7.今日はそれだけでいい日だ
「そっか。悪かった。聞いて」
やはり俺は睦月にとてもきついことを迫ってしまったのだ。監督として失格だ。夏希さんの事ばかりで、今いる部員のことを、目の前の睦月のことを考えてやれなかった。気持ちを慮ることを忘れていた。
「悪かったって、楓みたいなこと言わないでください。もう過ぎたことなので」
「だってそういうのって、思い出すだけでも」
「だからもう気にしてないんですよ」
語気を強められてしまった。睦月は過去のことだと何度も強調させてくる。もうこのことに触れるなという合図だろう。
だけど気にしてないは、気にしているということだ。
俺でもそれくらい分かる。分かるけれど、睦月が拒絶している以上、姉妹の話題にこれ以上の言及はできない。
「それにそんなこと考えてバスケをやめておきながら、結局今こうしてバスケやってるし。結果オーライ的なやつですよ」
「でも……」
かける言葉が見つからずに、言葉が止まってしまった。
そんな俺を見かねたのか、睦月はやれやれと呆れたようにため息をついて、
「ってかその沈んだ顔似合ってないですから。監督はバスケ好き好き言って笑ってればいいんですよ馬鹿みたいに。監督が馬鹿だから私は、監督が監督でよかったって思ったんです」
そう冗談っぽく笑われたのが、意外だった。今回彼女の心に踏み込み過ぎたことで、嫌われてしまったかもとすら思っていたからだ。
「私、監督のことを初めて見た時、心の中でうわぁなんだよこの冴えない男……って思ったんです。ダサいの来たよどうしようって」
もちろん最初は、最初はですよ。
後の祭り感はあるがフォローをして頂けただけで嬉しい限りです。
「だけど楓のためにこうやって真剣になってくれるところとか、バスケが大好きだって子供みたいな顔して恥ずかしげもなく言えるところとか、すごい尊敬します。ってかあれだ。こうして考えると、監督ってバスケ馬鹿って言うより、お人よしバスケ馬鹿なんだ。やば、何その詐欺に遭いそうな筆頭ネーミング」
自分で創作した言葉がツボに入ったのか、睦月は腹を抱えて笑い出した。
何が起こっているのか、理解が追いついていない。
どういう言葉を返すべきか分からない。
俺はバスケが好き一本で今まで生きてこられたし、睦月みたいに家族のことで悩んだこともない。
「今度は何でそんな不安そうな顔してるんですか? あーおもしろ。お人よし不安げバスケ馬鹿にランクアップ」
やっぱり目の前の女の子が笑い始めた理由は分からないけれど、睦月の笑い声のおかげで、蔓延っていた重々しい空気はどこかへ吹っ飛んでいた。女の子が一人で笑っている。ただそれだけなのに、世界はこんなにも変わってしまうのか。やっぱり女子高生マジックすごい。そして大学生は意味なんて二の次で、その場のノリに身を委ねて生きる人種だと相場は決まっている。
「悪いか? バスケ馬鹿で。俺はバスケが大好きなんだ」
腰に手を当てて、これでもかと格好つけながら高らかに宣言した。
「そんなの見てれば分かります。あーおもしろ。ってかお人よし不安げバスケ馬鹿なんだからランクダウンじゃん。やっぱり」
腕で涙を拭い始める睦月。言っていることの意味は、理解しようとした方が負けだろう。ノリだノリ。バイブスあげてこーぜ! 的なやつだ。
「ま、でも結局は私も監督と同じですね。なんだかんだバスケをやってる。バスケ好き好き女子だったってわけです」
「自分のことは馬鹿って言わないのかよ!」
「だって私は客観的に見て馬鹿ではないので」
「そっか……。でも、ありがとな」
自然と感謝の言葉が出てきていた。
「突然何ですか? 私何かしました?」
「だって話してくれただろ? 睦月のことを知れて、俺はすごく嬉しい」
「そんなの」
困ったような顔をして、丸まった背中をピンと伸ばした睦月は前髪を整えながら、
「監督が楓のために頑張ってるから、必死だから、協力しただけです」
「だからありがとうなんだよ」
「うっさい。お人よし不安げナルシバスケ馬鹿」」
睦月は照れくさそうに頬を掻き、あー喉乾いた、と呟いてコーヒー缶のプルタブを開ける。そのままごくごくと一気に呷り、ふはーっと気持ちよさそうに息をはく。ってかナルシはちょっと心に突き刺さったぞ。
「でも監督」
「ん?」
いきなりの真面目な声に、何事かと身構える。
「何で人って、できない理由を探すんですかね?」
睦月はプルタブを人差し指ではじきながら続ける。
「子供のころは楽しそう、やる! おもしろい、やる! だったのに、いつの間にか変なことばっかり考え始めて、やらない事が正しいって思うようになった」
哀愁を含んだ声の方が、話してくれた内容よりも印象深かった。
でも深く考えてみると、確かにその通りだ。
大抵の人間は何か新しいことを始めようとする時、色々な理由をつけてそれができない、挑戦しない方が正しいのだと自己を正当化する。興味があるから、好きだから、がやろうと思う最高にして最大の理由なのに、失敗したら、お金がなど、まだ起こってもいないことをこれから絶対に起こると仮定して、それを根拠に諦めてしまう。
「色んなことが分かり始めると、色んなことが分からなくなるのかもなぁ」
「ごめんなさいその理論はよく分からないです」
「おい! そこは分かるって言えよっ!」
「ここ駅です静かにしてください」
「あ、ごめん」
華麗に撃墜された。
睦月はコーヒーを口に含んで、その苦みを味わうようにゆっくりと口の中で転がしてから飲み込む。
「想像の中の自分には何でも好き勝手に理想を詰め込めたはずなのに、今は現実的なことすら詰め込めない」
睦月がひっそりと独り言ちた時に、ちょうど俺たちが乗る予定の電車が駅のホームに入ってきた。突風が睦月の髪をさらさらとなびかせている。その髪を手で押さえながら睦月はにへらっと笑う。
「ま、こんなことを冷静に言えるようになったのが、大人になった証か」
ひょいと立ち上がり、缶コーヒーを一気に飲み干す睦月。うわー苦くないのかよ、と単純に感心してしまった。
「でも缶コーヒーの美味しさは子供には分からないし、大人も悪くはないですね」
弾んだ声で言いながら振り返った睦月は、いたずらな笑身を浮かべていた。
「ね、監督」
語尾から星とハートがはじけ飛ぶも、
「……はココアでしたね」
「それ俺を子供だってバカにしてるだろ?」
「あれ? バレました? だって美玖が監督いじってるの面白そうだったから。つい」
けたけたと笑う彼女を見て、睦月だってまだまだ子供じゃねぇかと思いつつ、
「もっと監督を敬え!」
けれど睦月が初めて満面の笑みを向けてくれたから、今日はそれだけでいい日だと確信した。




