6 ナンパ男と黒い影
さあ、最後の話もまた、ある夏の夜に起こった出来事。この話もまた、車に関わる出来事となっている。どうか、私の話を聞いていってほしい。
あれはまだ、私が大学生で独り暮らしをしていた時のこと。
安い下宿を利用していた私は、毎日銭湯通いをしていた。土地が京都市内ということもあり、銭湯はそこかしこにあり、日によって彼方へ通い、翌晩はこちらへと、気分によって通っていた。最初こそ面倒だと思っていたが、近くに従姉妹も独り暮らしをしていたこともあり、共に通うのも楽しみとなっていた。
その日は一人で銭湯へ通った。
一番近くのそこへは、自転車ではなく歩きで行く。さっぱりとした気分で銭湯を出れば、夏の蒸し暑さも多少は和らぐ。
大通りから一本入り、街灯もまばらな道を通る。ふと、背筋にぞくりと寒気が襲う。
違和感を感じたのは、アスファルトの上。まるでそこだけ街灯の灯りが届かない、そんなスポットがあるのかと思った。
車道の真ん中に、黒い霧のような塊。
それを自覚したとたん、私は冷や汗をかきながら、咄嗟に視線と意識を外す。視界から消えたはずなのに、体の芯から震えがわき上がる。
とぐろを巻くように、ただ暗く黒くそこにある何かの脇を、通りすごす。意識せぬよう、息を潜め、沸き上がる悲鳴をこらえながら。
なんなんだろう。うっすらと人影を見かけることはあるが、明らかにソレは違う。なんというか、悪意の塊のような。
歩道の端に不自然に寄りながら、家路に急ごうとしたその時、一台の茶色のセダンが通りかかった。その車はなんと、あの黒い霧の塊のあたりで、キキッと停止した。
ぎょっとして振り返ると、その車はゆっくりとバックしてくる。走って逃げたいが、体が動かない。
私の横に着けた車のウインドウが、ゆっくり降りる。
「ねえ、暇? 一緒に遊びに行こうよ」
二十代後半だろうか、運転席の男性が声をかけてきた。にやにやと、あまりガラが良さそうではない。私は先ほどまでの緊張から一転、妙に寒々しいその声に、とてもじゃないが長く話していたくはなかった。
「いえ、結構です」
ただそう伝え、通りすぎようとした。車の男も、何も言わずにウインドウを上げて、車を出す。あっさり引き下がってくれて、私は心底ほっとした。だが、ふと振り返る。
そこには街頭から取り残された暗い影も、とぐろを巻く霧も、跡形もなく消えていた。
それから数日。
同じ通りで何度か茶色のセダンを見かけた。私にしたように、若い女性の横につけては、車中から声をかける。
変質者でなければいいが。そんな風にながめつつ、再び声をかけられぬよう、気をつけていた。
だがしばらくしないうちに、大学の掲示板で不審車に注意のチラシを見かけるようになったのだ。
その日の帰路。
まださほど夕暮れも遠い午後だった。大学帰りにコンビニに立ち寄り、出たところで茶色のセダンと出くわした。
スーっと下がるウインドウの中を垣間見て、私は凍りつく。
「ねえ、一緒に遊ぼう」
運転席の男と並ぶようにして、助手席には黒い霧の塊。伺うように首をかしげる男と、ぴったりと添うように、黒いものも微かに蠢いていた。
ああ、あの時。アレは彼について行ったのか。
私はそう悟り、努めて冷静に断りを述べた。
「いえ、結構です」
虚ろな目が前を向き、ウインドウを上げて車は走り出す。そして数メートル先にまた獲物を見つけ、声をかけている。
震える足を懸命に動かし、下宿先にたどり着くと、私は力なく座り込んだ。先ほど見た、異様な光景を思い出しながら。
その翌日、変化が起きた。朝から通りには何人かの警官が、交差点ごとに立っていた。咄嗟に私はあの車の男が何かやらかしたのではないかと思ったが、結局真相は闇の中だ。
ただ言えることは、その後、茶色のセダンを見かけることはなくなり、大学の掲示板からもチラシが撤去されたという事だけ。
あの黒い霧は、今も彼と同乗しているのだろうか。それもまた、私には分からない。いや、知りたくないというのが、正直な気持ちだ。
これにて完結です。