第三章 もう一度 -1-
夢を見た。
ナヴィガトリアではない。かつて暮らしたあの世界での、最後の日だった。
乖離した精神が、ゼクスクレイヴがアイリス・ホワイトブレットの乗るクロイツアインを貫くその様を、眺めていた。
泣き喚き手を必死に伸ばしても、そこに届くことはない。右手の大剣が赤い鎧の胸を貫くのを、ソラにはどうすることも出来なかった。
あの日の絶望が、胸を満たす。
肺の中の酸素を燃やし尽くし、胸骨を打ち砕き、なおも身体を押し潰す。そんな中で、彼は一粒の涙を零した。
*
頬を伝う滴に気付いて、ソラの意識が浮上する。
重い瞼を開く。ぼやけた視界に、ゆらゆらと揺れるほのかな光が差し込む。雨音なのか、木の窓を叩く音が続く。
状況が呑み込めなくて首を動かすと、そこは見慣れた部屋の中だった。
「――あ、起きたね」
未だ記憶も判断も曖昧なソラの部屋に入ってくるなり、宿屋の店主――フローラが声をかけてくる。
「……フローラさん。俺……」
「昨日ジャスパー卿に担がれてきたときは、びっくりしたよ。それから丸一日寝てるし。――ダンフロイスからの帰りもずっと眠りっぱなしだったらしいから、合わせて二日間もか。いい加減にご飯食べないと死ぬわよ?」
ダンフロイス。その単語を聞いて、次第にソラの記憶が鮮明になる。
ディアスキア城を落とす為に、ソラはその都市へと赴き、竜の群れの中を突っ切った。
そして。
ディアスキアにリアが操られ、ソラは彼女を置いてきた。
「――ッ!!」
思い出した瞬間、ソラは跳び起きた。だが二日も動いていなかったせいなのか何なのか、身体にまるで力が入らなくて、ぐらりとそのまま倒れた。
「危ないってば! あんた、毒でやられてたのよ? その場ですぐに解毒できたからいいものの、二日も寝込んでるんじゃ、体力が残ってない!」
「行かなきゃ……ッ」
フローラの忠告が耳に入っていない訳ではない。だがそれでも、ソラは立ち上がろうとした。破れた風船のように力を込めても抜けていく中で、必死に奮い立たせる。
「俺が、リアを助けなきゃ……ッ」
それだけを言って、ソラは自分の身体を睨む。たかだか二日寝込んだ程度でここまでガタがくるとは、情けなさ過ぎる。
「リア……ッ」
たった一人のパートナーの名を呼ぶ。出会ってまだ一月程度だろうに、ソラには彼女の声がないということがあまりに空虚に感じていた。
おそらくは、当分の間『ダンフロイス』への侵攻はないだろう。つまり、リアの奪還は不可能と言うことになる。そして、ソラには竜の動きを知る術が全くない。
知らない内にリアが戦場へと送られていて、知らない誰かの手によって殺されるかもしれない。そう思うと、砕けそうなほどに歯を食いしばっていた。血の味が微かに広がる。
「駄目だって。いまジャスパー卿はカールライルに戻って、防衛策を練ってるらしい。どうせすぐにダンフロイスからの襲撃があるから。――つまり、あんた一人でダンフロイスに乗り込むことになるんだよ? そんなの、出来る訳がない」
傭兵なんて仕事に携わってなくとも、一般人にだって分かる理屈だ。たった一人で軍に挑むことなど不可能だ。それはどんな時代でも変わらない。
――たったひとつの、手段を除けば。
「――ッ」
気付いた途端、のしかかる空気が重さを増した。宇宙での活動が長かったから、こちらの大気圏内に来たときにも重みを感じたが、それとは比べ物にならない。全身の肉を鉛に挿げ替えられたかのような、どうしようもなく気だるい重さだけがあった。
「……ゼクスクレイヴ」
その名を呟くことにさえ、吐き気がした。
ソラたちのいた世界で、最強と称された機体だ。それは単騎で敵艦隊を殲滅する為に造られた、紛うことなき対艦兵器。竜の群れなど一顧だにしない。それだけの強さがある。
鋼の装甲は光学兵器すら防ぎ、手にした剣は全てを両断する。相手が機械兵ならいざ知らず、生物である以上はゼクスクレイヴの相手ではない。
だがそれでも、ソラはそれに乗る決断が出来なかった。
あの白い騎士に乗った自分を想像するだけでも、身体が震えた。意識がどこか遠くへといざなわれる。
あの瞬間。
ゼクスクレイヴで最愛の人を討った感触が、蘇る。
「――ッぁ……」
思い返すだけで、全身が痙攣するほどの後悔がソラの身を襲う。呼吸すらままならなくなって、必死に酸素を求めて胸を動かす。
なるほど、ゼクスクレイヴに乗れば、リアの元まで容易く駆けつけられるだろう。立ち塞がるいかなる竜も切り払うだけの力がある。
だが、その先はどうする?
