第二章 簒奪者対反逆者 その⑨
キリコとガウエルがあらたな戦いの場をもとめて屋敷内を駆けている同時分。馬車庫へとつづく石畳が敷きつめられた中庭の路を、リンチと彼の部下たちが血相をかえて走っていた。
彼らの目的はむろん燃えさかる屋敷から馬車を使って逃れるためだが、これが「敵前逃亡」であるとはリンチは微塵も思っていない。あくまでも一時的な「戦略的撤退」であると信じて疑っていない。
だからこそ、焦燥のあまり顔を青白くひきつらせながらも、語気を強めて次のように言いはなったのである。
「見てろよ、小せがれめ。かならずいま一度捕らえて、今度こそ断頭台にかけてやるぞ!」
決意というよりは妄執の誓いもあらたに、馬車庫から近衛兵たちがひきたててきた馬車に乗りこもうとした、まさにそのとき。ふとリンチはある重大な事実に思いいたり、あわてふためいた態で部下たちに質問を投げつけた。
「そ、そうだ。王女は……エリーナはどうしたっ!?」
「…………」
返答はなかった。
ギュスター伯爵もハーベイ男爵も、フロストも麾下の近衛兵たちも、皆、黙然とその場に立ちつくして王を見すえている。
屋敷の裏門から逃げだそうとしたエリーナを寸前で捕らえ、邸内の一室に閉じこめた。そこまでは彼らも知っている。問題はそこから先の、一室に軟禁したエリーナの「現状」というものを誰も知らないことだった。
否、じつのところ、彼らはエリーナが現在どのような状況下にあるかということは、あるていど推測ができた。
にもかかわらずそのことをリンチに伝えなかったのは、それを口にしたら最後、目もくらむほどの災厄がわが身に降りかかるであろうことを敏感に察していたからだ。
だからこそ彼らは王に問われても無言を保ち、その一方で眼球だけをうごかして視線をかわし、暗黙のうちに共通の結論をだしたのである。すなわち「余計なことは言わない」という結論を。
だが、彼らの無言の連携は、リンチが発した次のひと言で水泡に帰してしまった。
「し、しまった! 急いでエリーナをつれてこなくてはっ!!」
リンチにしてみれば、王女エリーナは、簒奪者という不名誉な呼称を消してくれる唯一の存在。
ここで失うことにでもなれば、前国王の義理の息子になるという計画がご破算となり、一生、簒奪者の汚名をかかえて生きなければならない。断じて失うわけにはいかなかった。
だが、狼狽する国王とは逆に、失ってもいいだろうと考える者たちもいた。
ギュスターをはじめとする家臣一同である。
「へ、陛下、この炎ではもはや手おくれにございます。ここは御身の安全だけをお考えくださいましっ!」
あんたが逃げなきゃ、われわれも逃げられないんだからさ。
リンチに退避を訴えるギュスターの口調と表情は、暗にそう主張していた。
むろんリンチとてギュスターに言われるまでもなく、自分の身の安全のことぐらい考えている。
だからこそ、屋敷の主人の肩に手をおきながら次のように命じたのだ。
「こうしてはおられん。ギュスターよ、近衛兵を何人かひきいてはやくエリーナをつれてまいれ。予はここで待っておるから安心するがよいぞ」
「へ、陛下っ!?」
まさかの王女救出隊の責任者に任命されて、ギュスターは悲鳴と同時に左右の眼球をとびださせた。
それも当然であろう。すでに屋敷の外壁は炎につつまれ、内にはもうもうたる煙と熱気が充満している。この状況で屋敷内に戻るというのは、まさに自殺行為にもひとしいことである。
それは誰の目にもあきらかなことであったのだが、「冗談じゃないよっ!」と叫びたげに血相をかえるギュスターを、リンチは毒炎のゆらめく目でじろりと見すえた。
「それともなにか、ギュスターよ。王女の死の責任を問われて爵位も領地も没収されて、もとの貧乏貴族にもどりたいのか。ああん?」
「…………」
かくして王女救出という勅命をうけたギュスター伯爵は、半泣きになりながら燃えさかる屋敷の中へと駆けもどっていったのである。
