第三章 もう一度 -2-
濡れた木々をかき分けながら、ソラは開けた草原に出た。
降りしきる雨の中、いつもと変わらぬ様子で、その純白の騎士は膝をついて主の帰還を待ち侘びていた。
「……待たせたな」
そっと近づいて、白い装甲に触れる。雨ざらしにしていたせいで、泥にも似た汚れが手に付いた。
その装甲を開けて、下に隠されたテンキーからコックピットハッチを開く。つり下がって来たワイヤーに足をかけ、自動で巻き上げられながらコックピットへと乗り込む。
久しく座っていないシートの上には、丁寧に折り畳まれたパイロットスーツがあった。雨を吸って濡れたチュニックを脱ぎ捨て、そのスーツに身を包む。
タイトなそのスーツのファスナーを引き上げ、フルフェイスのヘルメットをかぶる。二年ぶりのその装束は、どこか懐かしさがあった。
「……もう一度、力を貸してくれ」
そっと操縦桿を撫でて、ソラはそのシートに腰かけた。それは気味が悪いほどにしっくりと来た。まるで、そこがソラのいるべき場所だと言うかのような。
「――ソラ・ミツルギ」
天井に設けられている数々のスイッチを入れながら、ソラは言う。今さら通信士など誰もいないと知りながら、それでも、自分の中で区切りをつける為に。
コックピットの中に次第に灯りがともる。眼前にモニターにはOSの起動表示の後、二つのカメラアイが映した空の風景が広がった。
「ゼクスクレイヴ」
ゆっくりと、ゼクスクレイヴがその重い腰を上げていく。みしみしと長い間かけて詰まった砂粒のようなものが砕かれ、やがて滑らかな動きを取り戻す。
うねりを上げるエンジンは、二年も放置していたというのに頼もしく響いた。やがてその音は天を突き刺す、鈴の音のように澄んだ一本の音へと変化する。
「出撃する!!」
翼を広げ、ゼクスクレイヴは大地を蹴った。同時、スラスターから噴出した斥力場によって純白の機体は漆黒の大空へと舞い上がる。
真っ暗な夜空の下、光の尾を引いて、その機体は真っ直ぐに『ダンフロイス』へと向かう。
「……乗れる」
その事実にソラはまず安堵した。それには、二つの意味がある。
ひとつは自身のトラウマだ。本当はゼクスクレイヴに乗ることすら出来ないのではないかと、そんな不安があった。だがリアの為に立ちあがった今は、そんなことは気にならなかった。
もうひとつは、単純な機体の話だ。無補給下でも出撃できるよう、自動整備機構がこのゼクスクレイヴには備わっている。とは言え、二年も放置していていいという造りにはなっていない。この出力で飛翔することが出来るかどうかさえ怪しかったが、幸いにも膝前にあるサブスクリーンに表示された機体の破損状況には、どこにも異変はない。内部に響く音も、どれも澄んだ音色ばかりだ。
一日かけて踏破したダンフロイスへの道も、空路かつゼクスクレイヴの出力ならものの数分で到着する。
流れる景色を見ながら、ソラは覚悟を決める。
「俺が、リアを助ける」
もう二度と何かを失わない為に。
ソラはその手に剣を取った。
「……ここか」
もう既に到着したソラの眼下には、見覚えのある城壁が映っていた。ディアスキア城だ。
おかしな音を発する存在が現れたことを不審に思ってか下等竜が群がってくるが、空を飛べない彼らには、ゼクスクレイヴをどうすることも出来ない。
待てばいずれはディアスキアか、リアが姿を現すだろう。そう判断して、ただソラはその場で大剣を構えて待ち続けた。
やがて、城の窓を打ち破って、ひとつの蒼い影が飛び出して来た。
凄絶なまでに美しい蒼穹の鱗を持った、翡翠のような瞳の竜。その姿を、ソラが見間違えるはずがない。
「リア」
スピーカーを通して、ソラは彼女に声をかける。だが、返ってくるのは獣らしい唸りにも似た呼吸音だけだった。
「目を覚まさせに来たよ。君は、俺の大事なパートナーだから」