リアの意識は完全にあのディアスキアに乗っ取られている。そんな状態でソラが立ち向かったところで、彼女はソラの乗るゼクスクレイヴを破壊しにかかるだけだろう。
きっと、その果てにソラはまた同じ過ちを繰り返すのだ。大切な相手を、あの悪魔のように白い騎士の剣で、刺し殺すのだ。
それが分かっているから、ソラにはもうどうしようもない。
なのに。
そのはずなのに。
「……駄目なんだ……ッ」
それでも、ソラは拳を握り締めていた。
「俺が行かなきゃ、駄目なんだ……ッ」
この場で彼女を助けに行くということは、あの日の再現に他ならない。そして、きっとソラの心は二度もその後悔に耐えられるほど強くはない。
だから、立ち上がれない。最期に見たアイリの顔とリアの顔が重なって、どうしようもなくソラの身体を縛りつける。
なのに、それでも拳は解けない。骨が砕けそうなほどに握り締めたまま、少しも緩もうとしない。
心と心が乖離している。本当に身体が張り裂けそうだった。
「……あの子と出会ってから、あんたは少し変わったよ。前までは誰とも話したがらなかったのに、あの子とは自分から関わっていったように見えた」
「……、」
「あのリアちゃんにしたってそうだよ。最初はただあんたに懐いていただけみたいだったけど、傭兵団を組むようになった頃には、本当に信頼してたみたいだった」
ずばりとフローラは言う。きっと酒場は人のいろんな感情が入り乱れる場所なのだろう。そこを女がてらに切り盛りしてきた彼女だからこそ、ソラやリアのそんな些細な変化もしっかりと気付いていたのかもしれない。
「あの子が、あんたと傭兵団を組みたがっていた理由。分かってるでしょ?」
「――ッ!」
本当は、そんなこと、言われなくたって気付いている。
だから、だから――
「あたしはもう止めないよ。あんたが行くっていうのなら、全霊で応援するさ。――だから、まずは身体を休めな。今のあんた一人じゃ、助けられるものも助けられない」
「でも……ッ」
「無理をすれば、あんたが死ぬ。そんなの分かってるんだろう? それで一番誰が悲しむと思ってるの」
何も言い返せなかった。全く以ってフローラの言う通りだ。
第一ソラには、リアを助ける算段が何ひとつついていない。基盤も手段もない状態で立ち向かえば、そこに待っているのは死だけだ。
賢竜に操られた竜の支配を解く術など、竜ではないソラに分かるはずもない。そもそもどういう理屈を持って操っているのかさえ、皆目見当がつかないのだ。
そんな状態で彼女の元に駆けつけることを、助けるとは言わない。死に急ぐと言うのだ。
「……大事なものは、失って気付く。失くしたものは絶対に返って来ない。墓の前でどれほど泣いたって、どうしようもないんだ。――そんな思いを、リアちゃんにさせないで」
その言葉は、今までのどの言葉よりも重みがあった。
きっとフローラも、それなりに重いものを抱えているのだろう。ソラと出会ったときには、まだ二十代になるかどうかといった頃だったのに、その頃には女一人でこの酒場を切り盛りしていた。親や夫の姿など見たこともない。
きっとその辺りに、フローラの言う『失くしたもの』があるのかもしれない。だからこそ、彼女はリアにその後悔をさせたくないのだろう。
「……あんたが騎士様だったんなら、こんなことは言わない。ふらふらの状態でも竜装で敵をばたばた薙ぎ倒せるんなら、それでいい。けど、あんたは違う。あんたには竜装がないじゃないか」
その諭すような言葉に、ソラはうなだれそうになった。
だが。
そこで、天啓のように何かがよぎる。
「……待て」
思考を必死に繋ぎとめ、その閃きを呼び戻す。
賢竜は下等竜を従える。その本能すら抑えつける形で。
――だが、そもそも他者を一方的に支配するなど、如何なる生物にも不可能なはずだ。そんなことが出来るのであれば、肉食動物は狩りなどせずに口を開けて草食動物を待つだろう。
しかし。
ソラは知っている。この世界では、摂理はどうとでも捻じ曲げられると。
「そうだよ、竜装だ」
竜の体内にある器官を用いて、竜と同様に魔法染みたことを行う武装。それが竜装だ。それは世界の摂理すら無視して、人を空へと舞わせ、炎を自在に操ってのける。
賢竜が下等竜を操れるのは、その器官があるからではないのか。それでも違う生物までは操れなかったり、同じ器官を持つ賢竜は操れなかったり、様々な制約はあるのだろうが。
そこまで分かれば、あとは簡単だ。
「……俺がやる」
言葉にすれば簡単だ。竜装と同じなのだから、その器官はなにもリア自身が制御する必要はどこにもない。外部からでも、何かしらの条件が合えば操作できる。
リアに出来ないのであれば、ソラがそれをすればいい。彼女救う為には、もはやそれ以外の道はない。
彼女の賢竜としての力を用いて、ディアスキアの支配を上書きする。そうすれば、リアを殺すことなく、彼女を元に戻すことが出来る。
「……ありがとう、フローラさん」
あの日の後悔が消えた訳ではない。そんな無茶な方法で本当にリアを救えるか、確証がある訳でもない。それでも、ソラの声は僅かに明かりが差していた。
「食事、作ってくれないか。二日も何も食ってないから、力が入らない」
「……食べたら、行くのね」
「あぁ」
拳を握り締めて、ソラは目を見開く。
このまま朽ちていくことは、きっとそれこそ取り返しのつかない後悔を生むと分かってしまったから。
あの日を打ち破ってでも、取り戻したいものがある。その為にソラは立ち上がった。




