第12話 砕けた壁
石甲蜥蜴が、拓真さんの大盾に激突した。
ガンッ!
鈍い音が通路に響く。拓真さんは左足を引き、盾を斜めにして突進を受け流した。石甲蜥蜴は進行方向を逸らされ、前脚を滑らせて体勢を崩す。
「そら、今だ!」
その横から黒い狼が飛び込んだ。
石甲蜥蜴の後ろ脚に噛みつき、強引に引っ張る。魔物が逃れようと首を振ったところへ、律さんが踏み込んだ。
脚に装着した金属製の装備が、低い駆動音を響かせる。一瞬で距離を詰めた律さんは、右腕から展開した刃を石甲蜥蜴の喉の下へ突き込んだ。
刃を引き抜き、一歩下がる。石甲蜥蜴は身体を痙攣させ、そのまま動かなくなった。
「……終わり」
「おう、いい感じだな!」
拓真さんが盾を下ろした。
俺は思わず、倒れた石甲蜥蜴と律さんを見比べた。
早い。ほとんど何もできないうちに、魔物が倒されてしまった。
「どうだった、彩人くん?」
玲奈さんに尋ねられ、俺は正直に答えた。
「すごかったです。俺たちが戦ったときは、もっと苦労したんですけど……」
「慣れもあるからね。それに、この三人で戦うときは大体こんな感じかな」
玲奈さんの足元では、狼が何事もなかったように座っていた。
数日前、協会で律さんの計測器を嫌がっていた獣霊だ。あのときは大きな犬にも見えたが、戦っている姿には近寄りがたい迫力がある。
「律、こいつの鱗は使えそうか?」
拓真さんが倒した石甲蜥蜴を指さした。
「うん。背中はほとんど傷ついてない」
律さんがしゃがみ込み、鱗を調べ始める。
「できれば、次も同じ感じで倒してほしい」
「任せとけ!」
今日の目的は、石甲蜥蜴の素材採取だった。
数日前、探索者協会で知り合った玲奈さんたちに誘われ、俺と紬は再びこの石造りの迷宮を訪れている。
律さんが自作している機械装備に、石甲蜥蜴の鱗が使えるかもしれないらしい。
探索に出る前、玲奈さんからは浅い階層だけを回ること、危険があればすぐ撤退することを伝えられていた。
俺としても異論はない。前に来たときは、たった三匹を倒しただけで腕がずいぶん疲れたのだから。
「彩人、槍の調子はどう?」
隣にいた紬が尋ねてきた。
「悪くない。前よりは扱いやすくなったと思う」
「練習したもんね」
「ああ。付き合ってくれて助かったよ」
手にした槍を少し持ち直す。
石造りの通路は、横幅があまり広くない。以前は槍の後端を何度も壁へぶつけたが、今回は握る位置を調整し、なるべく余計な動きをしないようにしていた。
まだ思い通りに扱えるとは言えないものの、訓練の成果は少しずつ出ている。
「彩人くん、次は自分でも戦ってみる?」
玲奈さんが声をかけてきた。
「いいんですか?」
「もちろん。そのために来たんでしょ?」
「はい!」
俺が即答すると、拓真さんが大盾を肩に担いだ。
「よし。次は俺が前に立ってやる。お前は後ろから突いてみろ」
「お願いします!」
先輩たちの戦いを見ているのも面白いが、せっかく迷宮へ来たのだから自分でも戦いたい。
それに、あれだけ簡単に魔物を倒す拓真さんと一緒なら、どんなふうに槍を使えるのか試してみたかった。
◇
しばらく進むと、太い石柱が並ぶ広間に出た。天井は高く、奥には二本の通路が伸びている。
「ちょっと待ってね」
玲奈さんが狼を呼び寄せた。
その身体が青白い光になって消え、代わりに玲奈さんの腕へ光が集まり始める。
現れたのは、一羽の鷹だった。
茶褐色の羽と鋭い嘴。翼を広げると、羽の縁が淡く輝いて見える。
「おお……!」
「この子は偵察が得意なんだ」
玲奈さんが腕を振ると、鷹は天井近くへ飛び上がった。
石柱の間を抜けて旋回し、やがて奥の通路へ姿を消す。
玲奈さんは少しの間、目を閉じていた。
「……右の通路に一匹いるね。こっちへ近づいてきてる」
「見えてるんですか?」
「この子の視界を少し借りてるの。ただ、長くは使えないから、必要なときだけね」
鷹が戻ってくる。
玲奈さんはその身体を光へ戻し、再び狼を呼び出した。
「じゃあ、彩人くんの番にしようか」
「はい!」
「拓真、お願いね」
