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第三章 もう一度 -3-


 あり得ない。

 そう何度も口の中で繰り返す。


 かたかたとリアを抱いた指先が震える。呼吸が酷く浅くなって、目の前がちかちかと明滅しながら遠のいていく。そんな錯覚があった。

 空を漂うゼクスクレイヴの掌の上で、ソラはいやいやをするように首を振りながら、その光景をただ呆然と眺めていた。


 紅の竜――ディアスキアが翼をはためかせて、ゼクスクレイヴと対峙している。一言も発することなく、ただじっと。それはさながらかしずく騎士のようで、これが自分からリアを奪おうとしたあの城主の姿かと思うと、いやに気味が悪かった。


 そして。

 その肩に腰かけた彼女の姿は、ソラが、誰よりもよく知る少女のものだった。


「元気だった? 少し肌は黒くなったね。コックピットに籠らずに外で戦ってるからかな」


 くすくすと。

 二年前とまるで変わらないで、彼女は笑っていた。ただただ可憐なその笑みが、不気味に思えてしまうほどに。


「な、んで……」


 問わずにはいられなかった。

 絞り出すような声で、それでも、そう言わずにはいられなかった。


「うん? だって、ソラがこの世界にいるんだよ。私が来たって、何にもおかしなことはないじゃない」


「違う……ッ。違うんだよ……ッ」


 そんなことはどうでもいい。彼女がこの世界に迷い込んだことなど、この際、瑣末な問題だ。

 それよりも。

 もっと、もっと、ソラにとっては重要なことがある。


「あぁ。どうして生きているのかって?」


「――ッ!」


 息が詰まった。その言葉ひとつで、世界の全てが汚泥と化したような、そんな不快感がソラの全身を包みこんだ。


「それは不思議だよねぇ。だって、ソラが討ったんだから」


 あぁ、とソラは頷く。頷くしかなかった。

 あの日の出来事をどんなに正当化したって、その結論は変わらない。

 ソラが、アイリス・ホワイトブレットの乗るクロイツアインを貫いた。それだけは決して変えようのない事実だ。


「本当に奇跡だったよ。ゼクスクレイヴの大剣――アスカロンは、クロイツアインの胸を貫きはしたけれど、コックピットの真横をすり抜けていた。クロイツアインが砕けても、コックピットブロックは無事だったんだ」


 きっとそれは、諸手を上げて喜んでいい事実のはずだった。最愛の少女が生きていたのだ。世界が変わろうが何だろうが、涙を流して再会に歓喜すればいい。


 なのに。

 どうしても、ソラにはそれが出来なかった。

 目の前でディアスキアの肩に乗って微笑むその姿は、氷像にも似ていたから。

 美しく、けれど儚くて、触れることを拒むほどに冷たい。近づくだけで、全身が震えてくるほどに。


「あとはソラと同じかな。世界が崩壊するなかで、全く動けなかった私とソラは裂け目に落ちた。モニターで見る限り、他のみんなは世界に押し潰されちゃったみたいだけど」


 淡々としたアイリの話を、ソラはただ聞いていた。今すぐに逃げ出したくなる感情を必死に押し殺して、リアの身体を抱き締める。


「こっちの世界に来たときに、たまたまあのダンフロイスに落ちてね。ちょうどソラが鋼の大天使、っていう活躍をしてくれていたおかげで、私も似たようなものだと思ってもらえたんだ。あとは適当にあっちの世界の文明をひけらかして、このディアスキアに生活の保障を交渉したってところ。代わりに、歴史に支障が出ない程度の文明は教えたけどね。――あぁ。あのディアスキア城も、私の設計で改修したんだ。綺麗だったでしょう?」


