第1話 18歳、職業未発現
十八歳になって二週間が経った。
それでも、俺の職業欄は空白のままだった。
「黒瀬。進路票、来週までな」
終礼の最後、担任が机の上に一枚の紙を置いた。
進路最終確認票。第一志望、第二志望、その下には卒業後の希望進路を書く欄がある。大学、専門学校、就職、探索者育成機関。上から順番に眺めていって、最後の欄で目が止まった。
《保有職業》。
そこだけは、何も書けない。
「先生。ここ、また空白でいいんですよね」
「ああ。発現したら、そのとき書き直せばいい」
担任はそれだけ言って、次の生徒の机へ向かった。
特別気を遣われるよりはいい。そう思う一方で、もう何度も繰り返してきたやり取りだからこそ、余計に胸の奥へ引っかかるものもあった。
職業が発現していない人間なんて、別に珍しくない。
三歳で《料理人》が発現した子どももいれば、四十を過ぎて突然《狩人》になった会社員もいる。発現の時期に法則性は見つかっておらず、本人が選ぶこともできない。
十八歳で未発現でも、何もおかしくはない。
頭では分かっている。ただ、同じ教室の半分以上がすでに何らかの職業を持ち、それを前提に進路を決め始めているのを見ると、どうしても自分だけ取り残されているような気分にはなった。
前の席では、《火術師》を持つ男子が探索者育成校の推薦について話している。窓際では《薬師》の女子が、春から研修に入る製薬会社のサイトを友人に見せていた。
俺は進路票を二つに折り、鞄の奥へ押し込んだ。
「顔、怖いよ」
隣から声がした。
振り向くと、白石紬が俺の机に片肘をついていた。
「元からだよ」
「そういう意味じゃない。眉間」
言われて額に触れると、本当に皺が寄っていたらしい。紬はそれを見て楽しそうに笑った。
肩より少し長い栗色の髪。クラスではよく喋る方で、教師相手にも妙に遠慮がない。
白石紬。十八歳。職業は《境界師》。
発現したのは中学二年の頃で、本人から以前聞いた話では、現在のレベルは二十四らしい。探索者のレベルは基本的に個人情報だから、クラスメイトのほとんどは正確な数字までは知らない。
高校生の探索者候補としては、かなり高い。
「また職業のこと?」
「別に」
「はい嘘」
「決めつけ早くない?」
「三年一緒にいるからね。彩人が機嫌悪いとき、大体分かるんだよ」
「怖いこと言うなよ」
「大丈夫。好きな女子までは分からないから」
「もっと怖いわ」
紬が声を上げて笑った。
こういうところが昔から苦手だった。こっちが少し沈んでいても、急に深刻な顔をして慰めたりしない。軽口を叩いているうちに、いつの間にか普通の会話へ戻してしまう。
ありがたいと思っている。
本人には絶対言わないが。
「で、進路どうするの?」
「普通に大学受けるつもり」
「普通に、ね」
「職業出てないのに探索者育成校行ってどうすんだよ」
「まあ、それはそうだけど」
紬は俺の机に置かれていたシャープペンを指先で転がした。
「でも彩人、運動は悪くないじゃん」
「職業なしでダンジョン入ったら死ぬだろ」
「低層なら未発現でも潜ってる人はいるよ」
「それ言ったら、お前いつも『新人がゲーム感覚で潜るから死ぬ』って怒ってるじゃん」
「よく覚えてるね」
「何回聞かされたと思ってんだ」
紬は満足そうに頷いた。