「おう!」
拓真さんが大盾を構え、右側の通路へ進んだ。俺はそのすぐ後ろにつく。
やがて、床を這うような音が聞こえてきた。
石甲蜥蜴だ。灰色の鱗を揺らしながら、通路の奥から近づいてくる。
俺たちに気づいた魔物は、身体を低くして走り出した。
「来るぞ!」
拓真さんが盾を前へ出す。
石甲蜥蜴がぶつかった瞬間、盾の表面に爪が擦れる音が響いた。
だが、拓真さんは動かない。大盾を押し出すと、魔物の頭がわずかに持ち上がった。
「彩人、右から!」
「はい!」
俺は盾の右側へ一歩踏み出した。石甲蜥蜴の喉元が見える。
槍を突き出すと、穂先が鱗のない部分へ深く入った。
手に伝わる衝撃。
俺はすぐに槍を引き抜き、後ろへ下がった。
石甲蜥蜴は身体を一度震わせると、そのまま盾の前へ崩れ落ちた。
「……倒した」
拓真さんが盾を下ろす。
「ありがとうございます! 盾があると、こんなに突きやすいんですね」
「おう! 前から来るやつは俺に任せとけ!」
「頼りにしてます!」
俺一人だったら、あんなに落ち着いて喉元を狙うことはできなかっただろう。石甲蜥蜴の動きを止めてくれる人がいるだけで、槍の使いやすさは全然違う。
「彩人、今のよかったよ」
紬も近づいてきた。
「ありがとう。次は紬とも一緒にやってみたいな」
「うん。次は私が援護するね」
「頼む」
そんな話をしていたときだった。
カンッ!
カンッ、カンッ!
金属を何かに打ちつけているような音だ。
「……何だ?」
拓真さんが呟く。その直後、女性の声が聞こえてきた。
「誰か! 助けてください!」
玲奈さんの表情が変わった。
「拓真、先に行って!」
「おう!」
拓真さんが大盾を構え、声のする方へ走り出す。
「律はその後ろ。彩人くん、紬ちゃん、私についてきて!」
俺たちも駆け出した。
◇
声の聞こえた先は、通路から枝分かれした小部屋だった。
入り口を抜けた瞬間、俺は息を呑んだ。
右側の壁に、大きな穴が開いていた。人が二人並んで通れそうなほどの穴だ。砕けた石が床一面に散らばり、そのすぐそばに、一人の男が倒れている。
男の右脚は血に染まっていた。
ふくらはぎの外側が大きく裂け、床には血のついた石片がいくつも落ちている。男は壁に背中を預け、苦しそうに顔を歪めていた。
その前で、短剣を握った女性が二匹の石甲蜥蜴と向き合っていた。
「助けて!」
一匹が女性へ飛びかかる。
「伏せろ!」
拓真さんが飛び込んだ。
大盾が魔物を受け止め、身体を弾き飛ばす。床を転がった石甲蜥蜴が起き上がろうとしたところへ、拓真さんの片手斧が振り下ろされた。
硬い鱗が砕け、魔物が動かなくなる。
だが、もう一匹は倒れている男へ向かっていた。
「彩人、右!」
紬の声が飛ぶ。
俺はすぐに走り出した。
石甲蜥蜴が瓦礫の上を駆け、男へ向かって突進する。
「させるか!」
その正面へ回り込み、槍を突き出した。穂先が石甲蜥蜴の胸元に当たるが、硬い鱗に阻まれ、刺さらない。
それでも、俺は柄を握りしめて踏ん張った。
「ぐっ……!」
石甲蜥蜴の勢いが腕に伝わってくる。
突進してきた身体を槍で押し返す。完全には止められなかったが、男のところまで進ませずに済んだ。
魔物の前脚が床を掻いた。
そのまま押し返そうとした瞬間、穂先が鱗の上を滑りかける。
「彩人、そのまま!」
紬が《境界線》を展開した。
石甲蜥蜴が横へ逃れようとしたところで、動きが鈍る。
その隙に、俺は槍を持ち直してもう一度押し込んだ。
石甲蜥蜴が一歩後ろへ下がる。
「律さん!」
「うん!」
すぐ右側から駆動音が響いた。律さんが俺の横を駆け抜ける。
機械装備に押し出された身体が、石甲蜥蜴の側面へ回り込んだ。
右腕の刃が閃く。石甲蜥蜴の前脚の付け根から胸の奥へ向けて刃が深く突き込まれる。
律さんは刃を引き抜き、そのまま横へ跳んだ。
石甲蜥蜴は数歩よろめくと、床へ倒れた。
「……助かった」
俺が息を吐くと、律さんが装備の刃を収めた。
「こっちこそ。止めてくれたから入りやすかった」
「いえ、俺一人じゃ倒せなかったので」
