# 第110話 抵抗の痕跡
金属扉の奥は、人を歩かせるための通路ではなかった。
床の中央には搬送台の車輪を噛み合わせる細いレールが延び、左右の壁面には一定間隔で無人の監視器が埋め込まれている。照明は天井の非常灯だけで、先ほどまで番人がいた区画のような操作盤も待機場所も見当たらない。
壁際には人が立ち止まった足跡さえほとんどなく、搬送台の車輪だけが同じ線を繰り返し削っていた。上の番人が奥へ入る権限を持たないという証言は、この無人化された構造とも一致している。人を運ぶ者と、行き先を決める者を、空間そのものが切り離していた。
「人の気配は?」
「この先にはねぇ。機械が動いてるだけだ」
綾乃へ答えながら、天城は《領域掌握》を通路の形に合わせて細く伸ばした。床下で回り続ける駆動部、壁の内側を走る配線、一定の間隔で明滅する監視器までは捉えられるが、選ばれた一人の存在は領域内にない。
奏は扉の内側へしゃがみ込み、床へ残った血と能力反応を確かめた。痕跡は搬送レールに沿って二十メートルほど続いた後、天井近くの監視器へ向かって不自然に跳ね上がっている。
「ここで使ってる」
「何をしたか分かる?」
ミナの問いに、奏はすぐ答えなかった。壁や床へ残る破壊痕を探し、監視器の外装に指先で触れてから首を横へ振る。
「能力名までは分からない。反応は上へ向いてる。人じゃなく、この機械に使った可能性が高い」
攻撃された形跡がない以上、奏の能力でも行動の目的までは読めない。綾乃は推定を事実として扱わず、零士へ監視器の記録確認を求めた。
「ちょい待ち。こっから先、上の端末と系統が別や」
零士は壁面の継ぎ目を探し、細い工具で保守蓋を外した。内部には無線送信部がなく、二本の有線回路が奥へ向かっている。
「外へ報告する線と違う。監視も扉も、この下だけで完結させとる。上で番人を捕まえても、奥には自動で警報が飛ばん仕組みやな」
「侵入も気づかれていない?」
「まだ断定できへん。人に知らせへん代わりに、機械が勝手に処理する可能性はある」
零士が片方の回路へ端末を繋いだ瞬間、通路奥で硬い作動音が響いた。天城の領域へ、前後二枚の隔壁が同時に降下を始める動きが入る。
「閉じるぞ」
「全員、現在位置を維持。走らないでください」
綾乃は奥へ抜けるのではなく、退路側の隔壁を先に指した。天城が落下する厚い板の下へ手を差し入れ、床まで残り十センチの位置で受け止める。
金属同士が軋み、駆動部がさらに圧力を上げた。それでも天城の腕は沈まず、白い髪にも乱れはない。
「前も止めるか?」
「いいえ。零士、解除までの時間を」
「二十秒。壊さんと持たせられる?」
「誰に聞いてやがる」
奥側の隔壁が完全に閉じ、五人は短い区画へ封じられた。天城が退路を保持する間、ミナは閉じた隔壁へ上半身だけを透過させ、その先に別の罠や待機者がいないことを確かめる。
全員で奥側へ走れば、閉じ込められる前に抜けることはできたかもしれない。しかし、それでは昇降機へ戻る経路と小春との通信を一度に失う。綾乃が退路を先に残したことで、隔壁は追い立てる罠ではなく、解析する設備へ変わっていた。
「向こうは空。床のレールは右へ分かれてる!」
奏は監視器に残る能力反応を追ったまま、天城の横を通り抜けない。綾乃も全員を奥へ逃がす案を出さず、零士が回路を確保するまで同じ区画へ留まった。
「解除。けど、次から無条件では止められへん。監視器へ偽の正常値を返しながら進む」
隔壁の駆動音が止まり、天城はゆっくりと板を押し上げた。乱暴に跳ね上げれば軸が壊れるところを、零士の表示に合わせて元の位置へ戻す。
「近道なら、壁ごと抜けるぞ」
「それでは残された痕跡と退路を失います」
「分かってる。確認しただけだ」
天城は先へ向き直った。直人に敗れる前なら、閉じる壁も見えない経路も、力で消せば済む障害だった。今も壊せないのではない。ただ、先に運ばれた一人が残したものまで消す勝ち方を選ばなくなっている。
零士が監視器から異常発生時の局所記録を引き出した。時刻は搬送台が通過した四十一分前と一致し、表示には一秒にも満たない監視喪失と、その直後に実行された経路補正が残っている。
奏が読み取った反応も、通路全体へ無秩序に散ってはいなかった。搬送台の高さから監視器の一点へ細く伸びており、意識を失った能力暴走より、対象を定めた発動に近い。ただし、それだけで本人の狙いまで決めつけることはできなかった。
「監視器が一瞬だけ死んで、搬送台は主経路から保守経路へ切り替わっとる」
「能力を使った結果?」
「奏の痕跡と時刻は合う。ただ、わざと切り替えたんか、逃げようとして偶然そうなったんかは分からん」
綾乃は二つの可能性を残したまま、先へ進む判断を下した。推測で相手を勇敢な救助対象へ仕立てる必要はない。重要なのは、能力使用によって本来残らない経路記録が生まれたという事実だった。
奥側の隔壁を開くと、搬送レールは正面の主経路と右側の狭い保守経路へ分かれていた。正面側には車輪跡がなく、血痕と新しい能力反応は右へ折れている。
「こっち」
奏の指示を受け、ミナが保守経路へ先に身体を入れた。天城はすぐ後ろへ続かず、零士が監視器へ正常値を返し、綾乃が退路の表示を確認するまで入口で待つ。
保守経路は一人分の搬送台が通れる幅しかなく、天井も低い。百メートルほど先で再び主経路へ合流しているが、その途中に破れた拘束帯の一部が落ちていた。
同じ場所の壁には、低い位置へ短い血の筋が残っている。固定された腕を外へ伸ばし、指先が触れたような高さだった。逃げ切れない状態でも、運ばれていることを外へ残そうとした痕跡だけは消えていない。
天城が拾おうとすると、奏が先に手を上げて止める。血液と能力反応を確認した後、証拠袋へ収めた。
「同じ人。自分で切ったんじゃない。強く引いた痕がある」
「暴れたってことか」
「少なくとも、運ばれるままではなかった」
零士は保守経路の合流点にある診断端子へ接続した。先ほどの監視喪失により、本来閉じるはずの搬送台用回線が異常処理の途中で残っている。
「一件、まだ繋がっとる」
端末画面に氏名も能力名も表示されない。あるのは搬送識別番号と、さらに下の区画へ移された時刻、そして切れずに明滅を続ける生体監視の表示だけだった。
「現在位置は?」
「この先の下層第三区画。目的は不明。けど、生体信号はまだ続いとる」
綾乃は小春へ位置情報と監視表示を共有し、救出時の受け入れ準備を求めた。天城は画面に残る光を一度だけ見てから、保守経路の先へ顔を向ける。
選ばれた一人は、まだ生きて抵抗していた。
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