こいつはもう、自分が何になるのか知っている。
卒業したら探索者になる。いくつかのクランから声も掛かっているらしい。どこに所属するかはまだ決めていないそうだが、少なくとも選べる立場ではある。
俺とは違う。
そう考えてしまった瞬間、自分で自分が嫌になった。
紬は何も悪くない。
「黒瀬、白石」
教室の前から声を掛けられた。
美術担当の教師だった。
「二人ともまだいるならちょうどいい。美術室に残ってる複製画を資料室まで運ぶの、手伝ってくれないか。一人じゃちょっと大きくてな」
「なんで俺たちなんですか」
「今、目が合ったから」
「最悪の選出理由だな……」
近くにいた何人かが笑う。
紬はさっさと鞄を肩に掛けて立ち上がった。
「いいですよ。何枚です?」
「三枚だけ。助かる」
「ほら、彩人も行くよ」
「なんでお前が仕切ってんだ」
「一人だけ逃げる気?」
「逃げねえよ」
渋々立ち上がると、紬が満足そうに先へ歩いていった。
美術室には油絵具の匂いが残っていた。
秋の文化祭で展示に使われたパネルやイーゼルが、壁際にいくつか積まれている。その奥に、教師に頼まれた複製画が立て掛けられていた。
県立美術館が学校向けに貸し出している高精細複製画らしい。原寸に近い大きさで作られていて、普通の印刷物とは質感からして違う。
「これ?」
紬が一枚を覗き込む。
「らしい。そっち持って」
「はいはい」
木枠に収められていたのは、騎士と竜が描かれた絵だった。
長い槍を構えた騎士。その穂先は地面近くにいる竜へ向けられている。少し離れた場所には女性が立ち、その後ろには妙に静かな風景が広がっていた。
俺は美術に詳しくない。有名な画家の名前くらいなら何人か知っているが、作品を見せられて作者を当てろと言われたらまず無理だ。
それでも、その絵には何となく目を引かれた。
巨大な怪物と戦っているはずなのに、不思議なくらい静かだった。竜も騎士も、今にも激しく動き出しそうなのに、時間だけがその場で止まっているように見える。
「これ、何て絵?」
「知らないの?」
「知らん」
紬が横に置かれた説明板を読む。
「パオロ・ウッチェロ。《聖ゲオルギウスと竜》」
「長いな」
「最初の感想それ?」
「作者の名前込みじゃん」
「そういう問題?」
軽く言い合いながら、俺は木枠に手を掛けた。
その瞬間、視界の真ん中に文字が浮かんだ。
《条件を確認しました》
思わず手を止める。
「……何だ、これ」
「どうしたの?」
紬の声がしたが、すぐには答えられなかった。
文字は消えない。むしろ、その下へ新しい文章が続いた。
《職業発現条件を達成》
一瞬、何を見ているのか分からなかった。
意味を理解した途端、心臓が強く跳ねた。何度も想像したことがある。職業が発現したら、どんな感覚なんだろうと。身体が光るのか、声が聞こえるのか、それとも何か特別な感覚があるのか。
実際には、ただ文字が見えているだけだった。
それなのに、手のひらにじわりと汗が滲んだ。
「紬、ちょっと待って」
「何?」
「たぶん……職業が出る」
「え?」
紬の声色が一気に変わった。
俺自身、口にして初めて現実味が湧いてきた。
本当に今なのか。十八年間、一度も何もなかった俺に、このタイミングで?
美術室の片隅で複製画を運んでいる最中に?