ソラの言葉を否定するように、蒼い竜はソラの操るゼクスクレイヴへと爪を振りかざした。
全長十メートル近いゼクスクレイヴからすれば、その竜の体格は半分以下だ。体重差を考慮してしまえば大したダメージにもならない。
それでも、ソラは綺麗にターンして躱した。この装甲に爪を突き立てれば、リアの方が傷を負ってしまうかもしれないと思ったからだ。
「戻ってきてくれ……っ」
ソラだと気付いていながら攻撃を続ける彼女の姿に、心が悲鳴を上げる。彼女の姿が二年も前の自分と重なって、酷く目眩がした。
「グルルグォォォ――……」
彼女から放たれるのは、雄叫びだけだ。あの澄み渡った声とはかけ離れている。それでも、それは間違いなくリアの言葉だ。
直後、リアは翼をはためかせさらにソラへと突進した。
鈍った手つきでゼクスクレイヴを操りながら、ソラはそれをことごとく躱していく。機体の出力は生物のそれを遥かに超えるとは言え、この至近距離で躱し続ける以上は、トップスピードに到達できない。その速度は、リアに捉えられてしまいかねないギリギリのラインだ。
「――ッ」
眼前に迫った右腕を躱す為に、スラスター翼の出力を全開にして急旋回を図る。同時、みしりと嫌な音がコックピットの中に響いた。
ピーピーと甲高い警告音が鳴り響いて、膝の間にあるサブスクリーンの破損状況の中に、背中が表示されていた。
「流石に二年も経てば、この急旋回には耐えられないか……っ」
だが、一瞬でも速度を緩めればリアの餌食だ。あの爪が装甲を破るとは思えないが、今の傷んだ関節ではどうなるか分からない。
迎撃するという手が、ない訳ではない。加減さえ出来れば、それが一番双方のダメージを抑えられる。
それでも、ソラはゼクスクレイヴの右腕を使わなかった。
大剣を握り締めたその手を使えば、リアの動きは止められる。そんなことは分かっている。分かっていても、彼女を斬ることだけはソラに出来なかった。
「頼むから……っ。頼むから、戻ってきてくれ……っ」
必死に懇願する声が、届くかどうかも分からない。
機体のあちこちがアラートを鳴らす。もう回避は限界に近い。下手をすれば、遠心力と自重だけで関節が砕けるだろう。
それでもまだ保つ。まだ動ける。ならば、まだ諦める理由はない。
「傭兵団、組んだんだろう……。一緒に帰るって、言ったじゃないか」
言葉の間もリアの攻撃は止まない。それでもソラは躱し続けながら、必死に叫ぶ。
「そのリアが俺を置いて竜の側につくだと……っ? ふざけるなよ、そんな勝手、認められる訳ないだろ」
ぐぅ、と唸りが僅かに弱くなった気がした。それでも、制御は別にあるのか彼女の動きは決して衰えない。
「君が俺を選んだんだ。もう誰か大切な人を作りたくないって、そう思っていた俺を、君が無理やりに引きずり上げたんだろう。だったら、もう俺は止まらないぞ」
操縦桿を握り締める手に、力がこもる。
「もう離さない。だから、絶対に君を取り戻す」
その言葉に、とうとう竜の唸り声が止んだ。
ゼクスクレイヴへと振りかざした腕をぶるぶるとふるわせながら、蒼い竜となったリアは、じっとソラを見つめた。
「……げ、て……っ」
それは。
竜らしい唸り声などでは決してない。彼女の持つ、あの透き通るような声だった。
「逃げて、ソラ……ッ」
瞳孔の狭まった爬虫類らしい瞳にいっぱいの涙を溜めて、彼女は言う。
「私は、ソラを殺したくない……ッ。ソラに、私を殺させたくない……ッ」
彼女らしい言葉だと、ソラは思う。
ソラの境遇を知りながら、彼女はそれを受け入れてくれた。だからこそ、彼女は自分がソラの重荷になることを拒んでいるのだ。
「……当たり前だ。俺は殺されないし、リアも殺さない。――だけどそれは、リアを諦めるっていう意味じゃあない……っ」
どうすればいいのかなんて、見当もつかない。