もっとも、そのギュスター以上に泣くに泣けない心境であったのは、救出隊員に指名された数名の近衛兵たちのほうかもしれないが……。
†
かさなりあう二種類の疾駆音がしだいにその音量を増してきた直後。重厚な鉄扉は異音を発してふきとんだ。
砂塵と埃とがもうもうと宙空に噴きあがる中、倒れた鉄扉を踏みつけながらまずガウエルが飛び出し、わずかに遅れてキリコも飛び出してきた。
疾走をつづける二人の行く手には、解放された空間がひろがっていた。
ガウエルが戦いの場に選んだ場所。それはギュスター邸本館の屋上だった。
屋上といっても、そこは市井の民家がゆうに十軒以上がおさまるであろう規模をもち、二人どころか、二十人で乱闘してもあまりある広さである。
レンガ材と芝とが床一面に敷きつめられ、四方には二メイル(約二メートル)ほどにも成長した常緑樹の植えこみが、まるで壁のようにめぐらされている。高台特有の強い横風がそこに吹いていたが、周囲から吹きつける火炎の熱気によってその風向きは一瞬ごとに変化していた。
その屋上の中央ほどにまで駆けいたったとき。ガウエルはにわかに足を止めて踵をかえし、赤毛の追跡者にむきなおった。
「どうだ、ファティマの猟犬。われらの戦いにふさわしい場所とおもわぬか?」
キリコも足を止め、その声に応えた。
「悪くはない。これでもうすこし涼しかったら最高なんだがな」
「フフフ、賛同いたみいる。では、まいるぞっ!」
吠えたけると同時にガウエルは床を駆り、手にする大剣が鋼の旋風となって打ちこまれてきた。
先刻の一撃をも凌駕する迅速で苛烈な一刀。だが、その苛烈な猛剣をまたしても後方にとびすさってかわすと、その間際、キリコは内懐から数本のナイフを手にとり、さらに猛迫してくるガウエルめがけて投げはなった。
数条の黒い閃光が宙空を飛翔し、ガウエルの顔面に殺到する。
せまりくるナイフの群をその両眼でとらえたとき、その口もとに嘲笑にも似た笑みがこぼれたのは不死の肉体の所有者ゆえであろう。
よけるそぶりすら見せずにガウエルは突進をつづける――かに思われたが、なにを思ったのか、ガウエルはとっさにふりあげた大剣を風車のごとく回転させると、殺到してきたナイフをことごとくはじきとばした。
けたたましい金属音と火花が一帯に飛散し、かすかな焦げる臭いが風に乗ってただよう中、ガウエルはたたきおとしたナイフの一本を手にとり、その刃面を指ではじいた。
鼓膜を刺激したその独特の金属音に、ガウエルの唇の端が意味ありげにゆがんだ。
「ふん、黒く塗装してはいるが、やはり銀造りのナイフだったか。あぶない、あぶない」
ナイフをほうり投げて薄笑いをたたえるガウエルを、キリコは苦笑まじりに見すえた。
いいカンしてやがる。その表情はそう主張していた。
「あいかわらず芸のない奴らよ。われら《御使い》には銀造りの武器をもって挑む。よくもそう使い古された陳腐な手を飽きもせずにくりかえせるものだな」
「使い古されたというのは何度も使われていることを意味し、何度も使われているのはそれじたいに効果があるからだ。有効な手法だとわかっているのにそれを使わない手はないだろう。ちがうかい、将軍?」
すると、ガウエルの面上に苦笑まじりの、だが得心の色がひろがった。
「なるほど、それも道理だ。だが、いかに有効な手法とはいえ命中らなければ意味はあるまい。ましてやそのていどの投剣術では、この私にはとうてい通用せぬぞ」
「そうかい? なら、こういうのはどうかな」
皮肉っぽい笑みが面上をかざった次の瞬間、キリコは床を蹴って跳躍し、今度は上空から手にするナイフを投げはなった。
まるで地表にふりそそぐ流星雨のように、きらめくナイフの群がガウエルにむかって降下していく。
「こざかしいまねをっ!」
吐きすてると同時にまたしても大剣を風車のごとく旋回させたガウエルは、このとき気づいていなかった。上空からせまってくるナイフの群には、二種類の軌道があったことに。
