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4. セキとサイ。二人の一日。

 小さい頃、大事にしていたミニカーをなくしたことがあった。

 とても気に入っていたもので、どこへ行くにも持っていっていた。だから、どこかに置き忘れてなくしてしまった。

 ぼくは泣きじゃくって、母が出かけた方々に電話をして確認してくれたけれど、結局ミニカーは見つからなかった。

 何日かはそのミニカーのことが忘れられなくて、他のおもちゃで遊ぶ気も起きなかった。けれど、時間が経てば経つほど、ミニカーをなくしたことは悲しくなくなっていって。

 気を落としたぼくに母はお気に入りのアニメのロボットを買ってきてくれて。今度はそれがお気に入りになって、ミニカーのことはすっかり忘れてしまった。

 時間の経過と共に、ひとは忘れていく。何かを喪った悲しみは、薄まっていく。それは果たして。喪われたものに対して失礼なのではないか、と思うことがある。

 一刻も早く忘れて、元気になってくれと願っているかもしれないし、いつまでも忘れないでくれ、とすがり付いてきているかもしれない。

 それは、誰にもわからない。だって、もう喪ったものは戻らないのだから。


   * * *


 十一月に入り、冬の気配が近づいてくる。事務所についにストーブが登場し、その前で猫のように背中を丸めて独り占めしているのはサイだった。

「サイ、そんなところにいては部屋が暖まらないよ」

「だってー、寒いんだもの……」

 画伯に叱られ、渋々ソファに戻ってきて毛布に包まるサイ。

「だからといって、ストーブの前にいたら、何かの拍子に火傷をしてしまうかもしれないだろう?」

「うぅ~……」

 前から思っていたけれど、この二人はまるで姉妹みたいだ。

「サイさん、寒いのは苦手ですもんね」

 お盆に四つのマグカップを載せ、パシリが台所から出てくる。湯気の立つそれはとてもいい香りだった。

「わぁ、ココアだ!」

 パシリから直接カップを受け取り、両手を暖めるように、しかし直接は熱いのかカーディガンを手の平まで引っ張って包み込むように持つサイ。

「あぁ、幸せ……」

 本当に幸せそうな顔だった。朝が弱かったり、少し突っ走り気味なところがあったり、寒いのが苦手だったり。サイは、こうして見るとごく普通の女の子だ。

 けれど、ぼくはサイのことを何も知らない。

 この事務所のオーナーはサイらしいのだが、どうしてこの事務所を開いているのか。どうしてナクシなのか、その過去に何があったのか。ぼくは、サイのことをまだほとんど知らなかった。

「寒いし、依頼は来ないし、寒いし――もう、冬なんかなくなっちゃえ」

「寒いって二回言ったっすね」

「大事なことなのよ、もう。ん、ココアおいし」

 サイにつられ、ぼくもずず、とココアをすする。ぼく専用のこの茶色のカップはサイが買ってきたものだ。サイが黄色、画伯が青色、パシリが緑色。色はどうやら全部彼女が選んでいるらしかった。

「明日も予定はないのだね」

「うん、依頼ナシ。突発的に来るってことも――ないだろうし」

 認めたくないのだろう、最後のほうは声が小さかった。

「それなら、明日は日曜日だし。全員休みにしてはどうかね? 実は、少し行きたいところがあるのだよ」

「お休みかぁ」

 今日は土曜日、時刻は夜の八時半。強い風が窓を叩いていた。

「そうね、それじゃあそうしましょうか。セキもパシリも、明日は好きに過ごすといいわ」

「そんなに簡単に決めちゃっていいの?」

 飛込みで依頼が入ってくるかもしれないのに、事務所を空っぽにしてもいいのだろうか。

「わたしは事務所にいるつもりだし。最悪、応対くらいはできるわよ。だから、心配しないで」

「あぁ、それならオレもちょっと出掛けるっす。帰りはちょっとわからないっすけど、そう遅くはならないっす」

「うむ、私も出かけさせてもらうよ。朝から出て、帰りは夜になるだろう」

「休み、か」

 そういえば、この事務所に入って一ヶ月。まともな休みはほとんどなかったかもしれない。半日空いたり、急に暇ができることはあっても予定の入っていない日、というのは珍しかった。

「セキは? どこかに出かけるのかしら」

「え、ぼく? うぅん、特に用事はないし――たぶん、事務所にいるよ」

「そっか、寒いしそれもいいと思うわ」

 うんうん、とサイは頷く。ぼくは寒いのはそう苦手ではないからよくわからないが、まぁ休みなのだからのんびりするのもいいだろうと思った。


 翌日、朝目が覚めたのは、九時過ぎだった。部屋にはもうパシリの姿はなく、事務所に降りると、台所にはラップのかけられた皿と、メモ書き。

「『レンジでチンしてください』か」

 皿には昨日の残りの煮物とコロッケ、そして横のボウルには千切りのキャベツがそれぞれ二人分。さすがパシリ、どこまでもマメな男である。

レンジで加熱してご飯をよそってそれを食べ、テレビを付ける。ニュースはあらかた終わり、報道番組もバラエティーじみた特集ばかりだった。どれも大差ないので、適当に番組を選んで付けっぱなしにした。

