7話 深淵の水
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ラインは何やら嫌な予感がして、体育館へと向かっていた。
クラレスが持ってきた薬のおかげで、午後には熱はすっかり下がり、動けるまでになっていた。けれど、先ほどからライン捕らえて離さないものがあった。
それは、ほんのささいな胸騒ぎ。けれどそれは、先ほどクラレスたちが様子を見に来た後から、全く止む気配がない。
模擬戦をやるだけなんだろ? ただ、それだけのはずなのに。
心配ない、自分にいい聞かせるものの汗は染み出し、制服がベッタリと身体に張りついた。ラインはそれを振り払うように、体育館への足を速めていく。
「あれは、アニス?」
体育館へと続く通路の途中、少し慌てたようすで駆けていくアニスが目に入る。
ラインに気づくことなかったが、その反面、胸が締めつけられるほどの焦燥が押し寄せてくる。そのまま急いで体育館の中に駆け込み、クラレスの姿を探す。
「クラレス!」
照明に明るく照らされた体育館、散乱した用器具たち。
舞い降る埃の向こうに見える二つの人影。
そこには、今にも炎に晒されそうなクラレスの姿があった。
“ 解放 ”
ラインは携えていた『水女神』を抜き、引金を引いた。
弾けるような高音と共に、銃弾となったブレスが音速で熱波とクラレスの代打に割って入る。水女神――貯えられたブレスを弾丸と代えて放つ装飾銃、弾倉の6発のうち2発分に込められたブレスは、通常では受け止めきれない暴炎を食い止めている。
「ライン、どうして! まだ起きちゃダメだよ」
クラレスが目を丸くしてラインの袖を引っ張る。
「今はそんなことをいってる場合じゃないだろ!」
焦りに揺らぐ集中、それはラインが展開している水壁にも影響する。
瞬く間に押し返される水に、ラインはチカラを加えて抑え込む。
「どうなっているんだ、これは?」
「わからない。彼女、さっきまで気を失っていたのに」
「そんな状態で、こんな高位の――召詠、が――」
炎との間に展開された水の壁、それが熱波を遮るものの、炎の勢いは一向に衰えない。
手にした水女神を押し当てるようにしてチカラを込めるが、水は液体の状態を保てず、気化し消え去ってゆく。
再び水女神を構えようとすれば、炎はその隙を伺うかの如く勢いを増した。
「不味い、出力が足りない」
水も体力も毟り取られるかのようにその量を減らしていく。
召詠を行った相手はすでに地面に伏し気絶していて、制御は不可能だった。
水が沸騰していく音の中、鮮烈な炎が水の壁を超えて頬を掠め、後ろでクラレスが怯えるように身体を震わせた。
「っく!」
炎を支えている右腕が軋むような音を立て、それを何とか左腕で支える。
しかし、こらえる腕や足の努力も虚しく、ラインの身体は徐々に後退し始める。
重い、重すぎる……やはり、病み上がりの体では負荷に耐え切れない。
このままじゃ、後ろのクラレスまで。
(わかってない)
何だ? ……声?
(君はわかっていない、水の使い方・本質を)
何のことだ?
目の前を、赤と青の二色が揺らめく中、どこからともなく声が聞こえてきた。
それは、聞こえてきたというより、心に直接語りかけてきたといった方が正しい。
困惑するラインをよそに、声は、水に波紋を立てるが如く、胸中の隅々まで響いていく。
(水は命の源でありながら、すべてものが帰るべき場所)
そんなことはわかっている。
(わかっていない。なぜ抗い逃げる。水は何もかもを受け入れ、飲み込むチカラ)
受け入れるチカラ?