それでも、ディアスキアの支配下にありながら、なお抗おうとする彼女を見て、はいそうですか、なんて入って引き下がれる訳がなかった。まだ彼女の意識はそこにあるのだから。
「駄目だ……っ! ソラ……ッ」
言葉はそこで途切れる。
瞳にあった涙を散らして、リアの腕は振り下ろされた。
躱すことを忘れたゼクスクレイヴの身を、その衝撃が叩きつける。大したことはないダメージのはずなのに、ぐらぐらとコックピットが揺さぶられた。
言葉をいくら紡ごうと、あの竜の支配からは逃れられない。そう見せつけられた。
リアが必死に抗っても、どうにか一言二言話すので精一杯。とてもディアスキアの支配から逃れられそうもない。
「……リアは俺が救う。絶対にだ」
「バカを……っ。その前に、お前が――ッ」
リアの言葉をかき消すように、彼女の身体はゼクスクレイヴへと激突した。
とっさに左腕の斥力シールドを展開し直撃を免れたソラだが、それでもなおその爪を立てんと迫るリアの姿に、ぞっとした。
あの気高く、そしてどこか幼い少女が、だらだらと涎を垂らし獲物を求めて、その見えざる盾へ牙を突き立てる。その姿が、もうどうしても見ていられなかった。
だが、彼女を救う為にどうすればいいのか。その具体的な方法が、ソラには分からない。
賢竜の器官をソラが操ればいい。それが出来るらしいことは、リアも言っていた。だが、どうすれば身体の外からその器官にアクセスできるのかが、分からないのだ。
簡単に出来てしまえば、この世界で賢竜が席巻することなどないだろう。最低限の条件として、生きた賢竜のそれを扱うには本人の意思が必要不可欠だろう。
「……願えよ」
だから、ソラは言う。
もう、そこにすがるしかない。
「俺の為だとか、そんな綺麗な自己犠牲なんていらない。だから、願え」
ぎちぎちとせめぎ合った状態で、それでもソラは吠える。
もう機体の至るところが悲鳴を上げていた。もともと高速機動に特化させる為に、装甲は削りに削っている。弱くなった関節で高速機動を繰り返せば、放っておいても自壊するだろう。時間はあまり、残されていないのかもしれない。
それでも、ソラは言う。
「帰りたいって、その一言だけでいい。それだけできっと、変えられる」
その言葉に、リアの身体は拒絶するようになおさら力を込めていく。だが、彼女の声は震えていた。
「……たい」
小さな、小さな声だった。
それでも彼女の心からの声だ。
「帰りたい。お前の元へ、私は帰りたい!!」
願うと同時、彼女の身体が金色の光に包まれる。だが、それ以上の変化は訪れない。
振り下ろされた腕と激突していた、ゼクスクレイヴの左腕のシールドが弾けた。経年劣化で斥力場の発生に耐えられなかったのだろう。
迫るリアの爪は、真っ直ぐにコックピットを狙っていた。今のゼクスクレイヴの脆弱性では、装甲はそれにすら競り負けるだろう。
とっさに右手が動いた。動いてしまった。
あの日の後悔と共に、それでも、身体に染みついた習性がソラの邪魔をする。
握り締めた大剣が煌めく。
蒼く美しい鱗を、その剣閃は両断せんと迫る。
風を斬り、鱗を引き裂き、真っ赤な血が――
瞬間。
ソラの思考が、あの日へと引き戻される。
また、繰り返す。そう思った。
けれど。
だけど。
「やめろぉぉ――ッ!!」
腕を引く。全力で、あの日を打ち破る為に。
それに応えてかどうかは分からない、だが、ゼクスクレイヴの刃は、そこで確かに止まっていた。彼女の身体へ刃を食いこませ、ぼたぼたと血を滴らせながらも、その刃は彼女の胸の皮一枚で止まっていた。
「……やったよ、リア」
そして。
リアの身体とソラが、ゼクスクレイヴを介して繋がる。彼女の身を包んでいた金色の光は、次第に強さを増した。
リアの姿を強く想い浮かべる。
金色の髪を束ねた、華奢で可憐な少女。無邪気に笑い、少し高慢で、けれど、それすら愛おしい。そんな少女の姿。
光が強くなり、彼女の身を完全に覆い隠す。やがて、蒼い鱗に包まれたその姿すら見えなくなった。