「おはよう、セキ」

 長い髪を無造作に束ねたサイが事務所に降りてきたのは十時半、もうおはようというには微妙な時刻であった。

「おそよう、サイ」

「うん、おそよう」

 ぼくの微妙な挨拶に同じ言葉で返し、ソファに座って大きなあくびをするサイ。まだ眠そうだった。

「今日も寒いわね」

 背もたれにひっかけたままだった毛布を引っ張ってそれに包まり、ストーブを睨み付けるサイ。念力でスイッチが入るわけもなく、ぼくはやれやれと立ち上がってスイッチを入れた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 テレビ番組がドラマの再放送に切り替わり、サイが適当にチャンネルを回す。さして興味のある番組もなかったのだろう、結局再放送のドラマに戻った。

「サイはこのドラマ、見たことあるの?」

「うぅん、知らない」

 どうやら見たことがないらしい。数年前に流行して、劇中のセリフが流行語になったりもしたのだけれど。もちろんぼくも知っていた。

「面白いの? これ」

 テレビに目を向けたまま、サイが聞いてくる。面白いかどうか、はひとそれぞれだけど。

「ぼくは、それなりだと思う。流行っていたから、話題のために見てたけど」

 出演している俳優は豪華なのだが、どうにもストーリーが陳腐な恋愛モノで、当時高校生だったぼくには少し理解しづらかったのだ。

 やがてドラマが終わり、サイはパシリの用意した朝食を昼食代わりに食べてぼくは簡単にインスタントラーメンを作って食べた。

 午後になって、やはりすることはなく。窓の外は、風は少し弱くなってきたようである。

「この時間になると、面白い番組はやってないわねぇ」

 適当にチャンネルを回してめぼしいものがなく、ため息をつくサイ。休みだからといって、することは二人ともなかった。

「ねぇセキ、少し散歩に行かないかしら」

「え?」

 まさか、彼女のほうから誘ってくるとは思わなかった。寒いのが苦手なら、わざわざ外を出歩くなんていうのはあり得ないと思ったからだ。

「すごく暇だし、この調子じゃあ依頼も来そうにないし。それに、なんだか甘いものが食べたい気分なの」

 甘いもの、か。言われると確かに、ぼくもなんだか食べたくなってくる。

「それじゃあ、行こうか」

「うん、行きましょう。わたし、コートを取ってくるわ」

 よし決まり、とサイは勢いよく立ち上がり、ぱたぱたとスリッパを鳴らしてあっという間に事務所から出て行ってしまった。

「――元気だなぁ」

 思いついたら即行動、サイはまさしくそんな感じだった。


「う~ん、寒い!」

 大通りに出たサイは、元気にそう言った。

「寒いね、セキ!」

「そ、そうだね」

 寒いのが苦手なはずなのに、どうしてそうテンションが上がるのか。あわやスキップでもしだすのか、というくらいのテンションは青天井で、ふんふんと鼻歌を歌いながら歩いていくサイの背中を追いかけ、ぼくは少し足を早める。

「まずはどうしようか? 甘いものを買いに行く?」

「んー、そうねぇ」

 考えるサイの横にようやく並び、その横顔を見る。化粧なんてしていないはずのその頬はうっすらと赤みを帯び、長いまつげはくるっと上を向いている。雑誌のグラビアなんかで見かけるアイドルと同等、いやそれ以上だと思う。

「それはもう少しあとにしましょうか。こうして二人でゆっくりするのはひょっとして始めてではないかしら?」

 言われて、思い返してみる。

確かに事務所に来てからこっち、まともに休みもなく、毎日誰かしらとそこらに出かけて依頼をこなしたり雑務を片付けたりしていたから、そもそもゆっくりするの自体が久しぶりである。

「なら、今日はしっかりゆっくりしましょう、気合を入れて!」

「サイ、気合を入れてゆっくりするって、なにか矛盾してない?」

「え、そうかしら?」

「うん、変だよ」

 そうかなぁ、と腕を組んで真剣に考え始めてしまうサイ。そんな姿に思わず、

「――ぷっ」

「え? どうして、どうして笑うのセキ!?」

「いや、ごめん、だって……あはは……」

 ものすごくどうでもいいことでも真剣に考えてしまうサイが、どこか滑稽で。けれど、それも彼女らしさだと思った。

「もう、セキっ、所長命令、笑うのやめっ!」

「あはは、しばらく、止まら……ふふ、はははっ」

 彼女がムキになればなるほど、それがおかしくて。どこかおかしなツボに入ってしまったらしい。しばらく通りの真ん中で、周囲の目を気にすることもなくそうして二人で笑って怒って過ごした。


 ひとしきり笑い終わって、すっかりむくれてしまったサイに声をかけながら歩き始める。サイが興味を引きそうなものが解らなかったから、色んな店先で目に付いたものをあれやこれやと指差して、どんなものが好きなのか、嫌いなのかを把握することにした。

「サイ、動物って何が好きなの?」

「……わんこ。セキは?」

 まだ機嫌が直らないサイだが、質問にはちゃんと答えてくれる。

「ぼくは――ライオンとか、好きだなぁ」

「ライオン? なんだか、子供みたい」

「子供のころから好きなんだから、ある意味あってるけどね」

 ペットショップの軒先で、ぼくらは少し足を止める。店内にはいくつものケースが並べられて、その中には子犬や子猫が入っている。

「小さい頃は動物園が大好きで、親にせがんで、よく連れて行ってもらったんだ。ライオンの檻の前で一時間以上ずっと見てたこともあった」

 今の時間、ペットたちはみんなお昼寝タイムなのか、ほとんどがべったりと床に潰れて、すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てている。

