その一 王宮のとある午後のひと時(エリック視点)
―――全く、冗談じゃない。
前回の休みから、また1ヶ月近くまともな休日をとっていない。馬車馬のごとく働かされるというのは、まさにこういうことを言うのだろう。いくら職場である右宮と宿舎が隣接しており、普段の衣食住は自分の従者や侍女が面倒を見てくれるから仕事以外の生活を心配する必要がないと言っても、疲れるものは疲れるのである。
しかも今の俺の立場は、いわゆる中間管理職というやつで、上司と部下の都合にうまく折り合いをつけてやる仲裁役も任されている。俺の上官であるゲオルグ軍事顧問は、文句なしに立派な尊敬出来る方だが、彼の込み入った過去が周囲に正しく知られていないために、一部の若い騎士達からは非常に疎まれているのである。ゲオルグ閣下ご自身がその誤った情報を正すことに頓着をされないことも、俺の頭痛の種でもあった。
それとは別に、俺にとっては深刻な、大げさに言えば死活問題と言えるくらいの最大の不満要素、それは私的な時間をまったく持てないことである。
俺はまた、1ヶ月前の決死のプロポーズ以降、最愛の婚約者であるルーシアに会えていないのだ!!!
一体これはどういうことなんだ!?!?運命の女神というやつがいるなら、自分の非情な行いを今すぐ悔い改めろと声を大にして言いたい!!!
なんで結婚間近の恋人同士が、遠距離恋愛というわけでもないのに数ヶ月単位でしか会えないんだ!?!?
しかも、聞こえて来るルーシアの近況と言えば、新人教育という新たな任務を与えられ毎日生き生きと職務に当たっており、俺に会えない寂しさなど微塵も感じさせないという。以前彼女が騎士になった理由は俺に会える時間が減るのが嫌だったから、と言ってくれたことがあったが、そんな言葉はまるで幻だったかのような会えなさ具合である。
いや、俺だって彼女の気持ちを疑っている訳じゃない、俺のプロポーズを喜んでくれていたし。俺が贈った婚約指輪も、身に着けてくれていると思う、たぶん……。
そもそも彼女は気持ちをはっきりと言葉と態度に表してやらないと、俺の想いなんて全く気付かず年単位でもスルーしてしまうくらい鈍い。俺は最初から相思相愛だと思っていたのに、彼女が俺が主君であるエメセシル様に片恋をしていると勘違いしていると聞いた時には、顎が外れそうになるくらい驚いた。俺がテオドール閣下を恐れて彼女に手を出さないでいたこと、彼女の真面目な性格を考慮して業務中は私的なアプローチを控えていたことが裏目になり、何をどう解釈したのか、彼女は俺の気持ちを明後日の方向に受け取っていたのだ。
それからは俺も反省し、きちんと自分の気持をはっきり勘違いする要素が無いよう伝えるように心掛けている。
それでも、こうやって長く会えないと彼女も俺を恋しがってくれているのか、俺の方が不安になって来るのだ。
―――やっぱりもう、限界だ。
俺は執務机にそれまで目を通していた書類をバサリと重ねて置いた。
「……アーウィン……俺はちょっと出かけて来る」
俺は先日、自分の補佐役に任命された少し年下の青年騎士に声を掛けた。明るい榛色の髪の、いかにも好青年といった感じの実直な印象の男である。彼がやたら真面目なせいで、急ぎでない仕事まで際限なく振って来るのも、俺が忙殺されている原因の一つである。
「エリック様!?いけませんよ、今日はせっかく午前中に全体訓練を滞りなく終えられたのですから、午後は事務仕事を出来るだけさばいてしまいましょう!!今後もスムーズに進められるかも分からないのですし、早め早めの処理が肝心です!!」
「早め早めにも限度というものがあるだろ!?俺は機械じゃないんだ、少しは休憩しないと過労死してしまう!!」
いつもの調子で真面目に返答して来たアーウィンに、俺は唾を飛ばしながら抗議した。こいつは頭は悪くないんだが、融通が利かなすぎる。
「今日はゲオルグ閣下も国王陛下に呼ばれて、戻って来られるのは夕方になるだろうし、その間だけでも俺は休憩をとる!!急ぎでやらなくちゃいけないのはないんだから、それくらいいいだろう!!」
俺はそう言うが早いか、自分用の執務室を勢い込んで飛び出した。はずみで書類が数枚床に滑り落ちたが、真面目なアーウィンがそれを拾う間に、少しは奴から離れられる時間稼ぎにでもなるだろう。