 だから、ディアスキアはアイリに従っているのだろう。彼女のもたらした知識によって、きっと途方もない恩恵を得たのだ。


 では。

 アイリはいったいどうして、そこまでしてディアスキアを従えたのだろうか。


 その答えは考えるまでもないことだった。だからこそ、ソラはどうしようもなくアイリが恐ろしく思えてしまう。


「……何で、こんなことをした」


 なぜ人を殺す竜の味方をしているのか。

 なぜソラにリアを殺させるような真似をしたのか。

 頭に浮かんだその理由を否定したくて、ソラはそう問いかけた。


「……その前に、私にも聞かせてよ」


 ぞくり、と。

 背筋が凍るような声があった。



「どうして私を殺したの?」



 足元が崩れるような感覚だった。このまままっさかさまに落ちていくような、そんな絶望だった。


「あの日、どうしてソラは私を殺したの? それが聞きたくて、私はここまでのことをした」


 人と戦う存在を相手に、異世界から来たとはいえ味方をする。それは裏切りどころの話ではない。堕落とさえ言い換えてもいいだろう。

 そうまでしてアイリが生き残った理由は、ただそれだけ。

 ソラの言葉を聞きたかったからだ。


「……俺は……」


 殺したくなんてなかった。

 そう言うのは簡単だ。けれど、そんな答えに意味はない。アイリが求めているのは、そんな話ではないのだ。

 アイリを前にすればソラは立ち止る。彼女はそう信じていた。たとえ怒りに呑まれていても、自分の言葉なら届いてくれると、彼女はそう信じてソラの前に立ち塞がった。

 彼女は貫かれることなど全く想像していなかったに違いない。だからシールドで防ぐのではなく、あくまで立ち塞がっただけなのだ。


 なのに、それをソラが裏切った。


 ソラのアイリへの想いは、一時の怒りに呑みこまれてしまうほどの安いものだと、ソラ自身が突き付けてしまったのだ。

 だから、彼女はこう問うている。



 ――どうしてわたしを、想っていてくれなかったの?



 そんな問いにどうやって答えればいいのか。

 そんな問いに対する正しい答えなんて、ソラは知らない。


「……やっぱり、答えてはくれないんだね」


 アイリの声に怒りは感じられなかった。いっそ何の感情が乗っていないようにすら聞こえた。

 けれど、その顔まではソラには分からない。今の彼女と目を合わせることが、どうしてもソラには出来なかった。


「……じゃあ、ソラの問いに答えてあげるね。どうしてこんなことをしたのか」


 やめてくれ、とソラは思う。

 彼女の心の中にいたアイリス・ホワイトブレットは、いつだって明るい少女だった。決して笑みを絶やさず、今から戦いに行くというのに、そんな恐怖を微塵も感じさせずに、ソラを励ましさえしてくれた。

 その彼女から放たれるであろうその言葉が、ソラには耐えられそうもなかった。

 なのに、彼女は無情にそれを突きつける。


「だって、許せないじゃない」


 あぁ、とソラは思う。

 分かっていたことでも、その言葉を突きつけられることがこんなにも痛いのだと、初めて知った。じわりじわりと、心臓の中心から溶かし崩していくような、そんな痛みだ。

 視界がぐらぐら揺れるのは、不安定な滞空するゼクスクレイヴの掌にいるから――なんて理由ではないのだろう。


「私を殺したソラが、こっちの世界で安穏と生きていく。それだけでも憎いのに、新しい仲間まで作った。それは可愛い女の子で、まるで、私の代わりみたいな。――そんなの、私が許せる訳がないでしょう?」


