儀はどうしたのかしら」
「礼儀と言うなら、人の妻を勝手にスカウトするのも無作法ですよ」
「はいはい。じゃあ、アデルさん、いざという時には相談に乗るわよ。明日は温泉も楽しんでね」
ボアルネ夫人は、客人向けの極上の笑顔を浮かべて言った。
こうしてアデルはほとんど口を開かぬままに、ボアルネ伯爵夫人との話し合いを終えたのだった。
サイラスとアデルは揃って談話室を辞した後、特に会話もなくそれぞれの部屋に入った。
サイラスは伯母がアデルに余計なことを吹き込んだのではないかと心配になり、侍女のエリザを呼んで、どんな話をしていたのか確認した。
「伯爵夫人の身の上話がほとんどでした」
「本当か?」
「早くお子をもうけた方が良いとアドバイスされていましたね」
「そうか」
どうやら普通のことしか話してなかったようでサイラスは安心した。それにしても、子供か。そろそろ提案してみようか。そう思うと、頭の隅にイブリンの悲しそうな顔が浮かんで、サイラスはまた王都に帰ってから考えようと先送りするのだった。
一方のアデルは、イブリンのことは今更どうにもならないことは分かっているので、要は自分の心持ち次第だと思っている。ボアルネ伯爵夫人の話はもっともで、自分もさっさと男の子を産んで、あんなふうに精魂傾けて取り組めるものが見つかれば楽しいかもしれないと思った。それが、ベルトラン家のためになることであれば更に言うことはないのだが。
こうしてアデルは、パワフルに生きるボアルネ伯爵夫人と出会ったことで、これからの人生を具体的に考えなくてはならないと自覚したのであった。
長くなりましたが、読んでいただき、ありがとうございました。
※フランス温泉療養リゾートをモデルに書いています。
・温泉と言えば日本の温泉とローマの共同浴場と思っていたのですが、世界各地にたくさんの温泉保養地が、古代から20世紀まで連綿と続いていたことに驚きました。フランスでは国を挙げて鉱泉を管理し、温泉監督医が絶大な権限を有していたりと、大規模な事業になっていて驚きました。
・私のお話は、19世紀初期~中期の、フランス産業革命頃のイメージで書いていますが、当時のフランスはすでに王制が崩壊しているので、完全にナーロッパな世界です。現実と乖離していてもツッコミはなしでお願いします。