「二人なら倒せたでしょ」
律さんは短く答え、すぐに倒れた魔物から離れた。
紬が俺のところへ駆け寄ってくる。
「彩人、怪我は?」
「大丈夫。腕がちょっと痺れただけ」
「本当に?」
「ああ。どこも噛まれてないよ」
俺が両腕を動かしてみせると、紬はようやく剣を下ろした。
その向こうでは、玲奈さんが怪我をした男のそばへ膝をついていた。
「拓真、入口を見てて。律はあの穴の向こうをお願い」
「おう!」
「分かった」
二人がそれぞれの方向へ移動する。
「大丈夫? 意識ははっきりしてる?」
「……はい。でも、脚が……」
男が苦しそうに答える。右脚からはまだ血が流れていた。
「動かさなくていいよ。今から傷を確認するからね」
玲奈さんは手袋をつけ、救急用品を取り出した。
「紬ちゃん、こっちを手伝ってくれる?」
「はい!」
「彩人くんは、あの女性についてあげて。ほかに怪我がないか聞いてみて」
「分かりました」
俺は短剣を握った女性のそばへ向かった。
女性は顔色が悪く、手が小さく震えていた。
「大丈夫ですか? どこか怪我してませんか?」
「私は……大丈夫です。でも、彼が……」
女性は倒れている男へ目を向けた。
「壁が、いきなり壊れたんです」
「壁が?」
「大きな魔物が、向こう側から突っ込んできて……!」
女性は震える指で、壁に開いた穴を示した。
「角が生えてて、すごく大きくて……。石が飛んできたんです。彼が私を庇ってくれたから、私は無事だったけど……」
その言葉を聞いて、俺は床に散らばった石片へ目を向けた。
鋭く尖った破片が、あちこちに落ちている。こんなものが勢いよく飛んできたら、ひとたまりもない。
「その魔物は、今どこに?」
「分かりません。壁を壊したあと、そのまま走っていって……」
女性が首を振る。
穴の向こうから、律さんの声が聞こえた。
「……大きな足跡がある。蹄みたいな形」
玲奈さんが顔を上げる。
「角があって、蹄の足跡……岩角猪かもしれないね」
「岩角猪?」
「大きな猪みたいな魔物だよ。突進する力が強いんだ」
玲奈さんは穴の縁を見た。
「この壁も、かなり古そうだね。傷んでいたところへぶつかったのかもしれない」
「まだ近くにいるんでしょうか……」
女性が不安そうに尋ねる。
「分からない。だから、ここには長くいない方がいいね」
玲奈さんは傷口を押さえる手を動かさず、拓真さんへ声をかけた。
「拓真、運べそう?」
「おう。任せろ」
「じゃあ、もう少しだけ待って。先に傷の処置を済ませるから」
拓真さんが頷き、入口の警戒へ戻った。
◇
男の傷は深かった。玲奈さんが出血を押さえ、紬が包帯などを手渡している。
俺は女性の荷物をまとめ、床に落ちていた短剣を拾い上げた。
「……すみません」
男がかすれた声を出した。
「こんなことになって……」
「謝らなくていいよ」
玲奈さんは手を止めずに答える。
「今は無事に帰ることだけ考えよう」
男は小さく頷いた。
その顔を見たとき、胸の奥が嫌なふうに縮んだ。
迷宮で怪我をすることは、頭では分かっていた。
この前も、協会で負傷した探索者を見かけたばかりだ。でも、実際に血を流して苦しんでいる人が目の前にいると、知識なんて何の役にも立たなかった。
しばらくして、玲奈さんが手を離した。
「ひとまず処置はできたよ。でも、早く治療してもらわないとね」
「じゃあ、俺の出番だな」
拓真さんが男の前へしゃがみ込んだ。
「兄ちゃん、俺が背負うぞ。ちょっと身体を起こすからな」
「……お願いします」
玲奈さんと紬が男の上体を支え、拓真さんの背中へゆっくり移す。右脚に負担がかからないよう気をつけながら、男の両腕を拓真さんの肩に回した。
「よし、しっかり掴まってろ」
拓真さんは男の脚を支え、ゆっくり立ち上がった。
成人男性一人を背負っているというのに、足取りは安定している。
「……重く、ないですか?」
「これくらいどうってことねえよ。俺を誰だと思ってんだ?」
「……ありがとうございます」
「礼は無事に帰ってからでいい。今は休んでろ」
