江川の考え
小夜はやはり大奥に戻ることを決意した。
あかりは手紙を待て、と言ったが、何より情報が手に入らない立場には耐えられなかった。
――しかし、どうやって帰る――
一介の町の女となった今、誰が自分を大奥の御年寄り、などと認めよう。
しばらくたって思い浮かんだのは、鍋島斉正のことだった。
『彼に相談すれば、何とかなるかもしれない』
そのためには、まず佐賀鍋島藩の江戸上屋敷の場所を調べるところからだった。
「お、ここだ。山下御門内だよ、こりゃ」
奉行所の下っ端役人は、大仰な声をあげた。
鍋島藩の上屋敷は江戸城の外堀ぞいにあった。さすが、大大名である。小夜は書いてもらった地図を持って奉行所から出るところで、不意に声をかけられた。
「小夜どのではないか」
それは江川太郎左衛門であった。
小夜にとって何とも時機の悪い再会だ。
「ずっと探していましたぞ。家のほうに行っても、ずっと留守で」
「申し訳ありません」
気まずい思いから目を合わせることが出来ない。江川は、一瞬で何かを感じ取った。
「今から団子でも食べに行きませんせんかな」
そうだ。江川には、きちんと断らねばならない。
「……はい」
小さいながらもハッキリとした声で小夜は返事をした。
江川太郎左衛門は、簡易な軽食も出す料理茶屋に入った。
そこは個室となっており、寄合、饗応から句会や碁会などの用途に使われていた。上流階級の女性としての生活しか知らない小夜はキョロキョロしながら後に続く。
「めずらしいですかな」
「はい」
江川は慣れた様子で注文をすると、話を切り出した。
「いやー なかなか翻訳が進みません。やはりエゲレス語から蘭語に直して、また和訳するという作業がニ度手間で……」
「あの、そのことですが、江川さま」
ん?という顔をする江川。
「わたくし……その、翻訳のお仕事が出来なくなりました」
「なんと」
何かあることを予測していた江川はさして驚くでもなくそう言った。
「本当に申し訳ございません。もちろんライフル砲のことは決して他言いたしません」
しばらくの沈黙。
そして
ふう、と江川は息を吐いた。
「小夜どの」
小夜は頭を上げられなかった。
「もし、よろしかったら理由を話してくれませぬか。いや、翻訳のことは少し置いておいて。あなたと分かれて何があったのか。どうして雲庵はずっと休業なのか」
「休業?」
「〝しばらく留守にするので休業します〟という張り紙が貼ってあったのだが、知りませんでしたか」
「あ、はい」
ふたたび沈黙がふたりを包んだ。小夜としてはどう説明していいか分からなかった。雲庵のことやあかりたちの裏のことは知らないのである。しかし、自分のことなら分かっている。大奥に帰りたい、という意思だ。
小夜は、江川に帰る手立てを相談してみたくなっていた。鍋島斉正に頼ろうとしたが、本人が国元から帰ってきているかも不明なのである。協力者は多いほどよいのではないか。
小夜は意を決した。
「江川さま、わたくし、大奥の年寄りでした」
一言ずつ言葉を区切りながらはじめた。それを聞いて江川の目が少し大きく見開かれた。
「年末の江戸城の火事をご存知ですね」
「ええ」
「あの火事でわたくしは焼け出されたのです。もちろん故あってですが。一時はもうこのまま町で暮らそうと決意しておりました。ですが、そうも言っていられなくなりました。大奥に帰らねばならないのです」
小さく息を吐いた江川太郎左衛門は、おだやかに微笑んだ。
「あなたさまが、帰らねばならない、と決めたのでしたら、それがよろしいのでしょう」
「それが……分からないのです。江川さま、わたくしがどうやって江戸城、大奥に戻ればよろしいのでしょう」
その後、小夜が大奥では焼け死んだことになっていること、雲庵で山吹が殺されたこと、それが大奥や幕府の問題と関係あること、などを話した。
「うーん」
江川はうなりながら目をとじた。そして、うなりながらあっちを見たり、こっちを見たりして何か考えているようだった。
「出来るかどうか分かりませぬが、やってみましょう」
「では?」
小夜は期待で目を輝かせた。
「少し……段階が必要ですがよろしいですか。何しろ、大奥は表からの攻略は全く効きませんからな。ましてや、小夜どのは、失礼、月島さまは死んだことになっておられるのですから、これを覆すとなると……並大抵ではございません」
「時間がかかりますでしょうか」
「うーん。月島さまの働きによりますな」
「わたくしの? わたくしは何をしたらよいのでしょう?」
「翻訳です」
「え?」
意味が……分からない。
「とにかく、こちらの資料の翻訳をしてください。うまくいけば三ヶ月ほどで大奥に帰れるでしょう」
「どういう意味ですか」
江川太郎左衛門はにやりと笑った。