そっとゼクスクレイヴの左の掌を、まるで何かをすくうように天へ向ける。リアの身体を包んでいた光が、その掌へと吸い込まれていく。
ふわり、と。
金色の髪が、その武骨な鋼の掌に広がる。
白磁のような白い肌に、左肩から胸に駆けて一筋の刀傷を残した痛ましい姿で、けれど、彼女は笑ってソラへとピースサインをしていた。
「……おかえり」
溢れ出る涙をそのままにソラは、シートベルトを外し、ヘルメットを脱ぎ捨て、オートパイロットへと替えたゼクスクレイヴのコックピットから飛び出した。引きよせた掌の上に着地して、リアの身体を抱き締める。
「ちくしょう……っ。本当に、良かった……っ」
「痛いぞ、ソラ……」
そう言いながら、彼女はそっとソラの頬を撫でた。降りしきる雨の冷たさも気にならないほど、その掌は温かった。
「……済まない。これに乗りたくないと、ソラはそう言っていたのに」
「構うもんか」
そう言ってさらに強くリアを抱き締める。
彼女を取り返せた。それだけで胸がいっぱいだった。この手で彼女を殺してしまわずに済んだことが、心の底から嬉しかった。
何に対してかも分からない、けれど、本当に途方もない感謝が胸の奥から溢れ出る。
これ以上泣かないようにと堪えるので精いっぱいだった。安堵の感情が体中に広がって、自分ではどうしようもないほどに彼女の温もりが欲しかった。そこに彼女がいることを、確かに実感できるから。
「……早くここから離れよう。ディアスキアがどう動くか分からんからな」
「あぁ」
ややあって落ち着いてから放たれたリアの言葉に頷いて、ソラは彼女を抱えてコックピットへ戻ろうとした。だが、そこでピタリと動きを止めた。
安堵で包まれていたはずの胸の中で、何か、しこりのようなものがあった。
「……どうした?」
リアの問いは聞こえている。だが、ソラはそれに答えられなかった。
頭をよぎった違和感が、そんなことさえ許さないほどの警告音を鳴らし続けている。
「……ディアスキアは、何がしたかったんだ……?」
その問いの答えが、どうしたって分からない。それが酷く不気味に思えた。深い穴を覗いたときのような、ぞわぞわと足元から這い上がってくる恐怖があった。
ディアスキアがどう動くかなど予想が出来ない。当然だ。彼女はリアを操って何をしようとしていたのか、まるで分らないのだから。
それに、彼女はリアを操る寸前、確かに誰かと会話していた。まるで誰かの指示を仰ぐかのように。そして、その指示の結果、二年前のあの日のように、ソラはリアを討たなければいけない状況へと引きずり込まれた。
まるで。
それこそが望みだったとでも言うかのように。
「……何を……」
自分の脳裏によぎった可能性を、自分で笑い飛ばそうとする。しかし、乾き切った喉には刺さるような痛みがあった。
だが、そんな強がりには何の意味もなかった。それ以外に、合理的にこの状況を説明できるものが何もなかった。
答え合わせでもするように。
その美しいソプラノの声が、ソラの鼓膜に突き刺さる。
「久しぶりだね、ソラ」
頭を金槌で殴られたみたいな、そんな衝撃があった。
その声を、ソラが忘れるはずがなかった。
「……嘘、だ……」
ゆっくりと、壊れた人形のような動きで、その声のした方を振り向く。
そこに、彼女はいた。
紅の竜をまるで召使いのように従え、その肩に腰かけた、一人の少女だ。
紫がかった長い黒髪。
高級なガラス細工のように美しい瞳。
雪のように白く輝いた肌。
触れれば折れてしまいそうな華奢な身体。
そのどれをも、ソラが見間違うはずがなかった。見間違えられる訳がなかった。
誰よりも護りたいと願った。
誰よりも傍にいたいと願った。
ソラが愛した、一人の少女だ。
「……アイリ……」
戦慄と共に、ソラはその名を呟いた。
この手で殺したはずの少女が、そこにいた。