拓真さんは男の身体がずれないよう支え直し、傷ついた右脚が大きく揺れないよう慎重に歩き始めた。
「律、拓真の盾をお願い」
「分かった」
律さんは壁際に置かれていた大盾を持ち上げ、背中に固定した。
「よし、じゃあ戻ろう。狼を先に行かせるから、みんな離れないでね」
「はい!」
俺たちは小部屋をあとにした。
◇
帰り道は、行きよりもずっとゆっくりだった。
先頭には玲奈さんと狼。その後ろを怪我人を背負った拓真さんが進み、律さんが大盾を持って続く。
俺は女性の荷物を預かり、紬と一緒に後方を警戒していた。
途中、石甲蜥蜴が壁に張りついているのが見えたが、こちらには気づいていないようだった。
玲奈さんが手を上げる。全員が足を止めた。
狼が別の通路を確かめ、戻ってくる。
「……こっちから行こう」
玲奈さんの指示に従い、俺たちは少し遠回りになる道へ進んだ。
怪我人を背負っている以上、戦わずに済むならそれに越したことはない。
紬も《境界感知》を使いながら、周囲を警戒している。ただ、動きを止めている魔物までは分からないため、曲がり角では必ず足を止めて確認した。
拓真さんは一度も弱音を吐かなかった。
背中の男が痛みに顔を歪めるたび、歩く速度を少し落とす。狭い場所では肩が壁に触れないよう身体を傾け、慎重に進んでいた。
俺はその姿を見ながら、自分の腕を握った。
さっき、石甲蜥蜴を槍で押し返したとき。ほんの数秒だったのに、両腕が千切れそうなほど重かった。
もし拓真さんみたいに、魔物の突進を何度も受け止めることができたら。
いや、俺が同じことをしようとしても無理だろう。
だったら、俺には俺のやり方があるはずだ。
「彩人?」
紬が隣から声をかけてきた。
「どうしたの?」
「いや……拓真さん、すごいなって」
「うん。あんなに重そうなのに、ずっと背負ってるもんね」
「ああ」
前を歩く拓真さんは、怪我人の身体を支え直していた。
その横で律さんが何か声をかけると、拓真さんは短く返事をする。
二人とも、行きのときよりずっと静かだった。
しばらく歩くと、ようやく迷宮の入口が見えてきた。
「……着いた」
思わず声が漏れる。
外の明るさが、やけに眩しかった。
迷宮の入口を出ると、協会職員がすぐに駆け寄ってきた。
「負傷者ですか!?」
「はい。右脚に深い傷があります。応急処置は済ませましたが、すぐに治療が必要です」
玲奈さんが状況を説明する。
職員は端末を取り出し、救護担当へ連絡を始めた。
ほどなくして救護班が到着し、拓真さんの背中から男を慎重に引き取っていく。
男は意識があったものの、顔色はよくなかった。
付き添っていた女性は、何度も俺たちに頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました……!」
「彼についていてあげて」
玲奈さんがそう言うと、女性はもう一度頭を下げ、救護班のあとを追っていった。
その姿が見えなくなってから、俺はようやく息を吐いた。
「……疲れた」
「私も」
紬が隣で答える。
魔物と戦った時間は、それほど長くなかった。それなのに、帰り道の方がずっと長く感じた。
「今日は予定と全然違う探索になったね」
「ああ。でも、先輩たちがいてくれてよかったよ」
「うん。私たちだけだったら、あの人を運ぶのも大変だったと思う」
紬の言う通りだった。
拓真さんの力。玲奈さんの判断。律さんの機械装備。
どれも、今の俺にはないものだ。それに、負傷者を守りながら帰るなんてことも、今回が初めてだった。
「彩人くん」
玲奈さんに呼ばれ、俺は顔を上げた。
「さっきはありがとう。石甲蜥蜴を押し返してくれたでしょ」
「はい。でも、律さんが来てくれたときは本当に助かりました」
「ふふ、いい連携だったね。あそこで時間を作ってくれたから、律も横から攻撃できたんだよ」
「俺が止めて、律さんが倒す。ああいう戦い方もできるんですね」
「そういうこと。ただし、一人で全部何とかしようとしないこと。あの場には私たちもいたんだからね」
