夜に落ちる【前】
「……」
日が変わる直前、目当ての部屋の前まで来たフェルドリックは、扉に手の甲を向けてふと我に返った。
廊下のそこかしこに設置された灯火からの光に照らされる扉を、じっと見つめる。
この先にソフィーナがいる。が、こんな夜更けの訪問はさすがに配慮に欠ける――そう気づいたら手が動かなくなった。
しかもノックの後にフェルドリックを出迎えるのは、彼女の乳妹であり侍女でもあるアンナだ。
優秀極まりない彼女は、王太子であるフェルドリックにそつなく応対してくれるだろう。同時に、ソフィーナ思いの人でもある。間違いなく『先触れ一つなく、しかも深夜のご訪問? また?』という至極まっとうな非難を、にこやかに笑いながら婉曲に慇懃に突きつけてくる。
(疲れ果てている身で、あれを正面から受ける勇気はない……)
フェルドリックは無言で手を下ろした。
「……」
後頭部に護衛の近衛騎士の視線が突き刺さっているのを感じる。真面目で忠誠心の篤い彼のことだ、一体どうしたのかと怪訝に思っているはず――先触れを入れていないのにこの時間帯に女性を訪ねるという非礼も、王太子がその妻の侍女を恐れるという状況も、彼のような人間にはあり得ないからだ。
「殿下、いかがなさいましたか」
「いや、やるべきことを思い出した。部屋に戻――」
「あ、やっぱりここだった、間に合ってよかったあ」
平静と何気なさを装って踵を返した直後、廊下の端から場違いな声が響いた。
「……フォースン」
「殿下、これ、急ぎです、確かに渡しましたからね? 私、明日休みなんで、呼び出さないでください、絶対ですよっ」
自らの執務補佐官が書類を掲げて、こちらへと走ってくる。
着崩した襟元に、考え事をしている時の癖の名残でぼさぼさになったままの髪、傾いた眼鏡、昨今の激務のせいでできた目の下のクマ……どう見ても不審者だ。
「ルバルゼ補佐官、いかに火急の用件であっても、殿下に対してのご無礼が過ぎる」
「いやー、すみません」
近衛騎士が苦言を向けたが、気にするフォースンではない。懲りた様子もなくへらりと笑い、騎士からさらなる渋面を引き出した。
「真夜中、しかも妃殿下のお部屋の前だぞ……?」
「ええ、予想的中です」
それも意に介さず、それどころかフォースンは胸を張った。嫌な予感に、フェルドリックは右眉をピクリと動かす。
「疲れ果ててそろそろ妃殿下のお顔が見たくなっているに違いないと察して、急ぎ走ってきた次第です。ついでに、迷惑になるかもと今更思い至って入室を躊躇しているはずという予想も当たりまし――」
「っ、フォースンっ」
焦って遮れば、その瞬間『ヤバい』とでも言うように顔を引きつらせた彼は、驚くような素早さで扉をノックした。そのまま脱兎のごとく逃げ出す。
「アンナさん、あとよろしくっ、おやすみなさいー!」
「ちょっと待てっ」
「…………お引止めしなくて大丈夫です、全部聞こえておりましたから」
「っ」
扉が静かに開き、隙間からアンナが顔をのぞかせた。
その目に呆れがあるのは仕方がない。が、対象が自分だけだというのは納得いかない。
ため息とともに中に通された。奥の応接の間で、ナイトドレスに身を包んだソフィーナがくすくす笑っている。
「いらっしゃい、フェルドリック。お茶か香草茶でも召し上がりますか」
さっきのフォースンの言葉は、彼女にまで聞こえていただろうか。
夜更けに訪ねてしまった気まずさも手伝って仏頂面をしているはずなのに、ソフィーナはそのフェルドリックと目を合わせるなり、蕾が花開くかのように微笑んだ。
「……」
その顔に魅入られる。さっきまで全身に漂っていた倦怠と気恥ずかしさが、嘘のように消えていった。代わって、痺れるような幸福感が生まれてくる。
(――……ダキシメタイ)
体の内に生じた衝動に動揺して、慌てて視線を彼女から引きはがした。
「?」
聡い彼女が怪訝な顔をしたことに気づいて焦り、「あー、茶より何よりとりあえず寝転がりたい……」と零してみせれば、彼女は「疲れが過ぎてすぐには眠れない感じでしょうか」と心配を顔に乗せた。
それから飾り棚に向かい、「なら、ゴロゴロしながら、眠くなるまで一緒にオテレットで遊びましょう」とボードゲームのセットを手に取る。
穏やかな声と優しい気遣いに口元が綻んだ。
「……」
どうしようもなく締まりのない表情をしている――我に返るなり、フェルドリックは顔を隠すべく前髪をわしゃわしゃと掻き乱した。
「寝室の明かりを灯してまいります」
アンナがくすっと笑って隣室に入っていった。
しばらくして出てきた彼女に、フェルドリックは「君ももう休んでくれ。こんな時間にすまなかった」と声をかける。
気まずさを隠しきれなかったせいだろうか、アンナは目を丸くした後、「もったいないお言葉です」と微笑んだ。
「どうかお気遣いいただきませんよう。ソフィーナさまもここのところずっと夜更かし気味なのです――フェルドリックさまの訪れをお待ちのようで」
「アンナっ」
アンナのいたずらを含んだ視線を追えば、ソフィーナが顔を真っ赤に染めている。
つられて顔に血が上ってくるのを感じて、フェルドリックは左手で顔の下半分を覆いつつ、彼女たちから顔を背けた。
「では、両殿下、お休みなさいませ」
静々と頭を下げて下がっていくアンナの声は、微妙に笑っている気がする。
いい性格をしているのは、どうやらフォースンだけではないらしい。