(そう、だから、そのために、
まずは、受け入れなよ 感情を……受け止めなよ『大罪』を)
声につられるように、深く、暗く、荒々しい何かが身体の底から湧きあがってくるのが感じられた。苛立つままに何かを叩き潰したくなるような、感じたことがないような衝動的な感情に呼吸が荒くなる。
感情が、呼吸が荒ぶるごとに、水の勢いは増す。
疼きはジワリ、ジワリと染み渡り、直に認知するすべてに広がる。
全身の血が沸き立つような感覚の中、ラインの口からは言葉がこぼれていく。
“遥かな蒼穹に広げた天翼
朽ちた身体に痛みを抱いて 破れ羽撃く その両翼”
こんな詩は知らない。なのに、まるで慣れ親しんだ言葉のように紡がれる。
紡ぐ音は水に伝わり、大きく脈打ち出した水は、大きなうねりを生んでいく。
まるで強大な生物のようであり、強く激しい鼓動がチカラの高鳴りを告示していた。
ラインは、流されるままにチカラに身を預けていく。
(水は体内を流れ、廻るもの。
喜び、怒り、哀しみ、楽しみと共にあり、生きるもの。
水、その本質は感情。己がすべてを支配する、心こそがチカラ)
声が止み、一瞬の静寂が訪れた。炎の燃え盛る音も、水の奔流さえも音を失っていた。その静寂の刹那、ラインの中で小さな異変が起こっていた。
異変とは音、何か小さなものが弾けるようなほんの僅かな音。
あまりにも軽く、あっけなく、騒音と窮地の中では気にも止まらない音。その音は、ラインの頭の中に響き消えていく。
けれど、その後、周囲の状況は一蹴された。
「これは――!?」
それは、ラインが紡いでいた水によるものだった。
脈動する水は、動きを止めたかと思うと、その身を黒く暗色へと変えた。
水のブレス特有の薄青から濃紺へ、濃紺はなおも暗い深海へ。
依然として危機が目前に迫る中、ラインはその黒色の水に釘づけになる。
黒という表現は、その水の前にはあまりに稚拙な表現。既存色で表せるものではなく、黒よりもなお暗く、夜空よりも孤独で澱んだ色。無音の深海を示すがごとく、いつの間にか周囲の喧騒はなくなっていた。
火蜥蜴は水に触れたとたん炎を吐くのを止めていた。
まるで、すべての主導権を奪われたかのように、なす術もなく、咆哮も、慟哭もなく水に吸い込まれ消えていく。
「お、終わ、った」
力なく立ちすくむ中、水は火蜥蜴と炎を飲み込み、静かに床へと染み込んでゆく。
後には、始めから何も存在していなかったかのように、種火ひとつ残っていない。
けれど、暗水の色だけは、ラインの目に焼きついてはなれることはないのだった。
「ラ……ン、……イン、ライン」
どこからか自分を呼ぶ声に、ラインは瞳を開けた。
すると、目の前に、体育館の照明を遮るクラレスの顔が見える。
体育館に倒れている自分、クラレスは泣きそうな顔でラインを呼んでいた。ラインは上体を起こしつつ。朦朧とした頭を回転させて状況を確認する。
暗い水が消えた後の記憶はなかった。恐らく気絶していたようで、気分の悪さにラインは立ち上がるのを止める。
「大丈夫だよ、生きてるから」
不安そうなクラレスに声をかける。白銀に輝く髪に手を伸ばし、指で髪をすいた。
「あの後、どうなった」
「どうって、ラインの水が火蜥蜴を消しんじゃないの?
ごめん、恐くて目を瞑ってたから、詳しいことはわからなくて」
話す中で、クラレスの瞳には涙が浮かんでいく。涙は今にも零れ落ちそうに、まぶたに溜まっていく。
「でも、静かになったと思ったらあなたまで倒れてしまって……本当に、本当にどうなるかと思ったんだから」
「そうか。ごめん、心配かけたね」
ラインはクラレスに手を伸ばしかけるが、その腕は途中で止まってしまう。
「いっ、痛!」
先ほど、炎を支えていたためか右腕に激痛が走った。肩を痛めているようで、ラインは思わず腕で肩をかばってしまう。
「ライン!」
クラレスは慌ててラインの肩に手をあて詠唱を始める。
彼女の詠唱は、その手に白い輝きを集わせ、手はラインの肩にしかと当てられていた。手の柔らかさ、温もりがとても心地よく身体に染みていく。
“ 解放 ”
そして、言葉と共にブレスが解放される。
すると、弾ける光の中、肩の痛みや、倦怠感までが少しずつ消えていった。。
「これは、風の創導。ヒーリング?」
軽くなった身体を起こし、クラレスの技能を賞賛する。
「驚いたよ、君がヒーリングを使えるなんて」
「何よ。実技は得意な方なんだから」
白い光の中、クラレスは涙の交じる声のまま、少しそっぽを向いた。
ヒーリングを受ける中、ラインは召詠をした相手が気にかかり、視線を向ける。
先ほどから倒れたままの女子生徒、特に異変はないようだった。
けれど、その傍らにあるものに目が留まる。それは、その女子生徒の制服に引っかかるように存在した、小さく、わずかに青白く光る何か。
「羽根?」
思わず、小さく声が漏れる。
それは羽根。中心の軸から柔らかな羽枝が生えそろった、空を飛ぶものが有する翼の一部。それは、何とも冷たく澄んだ輝きをしていて、思わず目を奪われてしまう。
「ライン、どうしたの?」
呆けるラインを不思議に思ったのか、クラレスが心配そうに声をかける。
「いや、ちょっと羽根みたいなものが見えて」
「羽根? どこにも見当たらないけど」
「えっ? そんな――」
しかし、視線を戻した時にはすでに何もなく、そこには生徒一人が倒れているだけだった。他に存在するのは、周囲のひっくり返った用器具だけ。それらに真相を聞こうにも、続くのは沈黙のみで何も答えは返ってこなかった。