「はい!」
「でも、すぐに声をかけてくれたのはよかったよ」
玲奈さんはそう言って、俺の肩を軽く叩いた。
そのとき、拓真さんが大盾を受け取りながら口を開いた。
「それにしても、今日は災難だったな」
「素材もほとんど集まらなかったしね」
律さんが工具箱を見下ろす。
「……また来ればいいか」
「おっ、珍しいこと言うじゃねえか」
「別に。怪我人を置いて採取なんかできないでしょ」
拓真さんが一瞬だけ黙った。
「……まあ、そりゃそうだな」
律さんは大盾を返しながら続けた。
「それに、今日の戦闘で脚部装備の調整箇所も見つかったから」
「お前、あの状況でもそんなこと考えてたのかよ」
「動きを止めるときの反応が遅かった。次はもう少し調整できると思う」
「……そうか。次は頼むぜ」
「うん」
二人のやり取りを聞きながら、俺はふと自分の槍のことを考えた。
今日は一匹倒せたし、怪我人を守るために石甲蜥蜴を押し返すこともできた。
けれど、まだ思い通りに使いこなせているとは言えない。
もう少し練習が必要だろう。
それに、律さんの装備みたいに、槍そのものについて調べてみるのも面白そうだ。
そんなことを考えていると、紬が俺の顔を覗き込んできた。
「……彩人、また何か考えてる?」
「いや、ちょっと槍のことを」
「やっぱり」
「何が?」
「帰ったら休もうね。今日はもう訓練しないから」
「……分かってるよ」
先に言われてしまった。
協会へ戻ると、玲奈さんたちは救助の報告をするため、職員に呼ばれていった。
俺と紬も事情を聞かれるらしく、受付の近くで待つように言われる。
「……あの人、大丈夫かな」
椅子に腰を下ろしながら、俺は呟いた。
「早く治療してもらえるといいね」
「うん」
男の血に染まった脚を思い出す。
あれだけの怪我をして、無事に歩けるようになるのだろうか。
もちろん、俺には分からない。ただ、助かったからといって、すべてが元通りになるわけじゃない。
探索者の仕事には、そういう危険もあるのだ。
紬も何か考えているのか、しばらく黙っていた。
そんなときだった。
「黒瀬彩人さん、白石紬さんですね?」
受付の方から、一人の職員が近づいてきた。
「はい」
「少し、お時間をいただけますか?」
「救助の件ですか?」
「いえ。別の件になります」
職員は一度端末を確認し、それから俺たちに向き直った。
「多摩第一迷宮の件で、改めてお話を伺いたいそうです」
多摩第一迷宮。
その名前を聞いた瞬間、俺は顔を上げた。
「あの迷宮ですか? 前にも説明しましたけど……」
「はい。ただ、調査の途中で新しい痕跡が見つかりまして。当時の状況を、もう一度確認したいとのことです」
「新しい痕跡……?」
紬が小さく呟いた。
あの森で倒したレッサードレイク。
本来いるはずのない魔物が現れ、足跡が途中から突然始まっていた。
あれ以来、協会はずっと調査を続けていたはずだ。
「……何か分かったんですか?」
俺が尋ねると、職員は少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「詳しいことは担当者から説明があります。ただ、調査中に問題が起きていまして」
「問題?」
「調査班の一人が、予定の時刻を過ぎても戻っていないんです」
俺は思わず紬を見た。
紬も、さっきまでとは違う表情で職員を見つめている。
「……それって、行方不明ってことですか?」
「現在、捜索班が確認に向かっています」
職員はそこまで答えてから、奥の廊下を示した。
「担当者がお待ちです。こちらへお願いします」
俺は紬と顔を見合わせ、立ち上がった。
協会が調査を続けていることは知っていた。
けれど、新しい痕跡が見つかったうえに、調査員が戻っていないという。
あの森で倒したレッサードレイク。本来いるはずのない場所に現れ、足跡が途中から突然始まっていた魔物。
あれはいったい、どこから来たのだろう。
職員のあとを歩きながら、俺はもう一度、あの日の森を思い出していた。