俺の今の職場である右宮は同じ王宮内とは言え、以前の所属であった近衛騎士隊の管轄である奥宮に行くには、徒歩で20分くらいかかる距離だ。俺は逸る気持ちを抑え走り出しそうになるのを堪えながら、早足で歩いて行く。基本的に王宮内をバタバタ走り回るのは品が良くないとされているからな。体面を重んじる貴族社会の面倒くさいところだ。
右宮から中央宮に渡り、さらに連絡通路を抜けて奥宮に辿りつくと、良く馴染んだ光景が広がっている。12歳から数か月前までここで生活していたのだ、右宮よりよっぽど勝手が分かっている。俺は迷うことなく、普段近衛騎士達が担当外の時に使用している会議室の方に向かう。そこにいる連中にルーシアが今日警護担当なのかも聞けるだろう。上手くすれば彼女自身がそこにいるかもしれない。
そんなことを思いながら奥宮内を歩いていると、正面からこれまた見知った顔が歩いて来た。
「!?エリックじゃないか!!どうしたんだよ、こんなところで!!」
声を掛けて来たのは、近衛騎士時代の古い付き合いでもあり、俺からリーダー職を引き継いだハインツだった。以前負傷した傷もすっかり完治し、いつもの人懐っこい様子で声を掛けて来た。
「ハインツ!!久しぶりだな!!元気だったか?」
俺も嬉しくなって声を掛ける。ハインツは俺の呼びかけに笑顔を見せ、特徴的なそばかすの浮いた鼻を掻いた。
「うん、元気は元気だけど、人がだいぶ入れ替わっちゃったからまだバタバタしてるよ。さっきもルーシアと新しい隊員の教育方針について、話し合っていたところだ」
「……!ルーシアは今どこにいるんだ?!」
俺が耳ざとく彼女の名に気付き尋ねると、ハインツはははーん、とでも言いたそうな目をした。
「ああ、どうりで……。ルーシアはまだ、会議室で一人実習案を練ってるよ」
「会議室だな!」
なんでもお見通し、とでも言うかのようにハインツはニヤリと笑い、俺の肩にポンと手を置いた。
「しばらくは誰にも会議室に行かないように言っておくから、ごゆっくり」
その目が何かいやらしいことを考えているようで、俺はたじ、となる。きょ、今日はルーシアの顔を一目見たいだけで、俺は何もやましいことなんて考えてないぞ!!
「まぁ、ルーシアにとっても気分転換になるかもね。じゃ、僕は警護に戻らないといけないから」
そう言うとハインツは俺に手をひらひらさせながら、離れて行った。
体裁が良くないと分かっていつつも、あと数分でルーシアに会えるかと思うともう、これ以上は逸る気持ちを抑え切れなかった。無意識のうちに俺の足は駆け出しており、最後の角を曲がった時には全速力になっていた。すれ違う奥宮に勤めている使用人達がぽかんとした様子で俺の姿を見送っていたが、構うものか。
俺は目当ての会議室の扉を認めると、一目散に駆け付けその扉をノックもせずに力一杯開けた。
バタンっというけたたましい音が響くと同時に、全身で息をしながら部屋に駆け込む。部屋に入ると、ついに、会いたくてたまらなかった恋人が一人で長テーブルに着席し、俺の登場に仰天している姿が見えた。
「……ルーシア……俺は、もう限界だっ……!!」
彼女の顔を見るなり、俺は思わず叫んでしまっていた。
「エリック……!?」
その俺の様子に彼女はひどく驚いて書類を取り落とし、立ち上がる。
ああ、やっぱり仕事中だったんだな、と俺は中断させたことを申し訳なく思いつつ彼女のいる長テーブルの方には行かず、そのさらに奥の応接用長ソファまで真っ直ぐ向かう。そしてその長ソファに勢いよく横になると、少しだけ襟元を緩めて上着もそのままに体の力を抜いた。まだ真昼間で部屋は仮眠を取るには明るすぎる、俺は片手で目元を覆うようにして目を瞑った。ルーシアは鳩が豆鉄砲を食ったような顔でその俺の一連の動作を見ていた。
硬直している彼女に心で詫びつつ、俺は言い訳のように小さな声で呻いた。
「……仕事を抜け出して来た……少し、休ませてくれ……!!」
ほんの少し、1時間くらいで構わない。君の傍で体を休ませたい。君と同じ空間にいるだけで、リラックス出来るんだ。
「……エリック?」
困惑した様子で俺の名を呼んだ彼女が、そろそろと近づいて来る気配がした。
「……気にしないでくれ、まだ業務中だろ?邪魔するつもりはないんだ……ただ、君の顔を一目でいいから見たかった」