見間違い? いや、そんなわけは――。
疑問は当然のごとく胸に影を落とし、更なる不安が押し寄せる。
けれど、自分の置かれた現実もわからずに、ただその場に伏していることしかできないラインには、そのときできることは何もないのだった。
「クラレスゥ~、戻ったわよぉ」
救急箱を片手に、軽やかにクルリと一回転するアニス。
しかし、出迎える二人に、そんな陽気な振る舞いができるほどの余裕はなかった。
「アニス――!」
クラレスが泣きながらアニスに抱きつく。アニスの顔を見て安心したのか、我慢していた恐怖があふれ出る。けれど、状況を理解できないアニスはそれに困惑する。
「クラレスゥ~! どうしたの、こんなに汚れてぇ……それにこの散らかった体育館。
まさかぁ~、ライン――」
アニスの言葉に思わず息を呑む、すべてを見通すかのような視線が突き刺さった。
「恐がるクラレスを無理やりぃ!?……だめよぉ、初めては誰だって不安な――」
「ち、ちがぁぁう!」
「えぇ、初めてじゃないのね~? おとなしい顔して、実は、経験豊富なの――」
「だぁぁからぁ――、どこを、どうとったらそうなるんだ!」
ラインの突っ込みが体育館に反響する。
「えぇ~、ありのままの捉えた結果よぉ」
アニスが不適に微笑む。いいように弄ばれているようで、ラインはガクリとうなだれる。
「でもぉ、さっきより酷いわねぇ。何があったの?」
救急箱を手にしたアニスは、混沌と化した体育館に目を見開く。
先ほど、ラインがアニスを見かけてからまだ10分強、その間に周囲の用器具がひっくり返っていれば、いくらアニスでも驚くのは無理もない。あれだけのことがあって、ものが壊れていないことが不思議なくらいだ。
「こ、これは」
言葉に詰まり、何かいい答えはないかと模索する。
気絶している生徒に火蜥蜴を召詠され襲われた、何ていっても信じてもらえないだろうし、でも、何もなかったというには無理がある。
「いいたくないならいいわぁ~、二人ともケガは大丈夫ぅ?」
アニスは難しいことには興味はないといわんばかりに話題を切り替える。
か、軽い、何て軽い。さすが、アニス、普段から周囲を焼け野原にしかけても気にしないだけはある。
アニスの態度に感心していると、ようやく落ち着いたクラレスが、涙を拭きながらラインに視線を向ける。
肩のケガを心配しているようだったが、これ以上、騒ぎを大きくしたくもなく、ラインはそれを笑顔で返す。
「なら後はぁ、あの倒れているお馬鹿さん~、もとい、イルダを何とかしなきゃねぇ」
アニスが倒れているイルダを指差し、つまらなさそうにいった。
「そういえば、あの子は気を失ってるみたいだけど、何かあったのか?」
「えっ!」
クラレスの顔が一変する。
「あ、あのね、あれは……」
いいにくそうに、口を開く。目線が泳ぎ、動揺しているのは明らかだった。
「不可抗力よぉ」
アニスがクラレスの代わりといわんばかりに淡々と答える。
まるで、それ以外に答えを持ち合わせていないかのように。クラレスは、そんなアニスに不安そうに目配せする。
「ア、アニス?」
「不可抗力よ、ねぇ~?」
「……はい」
クラレスは目をそらし、アニスの目も笑っていない。深く聞くのはよしておこう、ラインはそう自分にいいきかせた。
その後、アニスは先ほどの出来事について何も聞かず、その場はお開きなった。
「今日は体調を崩していたわけだしぃ、ラインはもう帰って寝てなさいねぇ~」
「そうだよ、ライン。後は任せてくれていいから」
二人は保健室へと向かっていく。
イルダの足を掴んで保健室へ引きずって行こうとしたアニスは、どこか不服そうにクラレスについていく。ラインは、そこで二人と別れ、部屋へと戻っていた。
何なんだ、あの水は。
ラインは部屋着に着替えると、電気もつけずそのままベッドに倒れこむ。その頭はすでに先ほどの異質な水のことで一杯だった。
ベッドの上、何もない虚空に手をかざす。
あの水は炎を消したんじゃない、まるで呑み込むみたいに火を還した。
水が現れたときの鼓動の強さを思いだし、思わず胸を押さえ込む。
今まで感じたことのない激しい高揚。
何かを破り捨ててしまうような荒々しさ。
身体を食い破られるような痛み。自分が、自分でないようだった。
自然と嫌な汗が頬を伝い、身体が強張る。身体がひどく熱く、それなのに凍えるくらい寒く。何かが自分の中で変わり始めている気がしていた。
ベッドの上で、ラインはうずくまるように身体を抱え込む。
自分の中で芽生えた何か、自分でも抑えられないようなそれが、いつしか隣にある大切なものを壊してしまうのではないか、そう思えてならなかった。
もう元には戻れないのか、流れ始めた水は、止めることはできないのか。
ラインは胸を掴み、身体を震え上がらせる。部屋の中には、くぐもったうめき声だけがこだましていた。
ダメだ、こんな調子だとまた、心配されてしまう。明日には、元に戻らないと。
ぼくが……ぼくが、クラレスを護らないと――。
けれど、どれだけ忘れようとしても、思い出さないようにしても、ラインの目には部屋の暗さよりもなお暗く、深く、はっきりと、あの水の色が目にこびりついて離れなかった。
そのまま、致し方なく目を瞑り、ラインは引きずられるように眠りに落ちていった。