「セキは、動物が好きなのね」

「大好きだったね。今もすきだけど、さすがに飼うのは無理だなぁ」

 ダックスフントのケースの前でその値札を見て苦笑する。生き物の値段として適正なのかどうかわからないその値段は、ぼくには到底払えない値段だ。

「サイは、小さいころはどこかに連れて行ってもらったりした?」

 小鳥の入ったかごに指を突っ込んでつつかれているサイに聞く。サイは少しだけ考えて、

「たぶん、そういうのはなかったと思うの。きっとどこにも行かなかったわ」

 がじがじ、と小鳥はサイの指が気に入ったのか、くちばしでつついたりかじったりしている。痛くないのだろうか。

「そっか、両親、お仕事が忙しかったのかな」

 ひょっとしたら、サイも両親とうまく行っていないのかもしれない。そう思って言ったぼくのフォローはサイの耳に届かなかったのか、サイはまだしばらく小鳥に指を食べさせていた。


 途中、本屋に立ち寄る。特に用事があったわけではなく、単に目に付いたから入ってみようと思い立っただけだ。

「そういえば、サイって本とか読むの?」

 画伯の部屋にはいくつか文庫本が置いてあったが、サイはどうなのだろうか。

「うーん、活字は嫌いではないわね。けど、本ってかさばるし重たいから。買ってまでは読まないわ」

 棚に刺さっていた文庫本を手に取り、ぱらぱらとめくって戻す。サイはそれを何度か繰り返した。

「図書館で借りたり?」

「だったのかしら。とにかく、読むのには抵抗ないけど、自分から買うことはあまりなかったと思うの」

 コミックスのコーナーに向かう。アニメ化するらしいコミックスが何種類も、何巻も並んでいた。

「セキは? マンガとかばっかりなのかしら」

それらを手に取る。シュリンクがかけられていて中身を読むことは出来ないが、裏を向ければ簡単なあらすじが書いてある。

「ぼくは――本自体、あまり読まないかな。マンガも活字も。待ち時間は大抵、黙想したりしていたから」

「もくそう?」

 サイが首を傾げる。そういえば、とぼくは思いつく。

「ぼく、腕がこんなになる前は武道をやっていたんだ。だから、自分と向き合って集中して。なんていうのかな、『気』を高める、っていうのかな」

「『気』! かっこいいわね」

 こんなかんじ? とサイは適当なカンフーのポーズなんか取ってみる。今にもアチョー、とか言い出しそうである。

「いや、ぼくが習っていたのは空手だったから。中国武術の類では、ないかな」

「必殺技とか、あるのかしら!」

「いや、ないよ?」

 どうにも、彼女は穿った知識を持っているらしかった。その道を究めれば確かに必殺となり得る一撃くらいは放てるようになるのかもしれないが、ぼくはそこまで到達していたわけではない。

「そうなの、残念」

 本当にそう思っているのかいないのか。軽い調子で、サイは笑った。


 おもちゃ屋の前を通る。ガラスのショーケースに並んでいたのは、大きな大きなぬいぐるみ。

「わぁかわいい。見てセキ、あんなのいくらするんだろう」

「ホントだね、おっきなくまだ。サイはぬいぐるみとか、好きなの?」

 ガラスに額をくっつけて、サイはおもちゃ屋の中を見ている。店内は奥行きがけっこうありそうだった。

「そうね、かわいいものは好き。セキはわたしの部屋、入ったことなかったかしら。少ないけれど、ベッドにはいくつかぬいぐるみが置いてあるのよ」

「そうなんだ」

 思えば、サイの部屋には一度も入ったことはなかった。部屋の場所はぼくと同じだから、内部的にそう差はないとは思うが、それでも内装は彼女なりの部屋なのだろう、と思った。

「セキ、あぁいうの好き?」

 サイが指差したのは、ガラス越しに見える棚だ。そこには、戦隊物の変身グッズや武器が並んでいた。

「うん、昔はよく買ってもらったりしたよ。昔は少しからだが弱かったから。ああいうのにはすごく憧れた」

「からだが弱かった? 武道をやっていたのに?」

「逆、かな。からだが弱かったから、からだ作りも兼ねて武道を始めたんだ。始めさせられた、ってかんじだったけれど――あれはあれで楽しかったな」

 小さい頃、布団で横になりながら見たテレビ。いつだってカッコよくて、悪者をやっつける正義の味方。それは、ぼくの憧れのひとつだった。

 いつからだろう、そういった番組を見なくなって、興味がなくなっていったのは。今思うと、その気持ちを失ってしまったのは、なんだか残念だった。

「セキも、昔は普通の子供だったんだ」

 サイがそう茶化してくる。

「昔は、ってなにさ。サイこそ、小さいころはどんな子供だったの?」

「わたし? わたしは――」

 聞き返すとサイは少し考えて、考えながら歩き出す。

「そうだなぁ」

 むむむ、と唸って、

「そろそろ、甘いものが食べたいわね!」

 すぐそこにあった喫茶店を指差して、唐突に話が変わった。


「お待たせしました、グランドバナナチョコパフェと、ティラミスパフェです」

 でん、ででん、と。ぼくらの前に置かれる背の高いグラス。ぼくの前にあるそれは通常サイズだが、彼女の前にあるそれは違った。

「わぁ、セキ、すごいよこれ!」

 ぼくのグラスと背の高さこそ一緒だが、その横幅は実に四倍。グラスというか、ビールジョッキまんまだった。しかも、大ジョッキ。そして、それを前にしてきゃっきゃとはしゃぐサイ。