あまりに想像していた状況とかけ離れていて、少し笑えてきた。
けれど次の表示が出た瞬間、そんな余裕も消えた。
《職業を発現します》
胸の奥が熱くなった。何でもいいと思った。
《剣士》でもいい。《荷運び》でも、《清掃員》でもいい。別に強い職業じゃなくてもいい。ずっと何も持っていなかった俺にも、ようやく一つ、名前が付く。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
《職業が発現しました》
《画装士》
「……画装士?」
声に出した途端、紬が俺の顔を覗き込んだ。
「出たの?」
「ああ」
「ほんとに!?」
次の瞬間、両肩を掴まれた。
「痛い痛い!」
「何の職業!? 戦闘職? 生産職?」
「知らねえよ、俺も今初めて見たんだから!」
「名前は?」
「《画装士》」
「……画装士?」
「その反応やめろ。不安になる」
「だって聞いたことないもん」
紬はそう言いながらも、俺以上に嬉しそうな顔をしていた。
その表情を見ていると、こっちまで笑えてくる。
十八歳になるまで、ずっと何もなかった。周りが職業の話をするたび、興味がないふりをした。別に出なくても困らないし、普通に大学へ行けばいい。そう考えていた。
けれど、それは全部強がりだったらしい。
嬉しかった。思っていたよりずっと。
視界に新しい表示が現れた。
《初期技能を獲得しました》
《武装抽出》
「武装……?」
俺が読み上げると、紬も首を傾げた。
その瞬間、手を触れていた複製画の見え方が変わった。
絵そのものが動いたわけではない。ただ、聖ゲオルギウスが握っている槍だけが、妙にくっきりと見える。平面に描かれたもののはずなのに、そこだけ本物の奥行きが生まれたようだった。
「紬。これ、見える?」
「何が?」
「槍」
「普通に描いてあるけど」
どうやら俺にしか見えていないらしい。
その事実に少しだけ怖くなった。けれど同時に、知りたいという気持ちの方が強かった。
視界にまた文字が浮かぶ。
《作品を認識》
《聖ゲオルギウスと竜》
《登録条件を満たしています》
《登録しますか?》
「登録……」
「また何か出た?」
「ああ。この絵を登録できるって」
「待って。よく分かってない状態で触らない方が――」
紬が言い切る前に、俺は《登録》を選んだ。
「彩人!」
「大丈夫だって。たぶん」
「今のところ何一つ大丈夫な根拠ないからね?」
その通りだった。ただ、今ここでやめる気にはなれなかった。
《作品を登録しました》
《登録作品:聖ゲオルギウスと竜》
《抽出可能武装を確認》
《武装抽出が使用可能です》
表示を見た瞬間、説明されたわけでもないのに使い方が分かった。
絵へ手を伸ばす。描かれた槍へ指先を重ねると、触れているのは紙のはずなのに、冷たい金属の感触が返ってきた。
「……嘘だろ」
思わず呟いた。
手を閉じる。確かに何かを掴んだ。そのまま引く。
次の瞬間、右腕へずしりとした重さが掛かった。
俺の手には一本の長槍が握られていた。
「……は?」
長い柄。金属製の穂先。掌には冷たい感触があり、腕にはちゃんと重量が伝わってくる。
見た目だけではない。本物の武器だ。慌てて複製画を見ると、絵の中では聖ゲオルギウスが変わらず槍を構えていた。
「……絵にもある」
紬が確かめるように言う。
「俺の手にもある」
「うん」
「どういうことだ、これ」
「私に聞かないでよ」
さっきまで止めようとしていたくせに、紬はもう完全に興味を引かれたらしい。長槍の周りを回り込み、触れそうになってから寸前で手を引っ込めた。
「本物?」
「重さはある」
「ちょっと貸して」
「嫌だ」
「なんで!?」
「今出したばっかなんだから、もうちょっと持たせろよ」
「子ども?」
「十八年待ったんだぞ」
口にしてから、自分でも少し恥ずかしくなった。
けれど紬は笑わなかった。一瞬だけ俺を見て、それから口元を緩めた。
「じゃあ、三分」
「短くない?」
「学校の美術室で武器振り回してる自覚持って」
「振り回してねえよ」
視界の端に、新しい表示が現れた。
《武装抽出成功》
《聖ゲオルギウスと竜》
《抽出武装:長槍》
長槍を握り直す。
扱い方なんて知らないはずなのに、不思議と手に馴染んだ。
十八年間、俺には何もなかった。少なくとも今日まではそう思っていた。
けれど高校三年の秋、たまたま触れた一枚の絵から、俺は一本の槍を引き抜いた。
その日から、進路票に何を書くかなんて悩みは、少しだけどうでもよくなった。