そのことにガウエルが気づいたのは、二本のナイフだけがにわかに軌道をはずれ、ガウエルの一歩手前の床に落下して火花と金属音をとびちらせながら跳ねあがったときである。
床に着弾したのも一瞬、鋭角度で上昇に転じた二本のナイフは、回転する剣刃を足もとからくぐりぬけてそのままガウエルの面上へと飛んでいった。
「跳剣だとっ!?」
驚愕したのも一瞬、ガウエルはとっさに剣を捨て、上半身をひねりながら後方に反らした。
およそ人体の構造上、ありえない角度への反りとひねり。それに神速の反射運動がくわわったとき、ガウエルは予想外の跳剣攻撃から身をかわしたかに見えたが、一本のナイフだけが右の頬をとらえることに成功した。
それはごくわずかなかすり傷であったのだが、ひと筋の鮮血が頬をながれおちた瞬間、たちまちガウエルの口から絶叫が噴きあがった。
「ぐわあぁぁーっ!!」
咆哮にも似た悲鳴が噴きあがった先にキリコは見た。
まるで猛火に灼かれたかのように、赤黒くただれたガウエルの顔を。
ひと筋のわずかな切り傷であったはずが、たちまち見るも無惨な悪化をとげたのだ。
しかし、ガウエルの変貌した半面を見つめるキリコの表情にはわずかな驚きもない。
むしろ、それが当然であるかのような態である。
「……おもえば《御使い》というのも、案外、あわれな生き物だよな、将軍」
赤黒くただれたガウエルの半面を見つめつつ、キリコはことさらに冷ややかな口調でつづけた。
「普通の人間ならかすり傷ていどですむものも、それが銀造りの武器による傷というだけで貴様ら《御使い》には致命傷となりうる。それほどの弱点をかかえておきながら超越者だの不死者だのと、よくも言えたもんだよ」
「き、貴様ぁ……!」
キリコを睨みつけるその両眼から灼熱の光がほとばしった。
それは「たかが人間」に負傷させられたことへの憤怒と屈辱の輝きであったが、それ以上にガウエルを赫怒させたのは、ガウエル自身が、否、おそらくはすべての《御使い》が無意識のうちに抱いている劣等観念――致命的な弱点が存在するいう事実――にむけられたキリコの嘲弄がガウエルの矜恃をしたたかに傷つけ、激発させたのだ。
ガウエルは大剣をかまえなおし、底光りするような眼でキリコを見すえた。
「ファティマの坊主どもにあごで使われる猟犬のぶんざいで、超越者たるわれら《御使い》を下に見た物言いをするとは増長のきわみもすぎる。真にあわれな生き物はどちらか、わが剣によって教えてやるべきだろうな」
「できるかね、将軍?」
「むろんだとも」
よそわれた平静さは急激にやぶれた。両者間の殺気が臨界に達した瞬間、二人は同時にうごいた。
一方は剣刃を閃かせて突進し、一方はナイフを投げはなって後方にとびすさる。
宙空を疾走したナイフの群は、猛然とふりはなたれた剛剣の前ではわずかな抑止効果も生まず、火花の発生とともにことごとく粉砕された。
「こざかしいわ、猟犬がっ!」
怒号につづく一撃はかわされた。
夜気を斬り裂いて打ちこまれたガウエルの剣は一瞬前までのキリコの立ち位置を粉砕し、レンガの破片とその粉塵を一帯に舞いあげた。
一方、苛烈すぎる一撃をかわしたキリコであったが、竜巻のようにくりだされる猛剣の前にナイフを投げはなつ隙すらつくれず、体術を駆使して左右後方にとびかわしつづける。
さしものキリコもかわすのが精一杯のように思えた。すくなくともガウエルの目にはそう映っていた。
「どうした。猟犬のくせにネズミのように逃げまわるだけかっ!?」
嘲罵とともに一閃した猛刃がキリコの頭上に落下してきた。が、その落下は途中で中断された。
まがまがしい剣光が頭上に炸裂する寸前、黄金色の光につつまれたキリコの両手が一瞬の動きでその剣刃をはさみ止めたのだ。
まさかの真剣白刃取りに、ガウエルの両眼が驚愕に濁った。
「し、白刃取りだとっ!?」