「すごい量だね――食べきれる?」

 見ただけで胸焼けを起こしそうなそれに対峙して、サイはあまりにも心許ない大きさの、パフェ専用の細くて長いスプーンを握り締める。

「女の子は甘いものには目がないのよ」

「う、うん」

 ちらりと思わせぶりな視線をこちらに投げる。しかしそれも一瞬。もうガマンできない、と彼女は一心不乱にグランドチョコバナナパフェ――この店で一番値段が高く、一番大きいパフェ――に挑み始めた。

「……まぁ、いいけど」

 ぼくもスプーンを手に取り、チィラミスパフェを食べ始める。しっとりしたティラミスとふわふわの生クリームが合わさっておいしい。

「けど、びっくり。わたし、てっきりセキはコーヒーとか無難なものに逃げると思っていたから」

 もぐもぐと口いっぱいにバナナを頬張りながらサイが言う。どうやら、彼女の中では男性は甘いものが苦手、という認識らしい。

「そんなことはないよ。ぼくだって甘いものは好きだし。どっちかと言うと、和菓子よりはこういう洋菓子、あんこよりは生クリームのほうが好き」

 ぼくも負けじとティラミスを頬張ってみせる。しかし彼女の迫力とボリュームには太刀打ちできず、ただ圧倒されるばかり。

「そうなんだ。じゃあ、これからもまた、たまに一緒に食べに来ましょう」

 ほっぺたにクリームをつけたサイは幸せそうである。そんな彼女のどこに、ナクシになる要素があるというのか。ぼくには、わからなかった。

「ねぇ、サイ」

 だから、聞いた。

「サイは――何を喪って、事務所にいるの?」

 サイは所長、つまりは代表者ということだ。パッと見、明らかに画伯のほうが代表者として適しているのに、どうしてサイが所長を務めているのか。

 それはつまり、サイが発起人である、という可能性が高い。ナクシの情報を集め、ナクシやウセモノに関わる事件を解決する。それをする動機が、彼女の中にあったということ。

「何を喪ったか、か」

 サイは手を止めない。もぐもぐとフルーツを咀嚼し、飲み込み、また口に詰め込む。しばらくは無言。テーブルには、二人分のガラスと金属の触れ合う硬質な音だけが響いていた。


 結局、先に食べ終わったのはサイのほうだった。一体全体あの量が彼女のどこに収まるというのか、不思議でしょうがなかった。遅れること八分、ぼくもパフェを食べ終わって会計を済ませる。

「う、寒……」

 喫茶店の外に出ると、先ほどまで出ていた陽が陰り雲が出てきていた。風も少し強くなった気がする。

「事務所に戻ろうか」

「そうね、そうしましょうか」

 時刻は四時を回ったあたり。案外長い時間外にいたものだ。二人で歩き始めて、事務所のある路地を曲がろうとして、ぼくはそれに気付いた。

「あれ」

 ビルとビルの間の細い隙間。その手前に倒れているそれは、猫だった。

「どうしたの、セキ?」

「うん、猫が……」

 猫はぐったりと倒れていて、しゃがみこんで触れると、もう息をしていなかった。

「ぼろぼろね、この子。野良猫かしら」

「たぶんそうだと思う」

 見ると、後ろ足が変な方向にひしゃげていた。きっと車にはねられたのだろう。見開かれた目は濁り、瞳孔が開ききっていた。そのまぶたを閉じてやる。

「――……」

 目を閉じ、黙祷。その猫の倒れた姿が、自分の中にあった何かに重なって見えた。心の中で五秒を数え、すぐ側にあった新聞紙でその遺体を包んだ。

「こんなんで、ごめんな」

 すでに硬直を始めていた猫の遺体を、残りの新聞を折りたたんでその上に載せ、手を添える。もしかしたら病気を持っているかもしれない。けれど、その死を目撃したのだ。そのままにはしておけなかった。

「サイ、この近くに土がある場所ってあるかな」

「土? 事務所の裏を抜けて通りを渡ると、小さい公園があったと思うわ」

「そっか、ありがとう」

 新聞紙ごと遺体を持ち上げる。片手では落っことしてしまいそうだったから、胸に抱えるようにして持った。

「どうするの?」

「埋めてやる。こいつがこうなったのはぼくの責任じゃないけど……関わったのはぼくの責任だ。最後まで、面倒見てやらないと。サイは先に戻っていて」

 小走りに走り出す。事務所の横を通り抜けて裏路地を出ると大きな通りに出た。左右を見渡して横断歩道を見つけ、そこを渡る。サイの言った公園はすぐに見つかった。

「このへんで、いいか」

 公園の端、手入れが放棄された植え込み。固い土だが、掘り起こせないことはないだろう。猫の遺体を側に置いて、

「あ、しまった」

 よくよく考えれば、穴を掘る道具を持っていなかった。手で掘るにしても、この固い土を掘り返すのには骨が折れそうだった。

「――まぁいいや」

 左腕を土に食い込ませる。やはり固い。けれど、途中でやめることなんてできなかった。だって、関わってしまったんだから。

「待っててね」

側の猫に言って、ぼくは土に手を再度食い込ませる。掘れる土はわずかで、遺体を埋められるほどの穴はどれぐらいで出来上がるのかわからない。もう一度、左手を土に食い込ませようとして。