そうだ、ただ寝るだけなら宿舎の自分の部屋に行けばいいけど、君に会いたい気持ちはどうしようもない。君がいつでも俺の活力剤なんだ。
俺は袖越しに薄目を開けてルーシアにぼやいた。ちょっと自分でも甘えるような声音になってしまったなと思う。
困ったように眉を下げて俺を見ているルーシアに、本当に邪魔するつもりはないんだ、という意味で俺はすぐまた目を瞑る。俺が彼女に声を掛けさえしなければ、彼女も業務を続けられるはずだ。
ほんの少しの逡巡の後、彼女が長テーブルの方に離れて行くのを感じ、俺は途端に猛烈な睡魔に襲われる。数秒でまどろみ始めた俺に、いつの間にかルーシアがまた近寄って来ていた。
「エリック、上着くらい脱いで。制服が皺になってしまうわ」
少しだけ咎めるようなルーシアの言葉に、ああ、そうだよな、今は師団長の職も任されている俺がよれよれの制服なんて着ていたら体裁悪いよな、と俺は動きの悪い頭でぼんやり考えつつ、重い上体を一度起こしてもぞもぞと上着を脱ぐ。するとルーシアが俺の上着を取り上げて、さっと畳み別の椅子に掛けていた。俺はその様子を相変わらず寝ぼけながら見ている。
すると、ルーシアは長テーブルに今度は戻らず、再び俺に近寄ると隣に腰掛けた。そしておもむろに俺の肩に手を伸ばし、その膝の上に俺の頭を引き寄せた。
―――!?!?!?
「!?…ルーシアっ!?」
俺はそのルーシアの行為に一気に眠気が吹っ飛んで、慌てて起き上がろうとした。これじゃまるで膝枕じゃないか!!
「少し寝るんでしょう、この方が楽だと思うわ」
しかし意外にも少々強引にルーシアが俺の肩をそのまま抑え込み、起き上がるのを制した。ちょっとだけいつもより素っ気ない物言いで。
「俺は、君の仕事の邪魔をするつもりは……!」
「いいのよ、どのみち煮詰まっていたから、私も休憩」
つん、と澄ました顔で言うルーシアだが、その目元だけ少し照れたように赤い。既に俺の顔も赤くなっている。何とも言えない気持ちで視線を宙に泳がすけれども、この柔らかで温かな膝の心地よい温もりに抗える意志力を、俺は持ち合わせていなかった。結局観念し、目を瞑りながら俺の肩に置かれたままの彼女の手に、自分の手を重ね合わせる。その滑らかな肌の触り心地だけでも、普段ささくれている心が癒されるようだった。
「……ルーシア、君に会いたくて仕方なかった……」
思わず、本音が口をついて出る。閉じた瞼越しにルーシアが小さく息を呑むのを感じた。
「私も……会いたかったわ」
その今度は少し甘い響きのルーシアの優しい声に、俺は嬉しくなって緩めた口で「うん……」と返事をする。
実際は眠気はもうどっかに行ってしまっていたが、この心地良さを堪能していたくて俺は目を瞑ったまま身じろぎもせず、体の力を抜いた。
しばらくすると、俺が握っていない方の手で、ルーシアが俺の頭をまるで母親がするようないたわりの仕草で撫でてくれる。そのこの上ない心地よさに、つい、すん、と鼻を鳴らしてしまう。
「……ルーシア……」
こんな幸せな時間が次いつ持てるか分からない、と一度思ってしまうと、どうしてもさらに欲張りになってしまう。俺は彼女の名を囁きながら、体の向きを変え、その細い腰に抱きつくように腕を回した。いやらしいと嫌がられるだろうか、と少し心配になったがルーシアは気にした様子もなく俺の頭を撫で続けた。
俺はさらに嬉しくなって、彼女の腰に回した腕をさらにぎゅっと力を込めた。
……いつでも、俺が本当に安らげる居場所は君の隣なんだ。
うららかな午後の日差しが部屋いっぱいを包み込み、会議室はほのかに暖かい。
俺は極上の束の間の休息を、心行くまで堪能していた。
―――しかし、俺の幸せはそう長くは続かなかった。
部屋の外で、遠くから何やら騒がしい足音と、見知った若い男の声が俺の名を連呼しているのが分かった。途端に湧いて来た得も言われぬ不愉快さに、思わず眉を顰めてしまう。
……いいや、無視してしまおう。俺は休憩中なんだ。
残念ながら、その俺の試みは上手くはいかなかった。
「エリック様ー!!どこですかー、エリック様ーーー!!」
その俺を呼ぶ声は、狙いすましたように確実にこの会議室に近づいて来ていた。
「……アーウィンの奴……」
あいつ、絶対俺がここにいるの分かっていやがるな……!!