 だから、彼女はこんなことをした。

 ソラへ復讐する。その一心で竜の城で自らの地位を確立した、ソラがリアと傭兵団を組んでいると知ったら、今度はその二人を引き裂く為にこんな大仰なことを画策した。


 悪いのは、誰か。

 こんな復讐を企てたアイリか? ――違う。


 分かっているから、ソラはただ、その場にうずくまって嘆く。

 これは自分への罰なのだ。


 あの日。

 彼女を殺した自分に課せられた、贖罪のときだ。


「……好き勝手言うなよ」


 だから。

 その言葉は決してソラの放ったものではない。


「自分が信じていたソラが裏切った。だから復讐する。その為に私まで巻き込んでか。なるほど、大層な憎しみだ。――ところで」


 それは、リアの放ったものだった。

 身に纏う服などなく、その胸にはソラの付けた深い傷を残した状態だ。それでもなお気高くあろうと、高らかに。


「――お前、本当にソラを愛していたのか?」


 ソラまでもが信じられないような言葉を、リアは容赦なく叩きつける。


「……黙ってよ」


「ソラがお前を討ったとき、ソラはお前を確かに忘れたのかもしれない。――だけど、それくらいで憎しみに変わるお前の愛情とやらも、似たようなものじゃないか」


「違う!」


「ならどうして、平然とソラに刃を向けられる。ディアスキアの城で、一歩間違えばソラは死んでいたのに。本当に愛していた人を、そんなあっさり殺せるのか?」


「何も知らないくせに、偉そうな」


「あぁそうとも。私は何も知らない。だが、お前は何を知っている? ソラが抱えてきたものを、お前は一片でも理解しているのか」


 そこで初めて、ソラは気付いた。

 怒っているのだ。

 あのリアが、自らを操られ、傷つけられたことなど差し置いて。

 ソラの為だけに、怒ってくれているのだ。


「私は知っているぞ。たったひと月だけの間柄でも、私はソラの苦しみを共有した。――お前が目を逸らし、憎しみへと変えたその苦しみをだ」


「……だからどうしたの」


 その声音は。

 砕いたガラスを踏みにじるような、そんな嫌な音だった。


「私はソラを許さない。ソラも、あなたも、この手で殺す」


「させないよ。ソラは私が護るから」


 リアの言葉に、ソラは耐えるように歯を食いしばる。

 リアは優しい。優しすぎるほどに優しい。こんな状況を前にしても、ソラに失望せずに、味方になろうとしてくれている。


 けれど、それにソラが耐えられない。

 そんな善意を受け取れない。


「戦うぞ、ソラ」


「……駄目だ」


 答えたソラを、リアは信じられないものを見るような目で見る。


「駄目だよ……。俺には、戦えない……ッ」


 アイリをこんな風にしたのは、自分だ。なのにどうして、彼女に刃を向けられるというのか。

 アイリの言葉はもっともだ。リアがどんなにかばってくれたところで、ソラが彼女を裏切ったという事実は覆らないし、今さら言い訳を塗りたくる気もない。

 彼女の糾弾を受け入れる責務が、ソラにはある。


「……このままでは、どんな被害が出るかも分からんのにか」


「――ッ」


「ソラだけでも、私だけでもない。あの女は、この世界でお前が関わった全員を皆殺しにするだろう」


「アイリは、そんな奴じゃない」


「お前に私を殺させようとした相手が? 人を殺すことを生きがいにした竜の国で、二年も平然と過ごしたあの女が? ――そんな相手が、今もまだお前の妄想の中の通りの女のままだったら、それこそ化け物だよ。劇薬のような愛情の化身だ、そんなもの」


 リアの言葉も分かっている。どうしたってアイリとの和解の道はない。

 アイリはそこまで歪んでしまっている。


「……ごめん、アイリ」


「今さら謝罪なんていらないよ」


「分かってる。――だけど俺は、リアを殺させる訳にはいかないよ」


 言葉の直後、ソラはリアを抱えてゼクスクレイヴのコックピットへと飛び込んだ。アイリの怒りに呼応するように、沈黙を貫いていたディアスキアの口から炎弾が放たれるが、それはもうゼクスクレイヴの装甲に防がれて消える。


「……逃げよう。壊れかけてるって言っても、ゼクスクレイヴの全速力ならディアスキアくらいなら振り切れる」


『――そんなこと、させると思う?』


 ザザ、と。

 コックピットの中に、アイリの声が広がる。

 もう既にハッチは閉じた後だ。どうしたって肉声が届くことはあり得ないのに。


「何で……」


 肉声でなければ、これは何なのか。

 考えるまでもなかった。


 ゼクスクレイヴのカメラから、アイリの姿が消えていた。ディアスキアだけが、ただ彼を睨んでいる。

 そして、代わりに。

 ディアスキアの背後に、紅の箱が漂っていた。――それは、クロイツアインの胸部だ。


 顔があった。腕があった。脚があった。翼があった。

 それぞれを繋ぐものは失われていたけれど、それでも、その姿は、間違いなくこの世界に存在しえないもの。

 ソラのゼクスクレイヴと肩を並べることのできる、唯一にして至高の機体アサルトセイヴだ。


「クロイツ、アイン……ッ」


『安心してよ。これはちゃんと壊れている。だってソラが討ったんだもんね。――でも、そんなの関係ないよ。ソラを殺せるのなら、何だってする。私もクロイツアインも、黄泉の淵からだって這い上がる』


 蠢く。

 かつてクロイツアインだったものが、まるで、もう一度その姿を取り戻そうとしているかのように。

 それに、ディアスキアの身体が重なる。


「……何を、している……っ?」


『竜は竜装に加工しなくても、その魔法みたいな力を使えるんだよ。――さっき、ソラが彼女にしてその支配権を無効化したみたいにね。だったら、壊れたクロイツアインと同化して、その不足を補ってもらおうかなって』


「ふざけるな……っ」


 リアが犬歯を剥き出しにして吠える。

 ソラにだって分かることだ。アサルトセイヴなんかと融合して、竜が無事でいられるなどとはとても思えない。あの出力は、生物の身で運用できるほど生易しいものではない。――もしもディアスキアをクロイツアインの一部としてしまえば、彼女の命は完全に破壊されるだろう。


「それでいいのか、ディアスキア!!」


『それが、アイリス様の望みであれば。それはこの上ない喜びであろう』


 ディアスキアは平然とそう答えた。そこには一切の悲嘆が存在しない。いっそ、歓喜の色さえ垣間見えた。

 本来ならどこかに拒絶があってしかるべきだった。脅されているにしろ何にしろ、竜がその命を差し出して人間に尽くせと言われているこの状況で、そんな感情が出ない方がおかしい。常軌を逸している。


 これがアイリの力なのかと、ソラは戦慄する。

 一城の主であるディアスキアすら崇拝させ、自らの血肉となることに喜びすら感じさせる。そんな非道な真似をしてまで、ソラの身を討ち滅ぼそうというのだ。


『さぁ、あの日の再演だよ、ソラ!!』



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