「それ以上はいけないわ、手を痛めてしまう」

 後ろから声。見上げると、サイが立っていた。

「サイ、どうしたの?」

「どうしたの、って――あなたが急に行っちゃうから追いかけてきたんじゃない。これ、探してきたわ。使いなさい」

 言ってサイが差し出してきたのは、金属で出来た錆の浮いた、オレンジ色の小さなスコップだった。先のほうが少し欠けている。

「ありがとう」

 土で汚れた左手でそれを受け取り、地面に突き立てる。手でやるなんかよりずっと早く、穴は掘れた。サイが側にしゃがみこんで、ぼくが穴を掘るのをずっと見ていた。

「このぐらいでいいか」

深さ十五センチほどの深さの穴を掘り終える。そこに猫の遺体をそっと置いて、土をかぶせる。少しだけ盛り上がったそこに、サイは小石を二つ置いた。

「セキと、わたし。二人分」

 一つの小石、一つの祈り。二人分の祈りが乗っかったそれは、あまりにも簡素で。それでも、立派にお墓だった。


 事務所に戻って、手を洗って。ソファに座るサイの向かいに腰を下ろした。

「どうして、あんなことをしたの?」

 息を吐いたぼくに、サイが聞いてくる。ぼくはその質問に首を傾げる。

「あんなこと、って?」

「お墓を作ってあげたこと。

 それ自体は悪いことではないけれど――あえてあなたがそれをやらなければならない理由は、なかったと思うの」

「理由、か」

 言われて、少しだけ考える。

「だって、ぼくがあの猫を見つけてしまったから。関わってしまったから、責任を持つべきじゃないかな」

「けど、あの場であなたは猫を見つけただけ。かわいがっていたわけでも、飼っていたわけでも、ご飯をあげていたわけでもないわ。

 それなのに、あなたはあの猫を弔ってあげた。そこまでしてあげる義理はないわよ」

 サイの言っていることはわかる。その横をただ通り過ぎて、朽ちるに任せることだってできたのだ。

「見過ごせなかっただけだよ。だって、ぼくは生きてる。こうしてまだ、息をしてる。心臓が動いてる。

それなら、もう生きられなくなってしまった相手のためになにかしてあげなきゃいけないって、そう思う」

「セキは、優しいのね」

 しばらく黙って、サイはそう言った。そして、続ける。

「けれどその優しさは、歪なものだわ。理解はできるけど、納得はできない。到底、普通の人間には理解し得ない感情よ。

 わたしは、セキは『左腕を喪ったことにより社会性を剥奪され、それによってナクシとしての能力を得た』と分析していた。けれど、何か――――あなた、もっと大切なものを喪ったんじゃないかしら」

 サイの言葉に、心臓が跳ねた。

「これはわたしの仮説。けれど、恐らく当たっているのだと思う。

 セキ、あなたが本当に喪ったのは『右腕』や『社会性』ではなく、そもそもあなたの居場所を構成していた要素――ではないかしら」

 喪った右腕、その肩口を左腕で掴む。肩の関節からごっそり持っていかれてしまっているそこは、もはや腕としての最低限の機能を持っていない。

「あなたが真に喪ったのは『居場所』であり、右腕やそのほかの社会性はそれにひきずられるかたちでしかなかった。どうかしら」

「――はは」

 乾いた笑いだった。だって、それはあまりにも的確だったから。

「すごいね、サイは。心理学でも勉強していたのかな」

「いいえ、わからないわ」

 彼女は首を振る。わからない、それはどういうことだろう。

「実はね、セキ。わたしが事務所に誰かを引き入れようと思ったのはあなたが初めてなの。二年間、この事務所をやってきたけれどあなたがはじめて。

 もしかしたら、わたしはあなたに何かしらの共感を抱いているのかもしれない。喪失か、補填か……どちらにせよ、わたしはあなたの何かに惹かれている。

 お願い、あなたが本当は何を喪ったのか、教えてちょうだい」

 そのお願いは、ひどく自分勝手だと、思った。だって、ぼくはサイの喪失を知らない。サイがどんなナクシなのか、何を喪ってそうなったのかも知らないのだから。

「……ぼくは」

 けれど、ぼくはなぜか、彼女に自分が何を喪ったのか話したいと思った。ぼくに居場所を作ってくれようとしているサイに、ぼくを知ってほしいと思った。

「ぼくが本当に喪ったのは、アズサ。恋人だ」

 事故から二年。記憶から想起される痛みが右肩に蘇る。疼くように、内側から響く痛みが不快だ。

「二年前、事故を起こした時。車の助手席には、恋人が乗っていた。

 はっきり言って、彼女はぼくの全てだった。彼女のためにならなんでもしてあげたいと思ったし、彼女の願いならなんでも叶えてあげたいと思った。

 そんなにも大事だったひとを、ぼくは喪った。いや、ぼくがその命を奪った」

「セキ……」

 痛みが激しくなる。右肩に爪を食い込ませ、それに耐える。

「彼女が写真を持っていた。きれいな景色の写真だった。その場所に行ってみたいと彼女が言って、ぼくはその願いを叶えてあげようと思ったんだ。

車の免許を取って、彼女を誘って。その帰り道の事故だ。ぼくが誘わなきゃ、そんなことにはならなかった。ぼくが事故を起こさなければ、アズサはいなくなったりしなかった。ぼくが、彼女を殺した」