俺はその不快な呼び声に観念して、ルーシアの腰に回していた腕を外し不承不承起き上がった。ルーシアは目を瞬かせながら、滅茶苦茶不機嫌になった俺を見つめている。
それから数分も経たない内に、この会議室の扉が何のためらいもなく乱暴にノックされ、俺もルーシアも返事をする前にその扉は勢いよく開かれた。
「ルーシア様、お仕事中失礼致します!上官であるエリック様がこちらに立ち寄られていると聞き、参りました!」
「……アーウィン~~~!!!」
思った通りの人物の登場に、俺は恨みを思い切り込めて奴の名を呼んだ。
「俺は少し休憩をとると言っただろう……!!ほんの2、3時間の休みくらい自由にさせてくれないか?!?!」
奴の登場に頭痛を覚え、俺は頭を押さえながら容赦なくアーウィンを睨み付ける。すると、アーウィンも申し訳なくは思っているのか、肩を落とした。
「申し訳ございません、しかし、ゲオルグ軍事顧問に反発する若い騎士の一部がまたしてもゲオルグ閣下に嫌がらせを!!」
「何だと!?」
俺はアーウィンの発言を聞いて、瞬間的に頭が休みのそれから仕事の状態に切り替わる。俺とて王国軍の責任の一部を任されている自覚はあるのだ。
特に、上官であるゲオルグ閣下に対しての若い騎士達の理解の無さは目に余る。到底看過出来るものではない。
「ゲオルグ閣下ご自身は気にしない、放っておけと仰っていますが、あそこまで露骨にされるとその騎士らを処分せざるをえないと、エリック様に仲裁して頂きたく……!」
「分かった!」
常日頃、自戒的に過ごされているゲオルグ閣下が若い騎士達を罰するつもりがないのは分かっているが、だからと言って放っておいて良いものではない。そもそも王国軍は縦社会なのだ。きちんとそこのところを若い騎士達に自覚させなければ……!
「ルーシア、騒がせてすまない。また、時間を見つけて会いに来る!」
俺はまだ目を丸くしているルーシアに一言詫び、ソファから立ち上がるとそのまま別の椅子に掛けられていた上着を乱暴につかみ取る。そのまま扉の方に足を向ける。
「あ、待って、エリック!」
足早に扉に進む俺に、ルーシアが慌てたように立ち上がり駆け寄って来た。俺は思わず振り返り、彼女に向きなおる。すると、
「シャツの襟が乱れているわ……」
そう囁いたルーシアが、流れるような仕草で俺の首元に手を伸ばしその襟を整えてくれる。そのごく自然な仕草に、俺は思わず引き込まれたようにルーシアの琥珀の瞳を見る。思いがけないその距離感に、どきりと胸を鳴らす。彼女のその行為だけでも、俺の胸をときめかすのには十分だった。だが、次の瞬間の出来事は、それを大きく上回る衝撃だった。
ルーシアの美しい琥珀の瞳が俺を捉えたかと思うと、突然、その可憐な唇が俺のそれにそっと重ねられた。
―――!?!?!?!?
い、一体何が起こったんだ!?!?!?
俺がその全く予想もしなかった出来事に、固まっていると、ルーシアが照れ臭そうに視線を逸らす。
「……お仕事、頑張ってね」
その素っ気ない物言いに、彼女にキスをされたんだと初めて気づき、途端に俺は耳まで真っ赤になってしまった。彼女から俺にキスをしてくれたことは、今までに一度もない。しかも、照れ屋な彼女が、アーウィンのいる前でこんな大胆なことをするなんて、本当に思いもよらないことだ。
「……あ、ああ……。い、行って来る!」
頭の中は完全にパニックになっている俺は、しどろもどろになりながら、やっとのことで頷いて彼女に返事をする。くそー、アーウィンの好奇心旺盛な視線が痛い。
「エリック様、いいなー……俺も恋人が欲しいです!」
「う、うるさい!仕事に集中しろ!!」
半分は本心だろうが、茶化すように俺に追い打ちを掛けて来るアーウィンを、俺は思わず力一杯怒鳴りつける。
……一応、これでも部下達の前では厳しい鬼上官で通っているんだ。これでは威厳も何もあったものではない。
俺は上着を乱暴に着込みながら、今度こそ扉からバタバタと出て行く。最後にちらり、とルーシアの様子を窺うが彼女自身も自分の大胆な行動に混乱しているようだった。
部屋を出た俺は、慌ただしく奥宮を駆け抜けて行きながらも、その足取りは来た時よりも嘘のように軽かった―――。
私の中で、エリックは苦労体質、不運、うっとうしいというのがキャラの固定イメージになって来ました(笑)でも今回はエリックのご褒美回ですね(^^;