「それは違うわ、セキ」

「ぼくが彼女と一緒にいなければ、そうはならなかったかもしれない。ぼくが彼女と出会わなければ、彼女は今も元気に笑っていたかもしれない。ぼくがいなければ、彼女があんな目に遭うこともなかった。ぼくがいなければ」

「セキ!」

 サイの声が、ぼくを引き戻した。机に乗り出して、ぼくの左腕を掴んでいる。両手でしっかりと、ぼくの手を掴んでいた。

「それは、違うわセキ。あなたのせいじゃない」

「けど……」

 机を乗り越え、サイはぼくの横に座る。掴んだままの左手が彼女の膝に置かれ、両手で包まれる。

「セキがそのひとをどれだけ大切に想っていたかはわかったわ。自分を責める気持ちもわかる。けれど、それがあなたのせいだって、誰が言ったのかしら。アズサさんの家族が、あなたにその言葉をぶつけたかしら」

 長い間押し込めていた記憶を、ゆっくりと解凍していく。

「セキ、あなたが感じているそれは、あなたの優しさが作り出してしまったものなの。その事故でアズサさんを喪って、あなたはこうして生きている。

 それを罪悪感として感じてしまっている、生きていることに罪の意識を感じている違うかしら」

 罪悪感。そう、この二年間自分の中にあったのはまさしくそれだ。アズサがいなくなって、ぼくがこうして存在している。そんなこと、許されるわけがない。そう思っていた。

「だから、なのね。あなたが猫にお墓を作ってあげた理由がやっとわかった。

 あなたは、自分が『生きている』という罪を背負っていると思っている。だから、他の生命の『死』について敏感になりすぎてしまっている。

 けれどそれは違う。あなたの優しさが作り出した強迫観念」

 優しく、ぼくに語りかけるサイ。左手から彼女の暖かさが伝わってくる。今まで、ただの一度も誰にも理解されなかったことを、サイが理解してくれていた。

「あなたは生きていていいの。意味がないと思うなら、これから探せばいいわ。わたしも一緒に探してあげる。

だからそんな、自分が生きているのは死者に対する責任だ、なんていう悲しい考えはやめましょう。そんなの、決して生きている意味ではないのだから」

 ぼくを理解してくれる人間が、こうしてまた現れると思っていなかった。あまりにも的確にぼくの心を言葉にしてくれるひとがいるなんて、思わなかった。

 今まで自分の中に鬱積していた思いが言葉になる。誰にも理解されなかった感情を理解される。それはつまり、自分を許容してくれているということ。

「――――ありがとう、サイ」

 声が震える。鼻の奥がつんと痛む。ぼろぼろと涙が零れる。この涙はきっと、二年分の涙。これから先、一生流すことはないだろうと思っていたものだ。

 心が溶けて、溢れ出る。溜まりに溜まったそれを全部流しきるには、少し長い時間が必要だった。


 目を開ける。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。体にはオレンジ色の毛布がかけられている。サイがいつも使っているものだ。

(いい匂い……)

 顔を埋める。柔らかくて優しい匂いがした。そして気が付く。その匂いの主がいなかった。体を起こし、部屋に視線をめぐらせる。台所に明かりが灯っていた。

「サイ?」

「あ、セキさん。おはようっす」

 パシリ一人だった。

「パシリ……いつ戻ったの?」

「けっこう前っすね。あ、夕飯は、今日はお弁当を買ってきてるっす。セキさんはチーズハンバーグ弁当と焼肉弁当、どっちがいいっすか?」

 パシリに言われて空腹を感じるが、今はそれどころではない。サイはどこに行ったんだろうか。

「サイは?」

「あ、サイさんはもう食べ終わってるっす。ちなみに、サイさんはエビフライ弁当でした」

「そうじゃなくって。どこに行ったの?」

「自分の部屋に戻ったみたいっすね。今日は風が強くて寒いけど、雲が流れて星がきれいだって言ってたから。屋根の上にいるかもしれないっす」

 どうやら、外が真っ暗になって夕飯を済ませてしまうぐらいの時間、ぼくは眠っていたらしい。目頭がぱりぱりと乾いていた。

「屋根の上って、どうやって登るの?」

「サイさんの部屋、小さいけどベランダついてるっすよね。そこにハシゴがあって、そこから登れるんす。

危ないからやめろ、って画伯には怒られてるみたいっすけど、今日は画伯さん帰り遅いみたいなんで」

鬼のいぬ間にってヤツっす、とパシリがいたずらっぽく笑う。そうか、屋根の上か。

「ありがとパシリ。あ、ぼくハンバーグのほうでお願い」

 パシリの最初の質問に答え、ぼくは台所を出る。洗面所で顔を洗って、ソファに丸めたままだった毛布を適当に畳み、抱えて事務所を出た。

 二階に上がり廊下を歩く。女子部屋のカギは案の定閉まっていなかった。無用心極まりないが、今は都合がいい。靴を持って上がって、サイの部屋の前に立つ。

「……」

 少しだけ、緊張した。サイの部屋に入るのは初めてで、ぼくは招かれてもいない。もしかしたら、勝手に入って怒られるかもしれない。けれど、それはそれだ。

「サイ、入るよ」

 左腕に毛布と靴を持っていたので、引き戸を開けるのに苦労する。果たして、部屋にサイの姿はなかった。開け放たれたままの窓から入る大通りの光が室内を照らす。

 白いレースのカーテンがなびいていた。左側には、ピンク色のシーツのベッド。枕元に、ペンギンとウサギのぬいぐるみ。部屋の中央には丸い低いテーブルがあり、床はカーペットが敷かれている。同じ構造のはずのぼくの部屋とは、ずいぶん印象が違う。

「ハシゴ――あれか」

 開いた窓から出て靴を履き、屋上へと伸びるハシゴを見つける。アルミで出来た脚立を伸ばしたそれは針金で固定されていて、少し押したくらいではびくともしなさそうだ。

「サイ? そこにいる?」

 ハシゴの下から呼びかける。少しして、にょきっとサイが顔を覗かせた。

「セキ? どうしたのこんなところまで?」

「勝手に部屋に入った、まず謝っておく。その、寒いかと思って」

 左手に持った毛布をサイに見せる。

「別に部屋に入るのは構わないわよ。――そうだ、セキ。ちょっと上がってこないかしら」

 ちょいちょい、と手招きでぼくを呼ぶサイ。言われるまま、ぼくはハシゴに手をかけた。一歩ずつ、慎重に上がっていく。

「よい、しょっと」

 屋上に上がる。屋上は簡素な平たいコンクリ作りで、端には溝があり、微妙に傾いた平面は雨水をそこに落とすようになっている。

「ようこそ、わたしの秘密基地へ」

 その中央、サイが示した場所には、なんだか微妙なものがあった。ダンボールで作られたそれは子供用のおもちゃの家のような大きさで、側にはビニールシートが置いてある。きっと普段はあれをかぶせてあるんだろう。

「寒いからもう戻ろうと思っていたのだけど、毛布を持ってきてくれたならもっといられるわね」

 サイについていって、彼女の後に続いてダンボールの中に入る。四角いダンボールハウスのようなそれには屋根はついておらず、ただ一畳ほどの大きさの床と壁があるだけの工作だった。中には、空のお菓子の包み紙が転がっている。

「毛布ちょうだい、寒いわ……」

 ぐいぐいとぼくが抱えた毛布を引っ張り広げるサイ。それに包まって、

「さ、セキも。そのままだとすぐに冷えちゃうわ」

 と、毛布の片側を広げてぼくを招いた。少し躊躇ったけれど、確かに寒かったので大人しく従った。サイとくっついて、隣り合わせに毛布に包まる。

「あったかい」

「あったかいね」

 触れたサイの体は冷たかった。いったいどのぐらい外にいたのだろうか。

「冬って、星がきれいなのよね」

 夜空を見上げるサイ。ぼくも同じようにした。

東曲野は眠らない街だ。街が明るければ明るいほど、夜空の星はその姿を隠してしまう。こうして見上げて見えたのは、とても明るい一等星、ぎりぎり二等星くらいまでだった。

「きれいよね」

 無言でいたぼくに、サイは同意を求めるようにそこだけをもう一度言った。

「そうだね、きれいだ」

 星は、あまり見えない。星座もほとんど確認できなかったけれど、ぼくは彼女に同意した。

「少し、考えていたの」

「何を?」

 屋上は風が強かった。ダンボールとガムテープやビニールテープで作られた簡素な秘密基地ががたごと揺れる。

「わたしが、セキに共感を感じていた理由」

「共感……」

 喪失共感と、補填共感。前者は同じものを喪った同士が、後者は喪ったものを持っている相手に惹かれ合う、ナクシやウセモノが持つ特性。

「答えは、出たの?」

「うぅん、わからないわ」

 また、わからない、だった。彼女は、今日何度も同じ言葉を使った。

「けれど、仮説は立てられる」

 サイはそこで言葉を切る。ぼくは「仮説?」とオウム返して、先を促した。

「わたしは、きっと恋人を喪っているの。だから、セキがアズサさんを喪ったという事実に惹かれているのかもしれない。だから、セキをこの事務所に置いておこうと思ったのかもしれない」

「それは、仮説なの?」

 きっと喪っている。それは、言葉としては少しおかしい。自分の過去に基づいた出来事ならそれは確固たる事実。彼女のそれは、まるで誰かから聞き及んだ伝聞。

「えぇ、仮説よ」

 彼女のほうに視線を戻す。サイは空を見ていた。その横顔は、月の光を反射してとても美しい。月から迎えが、なんてどうでもいいおとぎ話を思い出す。

「だって、わたしは知らないんだもの」

「知らない?」

「えぇ、わたしはわたしを知らない。最古の記憶は二年前。気が付いたら、画伯と一緒にいたの。画伯の家で、わたしは寝かされていた。それ以前のことは、何も知らない。

 わたしの喪失はね、セキ。自分自身。記憶を喪っているの、わたし」

 彼女の口から語られたそれは、ぼくがずっと知りたいと望んだものだった。そして同時に、聞くべきではないのではないか、とも思った。

「ナクシとしての能力。それは、消去。それだけは、理解していた。二年前以前の記憶がなくても、それは頭の中にあった。

 わたしは、触れたものが世界に影響する能力を極限まで薄めるの。記憶を、自分自身という存在を喪っているからなのでしょうね。その能力も、消し去るというネガティブなもの。

 わたしは、自分の中身を持っていない。空っぽで、がらんどう。自分自身というものが確立していないの。不確かで、消え入ってしまうそうなもの。なんだか、ロウソクの炎みたいよね。風が吹けば消えてしまうような」

 サイは自身を卑下するように言って、お菓子の包み紙を拾い上げる。左手で持ったそれを右手で包み込み、くしゃくしゃと丸める。そして目を閉じた。

「どうかしら」

 右手を開いてみせる。そこには、包み紙なんてなかった。

「……手品?」

「違うわよ、消去したの。包み紙の存在を薄めて、世界に影響できないようにした。

だから、見ることも触ることもできない。わたしには認識できるけれど、だからといってどうすることもできないわ」

 その手に乗っかったままらしいそれを、手の平を返して地面に落とす。

「わたしの能力は、消去するだけ。戻すことはできない。だから、おいそれと使うことはできないのだけれど――最終的には、使うことのほうが多いの」

 家のウセモノが廊下を延長してぼくらの脱出を妨害しようとした時、彼女は床に触れてそれを元に戻してみせた。

 洋服お化けにやられそうになった時、彼女は右手でそれを引き剥がした。

 つまり、彼女はぼくの前で、何度かその能力を使っていたのだ。ぼくがそれに気付かなかっただけ。

「とても強力で、とても恐ろしい能力よね。まるで、テレビに出てくる悪者みたいなんだもの。けれど、この力は、わたしに可能性も示してくれた」

「可能性……?」

 彼女は再び空を見上げる。ぼくもそれに倣った。都会の夜空は狭くて、暗い。月が平和そうに浮かんで、大通りの喧騒がここまで響いてくる。静かな夜では決してなかった。

「相手のナクシやウセモノの要素だけを消し去ることができる。世界に影響するものを影響できなくするわけだから、それはつまり、ナクシやウセモノの中身。その能力は、世界に影響を与えるの。

 だから、ナクシやウセモノの能力は確かに存在している。この世界に存在しているすべては、ナクシやウセモノになる可能性がある。前に、説明したわよね」

 無言で頷く。サイは続けた。

「だから、わたしの中身――わたしの記憶、自分自身も、もしかしたらどこかでナクシやウセモノになっているかもしれない。

こうして事務所を開いて、ナクシやウセモノに関わる事件を解決していれば。いつか、わたしは、自分自身の記憶とめぐり合えるかもしれない」

「それって、確証はあるの?」

「ただの仮説よ。けれど、あながち的外れでもない。わたしは記憶を喪ってナクシになった。だから、わたしの記憶も、わたしの体を喪ってナクシになっているかもしれない。

 もし記憶を喪ったわたしと、体を喪った記憶のナクシが出会えば、補填共感で強く惹き合うはず。そうすれば、きっとわたしは、わたしたちは一つに戻れる。その可能性を信じて、わたしはこの二年間生きてきた」

 サイはそこで一度言葉を止めて、息を吐く。

「けれど、未だに手がかりは何もない。気の遠くなるような時間がかかるかもしれない、とは覚悟していたけれど。さすがに、焦れてきてしまうわよね」

 あは、と笑ったサイの表情は、弱々しかった。その表情に、ぼくは。

「だいじょうぶだよ」

 サイの手を握る。相変らず冷えた彼女の右手を、ぼくの左手が握る。

「きっと見つかる。ぼくの能力がナクシやウセモノを引き寄せるものだっていうなら、その力を使えばいい。サイの記憶を呼び寄せて、サイが元に戻るのを手伝えるかもしれない」

「――セキ」

「サイの記憶を見つける手伝いをさせてほしい。ぼくを理解してくれたサイを理解したい。助けてあげたい。ぼくに居場所を作ってくれようとしているサイに、恩返しがしたいんだ」

 彼女の手を強く握り、ぼくは彼女の目を真っ直ぐに見て。サイははじめどうしたらいいのかわからない、そんな表情をしていた。けれどやがて。

「……そうね、セキが手伝ってくれれば、見つかるかもしれない」

握ったその手を、サイがもう片方の手で取って、両手で包む。

「長い時間がかかるかもしれないけれど、お願いしていいかしら」

「うん、がんばる」

 彼女が笑顔で、そう言った。だから、ぼくも笑顔でそう返した。

 星は瞬き夜は更ける。月は少しだけ傾き、次の朝へ向かう。強い風が吹いて、ぼくらの間を吹き抜けていく。そんな中で、ぼくらはまだしばらくその場に留まっていた。


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